第十九話 苦悩 -1
正式な夫婦になると勝手が違うものだ。長いこと幼馴染みでいた。やっと抜け出せて恋愛に発展し、結婚。同じ相手なのに、三段階目の今、どうも自然でいない自分を感じる。
最初は良かった。お互いにこの関係が新鮮でただ楽しくて楽しくて。帰宅が嬉しくて。仕事も順調だ。ジェロームものめり込むように仕事をしていたが徐々ににペースを掴んできたようで今の関係はベストと言っていいほどだ。
なのになぜか帰る足が重くなり始めた。楽しくしてやりたい。幸せにしてやりたい。毎日笑顔を浮かべさせてやりたい。けれど、そろそろ会社の面白い部分の話も尽きようとしている。
(今日は? 今日は何を話したら笑ってくれる?)
それが見つからない日が出てくると帰るのが不安になる。
そして、ある夜。
(今日は話すことあるぞ!)
たいしたことではないが、昼間和田が持ってきた赤ん坊の写真のことでちょっとした諍いがあったのだ。本当にどうでもいいことだったのだが、その時の和田のバカ親っぷりがなんとも言えず可笑しかった。
それを話している最中。突然、真理恵が泣き出してしまった。
「花くん……なんだか息苦しそう……」
何を言いたいのか、分からない。
「なんで? どうかした? 俺、どこも悪くないよ」
「違う……花くんが困ってるって感じるの……私と喋るのに困ってる……」
どうしていいか分からなかった。そんなことないと否定するべきなのだ、困ってなんかいない、二人で楽しく過ごしたいんだと。笑い合って支え合って相手を思い合って。
なのにその姿がもやもやとしていて掴みどころが無い。
(どう、夫婦でいたらいいんだろう?)
泣かれたこともあって焦りが出てくる。花は言葉を出せずに、ただ真理恵を抱き締めた。
(愛してるのに……)
「花くんが好き。夫婦だなんて夢みたいでとても嬉しいの。でも……なんだかその夢から出て来れないみたいで……」
花にしがみついて、真理恵はいつまでも泣いていた。
朝は寝不足のまま出勤した。真理恵を胸に抱いたまま横になっていたが、一睡もできなかった。
(俺……夫として失格だ……)
会社の駐車場でハンドルの上に体を預けた。
(あんなに不安がらせるなんて。でもどうしたらいいんだろう……みんな普通に夫婦になってるのに。父さんも母さんも。茅平の家も親父さんと女将さんも夫婦らしいのに、どうして俺とマリエは違うんだろう?)
時計を見た。もう時間だ。オフィスに上がっていった。
ジェロームからその質問が出たのは午後だった。
「花さんはいつ頃一人前になったんですか?」
不思議なことを言うと思った。
「一人前? そんなもん、まだなってないよ。ラインなんて無いんだからさ。課長に言われたんだ、満足したら伸びないぞって。その時には意味が分からなかったよ、満足できるように頑張ってたんだから。でも最近分かるようになってきた。結局さ、自分を潰すのは自分なんだってね」
どこか考え込むジェロームに何が不安なのか聞く。
「花さんの言うことがホントなら……頑張っても頑張っても満足しちゃいけないってこと……でしょ? じゃ、一生満足できない?」
「そんなことないさ! ちょっとしたことに充実感が生まれるんだ、仕事って。その充実感のもっと大きいものがだんだん欲しくなっていくんだよ。つまりさ、」
そこまで言ってハッとした。
『どこまで行けば満足出来る?』
(俺って自分の結婚が何かの型に当てはまれば安心するのか? 誰かみたいにとか)
ジェロームの言葉が続いた。
「広岡さんが言ったんだ。『初めての仕事もらった時は気追いこんじゃって、ドジ踏んだらどうしようとか頑張りが足りないんじゃないかとか』って思ったって。でもどうしたら気負いこまなくて済むんだろう。一人で頑張らずに頼ればいいだけだって言われたけどよく分からない」
花が自分の話を聞いていないようでジェロームは言葉を切った。
「花さん?」
「そう……だよな。一人で頑張るからだめなんだ……一人でどうにかしようなんて。一緒にいるのに。支え合うってそういうことなのに」
「ね、花さん、どうしたの? 花さん」
「ごめん、ありがとう! 今いいこと教えてもらった! ジェローム、広岡さんの言う通りだよ。頼っていいんだ、抱え込まずに。課長の言った満足したら伸びないって言うのはさ、満足しちゃいけないってことじゃなかったんだ。そこで止まっちゃわずにまた歩けってこと。人のまねなんかせずに気負わないで」
帰り。花屋の前で止まり真理恵の好きそうな花を買った。次はケーキ屋だ。2個買う。
「ただいまー」
「お帰りなさい!!」
飛びついてきた真理恵に驚いた。
「どうしたの?」
「花くんの声が明るくって嬉しいの!」
「……ごめん。不安にさせてた。はい、お土産」
花を渡すと目を丸くしている。その目が急に細くなる。
「浮気、した?」
「なんで!」
「男の人って、奥さんに悪いことしたら花を送るって」
「……そうかもしんない」
「花くん!」
「待って、すぐ着替えるから」
脱ぐそばから真理恵が片付けていく。履き古したジーンズ、ゆったりしたくすんだオレンジのセーター。真理恵はベージュのふわっとしたセーターに茶色のロングスカート。
「これもお土産。マリエの好きなショートケーキとフルーツタルト」
受け取ったケーキはテーブルに置いて、ソファに座った花の隣に座った。
「ね、怖い。どんな悪いことしたの?」
