第7話 動き始めた悪意
スーパーいのせ、の看板を通り過ぎる。
店の裏の住宅が、
上葉がヘルメットを外しながら、同じようにZRXを見る。
「これ新古車かな。綺麗すぎない?」
猛が言うと、上葉は「きっと手入れが良いんだろ」と、呟いた。
ZRXを横目に、住宅の玄関に向かう。バイクの持ち主が、龍樹の兄である事は、すでにわかっていた。
インターホンを鳴らすが、住民の声は返ってこない。
「鍵、閉まってるな」
庭を見渡すと、奥に小さな畑があり、そこに人影があった。
龍樹の祖母の様だった。
「あの、こんちは。龍樹はどこか出かけましたか?」
老婆は振り返り、「え? ああ、お友達?」と、汗を拭いながら腰を伸ばした。
「あの、龍樹は……」
「何か、飲んで行くかい? こんなに暑くっちゃ、仕事にならんね」
「あ、いえ」
老婆は猛の横を通り過ぎて、住宅の方へ歩いていく。
猛は老婆の背を見、その先でこちらの様子を見ている上葉に苦笑いを送った。
老婆が住宅の鍵を開けて、中に入っていく。
「猛、龍樹は? バアさん、何て?」
上葉はTシャツの袖で頬を伝う汗を拭いながら言う。
「いや、何か、飲んで行けって」
二人が玄関先で立ち呆けていると、老婆が盆に麦茶を注いで持ってきた。
「ほら、飲みんさいね。ここ座って」
上がり
猛は上葉に目配せした後で、玄関に入る。
「お邪魔します」
玄関は、ひんやりとしていて涼しい。汗をかいたコップを手に、一口飲んだ。
「あの子の友達が来るなんてね」
老婆は言い、麦茶を飲んだ。
「龍樹、出かけてるんですか?」
老婆は、「何か忙しいのかい、今日は学校はどうしたの」と、猛の話に聞き耳を持たない。
「あ、龍樹、学校行ったんですか?」
猛は、まさかと思ったが、一応その可能性もあると思い聞いた。
「いんや、スーパーで売り物の手入れしてるよ。ほら、農家から野菜とか果物を運んできて、そのままじゃ泥だの虫だのついてるから、売れないだろ? だから洗ったり、磨いたりしてるのさ」
「へ、へえ」
猛は麦茶を飲み干すと、上葉も同じように、一気に飲んだ。
「仕事は、何時ごろ終わるんですか?」
上葉が聞く。
「さあ、あの子が飽きるまでかね。裏の搬入口に行ってみな。いると思うから」
「あ、はい、ありがとうございます」
猛は言うと、框から立ち上がった。
「あの、ごちそうさまでした。生き返りました」
上葉は言うと、老婆にお辞儀をした。猛も後に続いて頭を下げた。
「仲良くしてやって。あの子、根は優しいんだ」
「はい。……それじゃ」
猛は言い、玄関を抜ける。
「危ない事はよしとくんだよ。あんたらに何かあったら、あたしゃ悲しいからね」
猛はその言葉に振り返り、会釈をした。
庭を歩き、ZRXの横を通り過ぎる。
「良い婆さんだったな。あいつ、誘わない方が良いんじゃねえか?」
上葉が言う。
「それは、龍樹が決める事だ。……上葉、お前、余計な事を龍樹に言うんじゃねえぞ」
上葉は、学校での龍樹の事を知らない。
たとえ、家庭が円満であっても、孤独や孤立、疎外感を感じないわけではない。
同世代の仲間が必要なのは、猛も龍樹も同じだった。
「有名人のお前は知り合いだったり、友人が多いんだろうな。でも、俺らはお前とは違うんだ。お前みたいに体格も、人望もあるやつとは」
横を歩く上葉は、その猛の言葉に何も言い返さなかった。
一方で猛は、上葉の言葉にも一理あると思っていた。
例えば、学校での状況を改善できないとしても家庭環境が円満であれば、その孤独や孤立は、暴走族という危険な集団でなくても別の所で友人を作れば解消できるかもしれない。
あの祖母やスーパーの経営をする両親の事を考えたら、今まさに、ヤクザと関りを持っている状況は絶対に好ましくない。
しかし、龍樹は暴走族を選んだ。そして、猛を誘った。
