第10話

 スニーカーを脱ぐと、6月に蒸された僕の足は、熱気や湿気などの忌まわしいものたちから解放された。僕は、皺だらけのベッドに座るしかなかった。地平線に沈んでいく夕日よりもゆっくりと時間をかけて深く、深く、身体ごと沈んでいく。




 あの日、夕暮れの理科室の片隅で京の左手首を見たとき、僕は溺れた。クラスの誰も知らない京の秘密を僕だけが知っている。僕よりも下に位置すべき人間が確かに存在している。彼によって与えられた優越感に僕は、まんまと溺れてしまったのだ。授業中、京の後ろ姿を眺めては、その白いシャツが隠す傷を思って何度も高揚した。毎週送られてくるリストカットの写真を確認するたびに、こんなものかと心底見下した。京の存在が赦されていることを知って、見て、僕も赦されるべきだと思った。京の存在を意識することで、僕はかろうじて生きながらえていたのだ。

 ところが京もまた、水槽のメダカを真上から傍観するように、冷ややかに僕を見ていた。京の頭蓋に満ちる優越感という脳液のうえきの中で、僕は沈んだり浮かんだりしながら、つまりは飼育されていたのだった。僕の意志ではなく京の意志によって、死なないための餌を与えられていた。僕を精神科に同行させたのは、脳液に浸かり、ふやけて、消滅しそうになっていた僕を蘇生するための試みだったのだろう。リストカットは肉体的な痛みなどではなく、僕という麻薬で生の痛みを緩和するための手段だったのだ。




 ピロン。


 ポケットからスマホを取り出す。

 まさか、母親からだ。


しゅうちゃんの内定が決まったので、親戚も集めて近々祝賀会を開こうと思います』

 


「…はは」


 渇いた笑い声は、橙色に熔けて消えた。




 ベッドから立ち上がると、僕は部屋中を探し回った。膿を、排除しなければいけないと思った。針があればよかったのだが、がらんどうの部屋にそんなものはなかった。

 キッチンの引き出しにカッターを見つけた。どうしてここにあるのだろう。最後に使ったのはいつかと考えてみたが、分からなくなってやめた。


 右手の中指は、今朝と比べ随分と悪化しているようだった。指全体が、あるいは体全体が赤々と膨張し、内部は膿んで、激しく脈を打っている。


 左手でカッターを握りしめる。カチカチカチカチ。1cmほど刃先を出して、脈打つ心臓に押し当てる。白濁した流動体は、薄く張られた皮膚のなかをぐにぐにと移動し、加減された僕の力をかわす。


 脳天締めをするように、急激かつ強大な力を刃先に込める。薄い膜は張り裂けて、白と赤が混合した不透明の液体が周囲に飛び散る。


 やがて血液は指先を伝って、乾いたステンレスシンクを律動的に叩く。瞼から溢れ落ちる涙はその裏拍をとるようで、なんだか心地がいい。


 


「ジジッ」


 蝉の声が遠く響き、途切れた。一瞬、京の視線が僕を捉えた気がした──が、その目はどこにもなく、誰もこの傷を見ようとはしなかった。

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ダイラタンシー @p-zombie

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