「俺ね、無理してた。マリエの前で」
「……窮屈だった?」
「そういうんと違う。見栄張ってたんだ、お前に」
今日は今の自分のことを素直に言えそうな気がした。
「マリエの笑顔が好きだしさ、笑うってことは楽しいからだろ? だから笑ってほしくって、楽しい話を毎日探してたんだ。毎日笑って過ごせたらいいなって」
「そんなの無理だよ」
「そうなんだよな。けど俺はそう思っちゃったんだ。今日ジェロームに仕事上のことでいろいろ聞かれてさ、それに答えてるうちに自分のおかしいとこに気づいたんだよ。楽しむんじゃなくて、楽しくすることに一生懸命になってた。作った自分をいつの間にかお前に見せようとしてた」
「私、無理させたかったんじゃないよ。だって一緒ならそれだけでいいもん」
「そうだよな……いつの間にか欲張って見栄張ってた。ごめん。でも、分かったらすっきりした! 言えばよかったんだ、こういうことも。そしたらきっとマリエが教えてくれてたと思う。だからお前の前では素直になる」
「うん……嬉しい!」
「でさ、今日は夕飯作っちゃった?」
「作ったよ?」
「明日食べられそうなもの?」
「それは大丈夫。シチューとサラダ。サラダはこれからパッと作るつもりだったし」
「じゃ、デートしよう! ドライブしてどこかで食事しよう。気分一新だ。シチュー、明日の朝食べたい。ほら、用意して。その上にコート羽織るだけでいいから」
ドライブをして、途中で見つけた小さなレストランで食事をした。
「花くん。私も何度か躓くと思う。だから助けてね。そうやって一緒にやっていこうね。きっとそんなに前と違わないんだって思う。笑っているうちに悲しくなるような気持になるのはやめようね」
「間違ってたよ。真理恵にとって理想の男性になりたかった。俺は俺なのに」
「ばか、理想の男性は花くんなのに。花くんは自分を追っかけてたんだね。それすっごく可笑しいよ!」
「言うな!」
赤くなりながら、真理恵の笑いに釣られて自分も笑い出してしまった。
(なんてこと、なかったんだ。何を頑張ってたんだろう?)
今となればよく分からない。
帰ってからケーキを食べる真理恵に追いかけ回された。
「いいって、全部食べろよ!」
「美味しいんだよ、一口でいいから食べてみて!」
「嫌いなの、知ってるだろ」
「でも、一口」
「いいって! 無理っ!」
「じゃ、あげないっ」
最後の一口が真理恵の口に入って、ようやく追いかけっこが終わった。
真理恵はソファで笑い転げているし、花は床に大の字になってはぁはぁと息を継いでいた。
「ね、ジェロームくんのこと」
「なに?」
「どうなってるの? 弁護士さんと花くんも話してるでしょ」
「何が正しいのか……俺には良く分からないんだよ。セックス狙いだったって訴えると辛い思いするばっかりだって俺は知ってる。だから正直勧めたくないんだ、本当のこと話すの」
花はラグに座り込んで胡坐をかいた。
「俺さ、あいつを助けたい。実質的にどうできるか分かんないけど、放ってなんておけない。訴えるって決めるならなんでもしてやるって言ったんだ。でも決めかねてるんだよ、あいつは」
あの時の花の苦しみをずっと見ている。結婚式で会ったジェロームはすごくナイーブに見えた。どうして二人のウマが合うんだろうと、不思議になるほど花とは性格もタイプも全く違う。けれど一つ全く同じ部分が見えた。
傷つきやすいということだ。花も内面はひどく傷つきやすくて、だからそばにいずにはいられない。ジェロームはその花よりもさらに……
「花くん、自分が辛くなっちゃダメだよ」
真理恵の頬にキスをする。いつだって真理恵は自分を心配してくれるのだ。
次の日。部長のところで弁護士と会ってオフィスに戻ったジェロームの顔は青ざめていた。
「どうだった? 弁護士は何て言ってた? アイツがお前をストーカーしてたの、なんでも証言できるからな」
「あれ、訴えないです。あれこれ……話さなくちゃならなくて……起きたことを細かく」
「……ごめん、俺が一番分かってるはずなのに」
泣くまいと口を引き結んでいるのが分かる。
「でも、そうするとどうなる? なんでアイツがお前を街中で襲ったのか、理由はどうするんだ?」
「分からないって……そう言うつもりです」
「理由、言わなかった場合はどうなるって?」
「殺意が認められなければ執行猶予になるだろうって……」
「そんなバカな!」
ああいうタイプが解き放たれた後、どういう行動に出るのか予測がつく。
「なぁ、俺だってすごく抵抗あるけど訴えてみないか? 俺たち力になるよ」
「でも」
「イヤな思いするの、分かってる。けど、また襲われるよりいい。俺はお前が拒んでるのをこの目で見てるんだからちゃんと証言できるよ」
「少し……考えます。今は仕事してたいです」
結局被害者が一番苦しむ。被害者に優しくない法の世界。[正しいこと]を行うために被害者を素裸にし、裁判と言う名のもとに晒すのだ。
『まだ仕事中でしょう?』
「ごめん、今日遅くなるかもしれない。ジェロームのことで課長と話しようと思って」
『何かあったんだね?』
「傷害罪だけになった場合、相手はすぐに釈放されるかもしれないんだ」
『なんで!?』
「軽犯罪だからだよ。初犯だし」
『そんな……力になってあげてね』
「うん。頑張るよ」
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