上葉の体格にビビり散らかしていても、複数人の同級生を相手に喧嘩を仕掛ける度胸のあるやつだから、龍樹には龍樹なりの考えや強い想いがあって、暴走族というコミュニティの中で、友人を求めたのだから。
猛は、龍樹がその想いを簡単に捨てられるわけないと、思った。
猛と上葉と龍樹は、それぞれが全く違う環境で育ってきている。だが、暴走族という繋がりが、三人を引き合わせた。
これは、単なる出会いではない。
猛にはどうしてか、そのような思いが強く芽吹いてきていたのだった。
「上葉、俺の怪我が治ったら、またタイマン張ってくれよな」
「え? ……いいけど、なんで」
猛は何も言わなかった。
スーパーの脇を通り、裏口に回る。搬入口はすぐに分かった。
少し遠目から中の様子を窺うと、複数人の大人たちが忙しなく作業をしている。
三段重ねの段ボールを手に出て来た若い男と目が合った。
段ボールにはジャガイモの絵が書いてある。
「誰だお前ら」
若い男は言うと、足元に段ボールを置きTシャツの袖を捲り上げ、猛達の方へと近づいてくる。
「仕事中にすません。龍樹に会いに来たんですけど」
「あ? 龍樹に?」
「はい。まだ仕事は終わりませんか」
「あいつ、友達いたのか」
若い男は言うと、「ちょっと待ってろ」と、踵を返して店内に戻っていく。
数分経ち、猛と上葉は灼熱の太陽を睨みつけながら、暑さに暴言を吐き散らしていた。
搬入口を出たり入ったりする大人達は、猛の父とは比べ物にならないほどしっかりとしている。猛はそれを見て、苛ついた。
汗を流し、声を掛け合い、店内を担当しているであろう制服姿のおばさん達が、代わる代わる休憩に入り、タバコを吸いに外まで来ていた。
猛と上葉にじっと見られていたからか、ひとりのおばさんが不機嫌そうに店内に戻っていく。
「わーったよ! なんだよ!」
搬入口の奥から龍樹の声が響いて聞こえてくる。
間もなくして、龍樹が外に出て来た。
龍樹は、白い長靴にエプロンをした姿だった。エプロンの下の方が赤く染まっている。
「お前ら何しに来たんだよ。仕事中だぞ」
「おう、なんだその恰好は」
上葉が言う。
「俺、今日は刺身やってから。寿司も握んだよ」
「龍樹、今から宅間さん探しに行くんだけど、一緒に来るか?」
猛は、龍樹を試すようにそう言い、返事を待った。
「昨日の今日で宅間さんを探しに行くのか。お前、笠原のアパートに連れていかれて、変な事になってんじゃねえだろうな」
「なってる。宅間さん連れて戻らないと、魔利亜の2人が解放されない」
「で、上葉は?」
「俺は、笠原を潰せって言われてる」
「お前ら馬鹿だな。どうすんだよ、そんなの手に負えないだろ」
龍樹は言いながらポケットから煙草を出し、火を点けた。
「いや、でもよ、助けねえとな」
「猛、上葉、トオルさんはやべえよ。あの人、笠原より厄介だぞ」
龍樹は煙を吐く。
「龍樹よ、お前は笠原に会った事ないだろ?」
「兄貴が絶対関わるなってさ。一応言っておくけど、兄貴は夜魔のメンバーだ。昨日は仕事でいなかったけど」
(龍樹? ああ、猪瀬の弟か)
宅間の声が、猛の頭の中に響いた。
「あ、お前の兄貴、宅間さんがどこにいるか知ってんじゃねえの?」
猛が言うと、龍樹は眉根を寄せて煙草を2人に投げつけた。
「関わるなって言ってんだろ、無視しろよ。俺らじゃどうにも出来ねえから」
龍樹は言うと背を向け、搬入口を抜け店内に向けて歩き始めた。
「おい龍樹!」
上葉の声が、スーパーの裏口に響く。
龍樹は首だけを横に向け、歩みを止めた。
「俺達であの2人を潰そう。良い考えがあるんだ、手伝ってくれよ」
上葉の言葉に龍樹は振り向くことなく、店内に戻って行った。
「ビビりやがって……。おい、猛。てめえも何とか言って来いよ」
「いや、さっき言っただろ、選ぶのは龍樹だって」
猛は言い、搬入口を横目に歩き始めた。
2人で、どうにか出来るのか。
猛は龍樹には振り返らない事にした。これで友情は終わるかもしれない。
