V.  雷が言ったこと(あるいは言わなかったこと)


 雨は降り続いていた。どこかで雷鳴が響くのが聞こえた。

 男は朝から女の姿を見つけられずにいた。何か用事でもあるのかもしれないとも思ったが、理由のない胸騒ぎがした。

 男は女の部屋がどこか知っていた。男は足早にそこへ向かった。大理石の床が硬い音を立て、壁に反響する。


 女の部屋の扉は半開きだった。男は少し躊躇い、それから扉を引いた。

 そこには女がいた。女はすっかり荷造りを終えていた。

 女は男の姿を見ても驚かなかった。


「ああ……きっと来ると思っていた」


 男は動揺を隠さずに言った。


「ここから去るのですか?」


 女は頷いた。


「ええ」

「私に別れも言わずに……?」

「いいえ。あなたがきっと来ると分かっていたもの」


 男は荷物を見回し、再び尋ねた。


「ここから去るのですか?本当に?」


 女は自分の荷物に目をやりながら言った。


「私、彼と結婚することにしたわ」


 稲妻が閃いた。

 男はその言葉を理解するのに時間をかけなければならなかった。


「なぜ……?」

「終わりが来ると分かったから、なにもかも」


 低い雷鳴が轟いた。

 男は無言で首を振った。

 女は乾いた笑みを浮かべた。


「ねえ、どうして傷ついた顔をしてるの」

「あなたは……彼を愛してはいないでしょう」

「どうかしら。どちらにしろ、たいした問題ではないの」

「なぜ?」

「終わりが来るからよ」


 男は女に向かって一歩踏み出した。


「もし彼が──死ぬまであなたを愛し続けたとしたら?」

「そんなことは起こらないと思うわ。もし起こったとして……あなたが傷つく理由は?」


 男は女にもう一歩近づき、その頬に触れた。

 いまに至るまで、男は女の名前を知らなかった。だからこう言うしかなかった。


「インディゴ……」


 女は男の目を見つめた。


「あなたはかつて恋人を愛したように誰かを愛するでしょう。でも彼女への愛があった場所は空虚なままよ。誰かを愛する度に、あなたの中には空洞が増えていく……」


 女は目を逸らし、男から離れた。


「私は違う……私ははじめからなにもない、空洞すら存在しないわ。私はただなにがが生まれ、育まれ、死んでいくのを眺めているだけ……そう、行き着く先は終焉、なにもかも……」

「私は──」

「何も言わないで」


 女は男に向き直り、そっと頬に触れた。

 女は言った。


「私の世界を壊さないで」


 二人は長い間見つめ合っていた。

 雷が唸る。

 男はひび割れた表情で言った。


「では……これで終わりなのですね」

「そうね……」


 男は何か言いかけたが、その言葉は心に繋ぎ止められたまま、飛び立たなかった。

 男は女に向かって静かに微笑み、去った。

 扉は閉めず、半開きのままだった。


 女はしばらく、その中途半端に開いた空間を見つめていた。それから荷造りの続きをしようとしたが、何かの衝動にかられて扉に向かい、廊下に出た。

 そこに男の姿はなく、戻ってくる気配もなかった。女は安堵と失望を同時に感じた。

 女は部屋に戻り、バルコニーから海を眺めた。雷鳴は遠のいている。


 始めなければ、終わることもない。日没後の空、ヒヤシンスの香り、海の青、あるいは雷鳴、そういったものが、男に女を思い出させるだろう。彼女の不在を埋めるものはなにもない。

 女は来た時と同じようにひっそりとこの地を去った。

 雲が晴れ、海は青さを取り戻し、静寂がやってきた。

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The Woman in Indigo 藍色の女 f @fawntkyn

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