でも、強制出来ることではない。それだけは確かだった。
龍樹には家族がいる。あいつはちゃんとした家庭に育っている。
学校で浮いているのは、あの環境が龍樹や俺を認めないからだ。
猛はそう思い、後で龍樹には詫びを入れようと決めた。
無理な選択を強いて龍樹に恥を掻かせてしまった。
猛はそれを悔いたのだった。
「上葉、お前も無理に付き合わなくていいぞ」
「何言ってんだてめえ。俺はてめえに付き合ってるわけじゃねえよ」
「あ、そう」
先を歩く猛に、上葉はたった数歩で追いつく。
ZRXの停まる庭を横切り、スーパーいのせの看板下まで来て、自動扉から出てくる客を見た。
ほとんどが高齢者だ。
そして、その中の数名は押し車(シルバーカー)に荷物を入れて、とぼとぼと歩いて帰っていた。
「おい、上葉。ジジイとかババアは金を持ってるよな?」
「持ってるだろ。年金とかあるし」
「なんか、ムカつくんだ」
「え? ジジババ?」
「そうじゃない、そうじゃなくて。……俺はなんでジジイにもババアにも会った事ねえんだろうって思って。金が無くて俺に会いに来れないのかも。とか思ってた時期もあった。……俺には兄弟もいねえし。親父はゴミだし。家族ってのがわかんねえ。でも、龍樹のババアは良い人だった。あんなババアが俺にもいたら、もしかしたら人生が変わってたんじゃねえかな。不公平だよな、世の中」
「俺は恵まれてるから、お前の気持ちなんか全然わかんねえよ」
「ムカつくわお前」
「センチメンタルとかだっさ。うちのばーちゃんに膝枕でもしてもらえよ、な」
上葉は言うとアスファルトに痰を吐いて、駐輪場につかつかと歩いていく。
「おい、お前ら」
後ろから声を掛けられ、振り向くと、先程の若い男が立っていた。
男はスポーツドリンクを2本投げて寄こした。
「悪かったな、また龍樹を誘ってやってくれ」
男はそう言うと、店内に戻って行った。
「上葉、ほら」猛はスポーツドリンクの1本を上葉に投げる。
「うわ、冷てえ。儲けたな」
「せこいこと言ってんじゃねえよ。ボンボンがよ」
「ははっ」上葉は笑うと、スクーターのエンジンをかけた。
「ま、龍樹はまた今度だな」
「おう、そうだな」
猛は上葉のスクーターの後ろに座ると、キャップを開けて一口飲んだ。
「あー、うめえ」
上葉のスクーターが屁のようなエンジン音を響かせて通りに出る。
加速し始めた時だった。上葉のポケットから、携帯電話の着信音が鳴った。
「おい、猛、出ろ」
上葉に携帯を渡され、通話を押す。
「鎌田だ。おめえ昨日なんで集合場所に来なかったんだ? 夜魔に鞍替えでもすんのか?」
「すません。上葉、運転中で、代わりに出てます」
「は? 路肩寄せて替われ、誰だよてめえ」
猛は運転中の上葉の耳に携帯電話を押し当てる。
「ああ、昨日、トオルさんといたんすよ。……ええ。はい」
上葉の相槌が続き、その中に時々、漏れて聞こえてくる鎌田の声が、徐々にヒートアップしていくのが分かった。
「え! マジですか?」
上葉の声と同時に車体が揺れる。尻が落ちそうになって、ぐっとこらえる。
「切って良いぞ」
上葉に言われ、猛は通話を切った。
「おい、猛。とんでもねえことになったぞ」
「なんだよ」
「笠原が襲撃された」
「え、誰に」
「多分、トオルさんの舎弟だ。俺もその一人だったはずだが、手柄欲しさに誰かが先走ったみたいだな」
「アパートか?」
「いや、蓮東で襲われたらしい。パチンコ屋だよ。あの人、あそこの駐車場で裏ビデオ売ってんだよ」
「お前なんでそんな事知ってんだよ」
「昨日トオルさんに聞いたんだ。襲撃ポイントの一つに入ってた」
「じゃあ、今、アパートに笠原はいねえって事か」
「……行くか?」
「頼む、飛ばしてくれ」
国道50号を走り、笠原のアパートに戻る。昨日と今日だけでこの道を何度走るのだろう。今日はもう一度走って帰るはずだから、4回になるのか?
猛は、暑さでぼうっとしてきている頭を何とかクリアに保つようスポーツドリンクを何度も飲んだ。
笠原のアパートの近くに来ている事が分かると、上葉はスクーターの速度を落とした。
「この辺りなんだけどな」猛が言い、「お前、方向音痴だったのか」上葉がきょろきょろと視線を振りながら言う。
「おい、あれ見ろ」
上葉の視線の先に、栃木県警と書かれたパトカーが停まっている。その周囲に4、5人の大人がいて、状況を見守っている。
少ない野次馬のずっと後ろにスクーターを停め、2人は車上からその様子を見た。
「あそこだ、笠原のアパート」
「本当か」
「ああ、間違いねえ」
パトカーに一人の警察官が戻ってくる。運転席側のドアを開けたままで、無線を使っているようだった。
「笠原、殺されたのかな」
「まさか、襲われたのはパチンコ屋って言っただろ」
「じゃあ、何の騒ぎ」
無線を使っていた警察官がパトカーから出てきて猛と上葉を見た。
「やべ」
猛は咄嗟に顔を隠した。
「何がやべえんだよ。何もしてねえだろ」
警察官は急くようにアパートの方へ走って行く。
「猛、ここで待ってろ。ちょっと見てくる。お前は笠原と面識あるから、警察に何か聞かれた時に面倒だ」
上葉は言うと、ヘルメットを脱いで猛に渡した。坊主頭の汗が太陽に光っている。
「わかった。出来たら、中に魔利亜の2人がいるのか確認してくれ」
「おう」
上葉は小走りでパトカーの方へと走って行く。
アパートの入り口は、猛からは見えない。上葉がパトカーの後方で走るのをやめ、覗き込むようにしてアパートを見ている。
野次馬の中年男性が、上葉の後方から話しかけた。
上葉は首を横に振っている。それから上葉の方が中年男性に質問しているようだった。
猛は、その様子をみながら、背後から接近してきた車の音に気付いた。
振り返ると、パトカーが1台脇を通り過ぎた。
無線で応援を呼んだらしい。
何が起きているのか。
上葉が、猛の方を向いて手招きしている。
エンジンが掛かりっぱなしのスクーターに跨り、猛はゆっくりハンドルを回した。
上葉が前から走ってくる。
「どうした?」
「魔利亜の2人は中にはいないらしい。男が1人倒れているって。あのおっさんが警察を呼んだって」
「倒れているのは誰だ?」
「そこまでは分からないけど、この後、救急車が来るみたいだから少し待とうぜ」
応援で来たパトカーから警察官が2人降り、1人が通報者である中年男性と話を始めた。
もう1人はアパートの方へ歩いていく。
「魔利亜の2人だけがいたアパートに、男が1人で倒れている……。何もなかったわけないよな」
上葉が呟く。
中年男性と話をしている警察官が猛と上葉の方を見て、「君たち、ちょっといいか」と話しかけて来た。
「はい」
上葉が猛より一歩前に出る。
「中にいる子とは友達か? 何か知っているか?」
「いえ、俺らはただパトカーが停まっていたので気になって見ているだけです。すません」
「そうか、見世物じゃないんだから、こんな所にいないで学校行きなさい。そっちの子は中学生じゃないのか? バイクなんか乗って、無免だろ、補導するぞ」
警察官は言うと、猛を凝視する。
「あの、中にいる子って、言いましたけど、子供なんですか?」
猛が聞くと、警察官は難しい顔をしたあと、「まあいいか」と言った。
「高校生くらいと聞いている。知り合いかと思ってな」
警察官はそう言うと、背を向けてアパートの方へ歩いて行ってしまった。
「お前、やっぱ中学生に見えちゃうよな」
「そりゃそうだろ、自分でもわかってる。身長も顔つきもガキだ。上葉が老けすぎなんだよ」
上葉と話をしていると、救急車が到着した。
救急隊が3人で降りて担架を用意し、アパートに入って行った。
通報者の中年男性が、顎に手を当ててじっとアパートの方を見ている。
「あの、すません」
通報者がいるなら、通報する何かがあったと言う事だ。猛はそう思い、中年男性に話しかけた。
「なにがあったんすか」
「あー、何だろうな。すごい音がしてな。なんか破裂音みたいな」
「破裂音?」
「その後で叫び声と、バタバタと誰かが走るような音がしたんで、すぐに通報したんだよ。……ありゃあ、拳銃かもよ?」
「拳銃……。おじさん、中の人見たんですか?」
「いや、まともには見られなかったよ。一瞬ちらっと見たけど、血が凄かったぞ」
「助けなかったんすか」
「きみね、隣の部屋からそんな音がしたら怖くて助けるなんて出来ないよ。隣の人、関わると厄介そうな人だし」
「そうなんすね……」
アパートから担架が出てくる。
救急車の前で待機していた猛と上葉は、担架に乗せられた男の顔を見て、はっとした。
その男は、夜魔の現総長、北沢ジュンだった。
「おい……。あれ、北沢さんだ」
「ああ」
上葉が走り出す。
「おい、何する気だ!」
猛が叫ぶが、上葉は聞きそうにない。
「北沢さん! 何があったんすか!」
「下がりなさい!」
担架に近づく前に、上葉は警察官の一人に止められた。
「きみ、署に連行するぞ! 帰れと言っただろ!」
「おい! 上葉!」
その時、担架上の北沢の顔が横を向いた。
そして、猛と目が合った。
北沢の瞳が、意志を示すように左右に揺れた。
「え?」
猛に何かのメッセージを送っている。
「なんすか!」猛は叫んだ。
北沢の右手が腹の上から滑り落ち、血に染まり震える指が、アパートを
笠原の部屋に何かがある。
「上葉! 一度戻れ!」
「あ!? なんだよ!」
振り返る上葉の形相は怒りに満ちている。どうしてそんな顔をしているんだ。
猛は不思議に思った。
上葉は何かを知っているのではないだろうか。
さっきの反応も変だった。上葉と北沢には何かあるのか。
北沢を乗せた担架が救急車に収まり、サイレンが鳴り始める。
上葉は今にも殴りかかってきそうな表情で猛の前に立った。
警察官の1人が、猛と上葉の方に歩いてくる。
「おい上葉、アパートの中を見なくちゃならねえ。警察官を足止めしろ。でも、暴れるのは無しだ。連行されたら終わりだからな」
「んな事わかってら。何があるんだ、アパートに」
上葉は肩で息をしながら言う。額には汗の玉が浮いている。
「わからない。でも、北沢さんが何か言いたそうにして、部屋を指さしたんだ」
「本当か?」
「この状況で、嘘を吐くと思うか?」
「確かに。……猛、正面から入るのは無理だから、俺が止めてるうちにバイクでぐるっとアパートの裏に回り込め。塀で囲われてるから、乗り越えれば入れるはずだ」
「そうする」
「よし、じゃあ、やろう」
上葉はそう言うと、警察官の方へ歩いていく。
猛はスクーターへと走り、エンジンをかけてアパートの裏の道へと向かった。
アパートは、上葉が言ったように三方向を塀に囲まれていた。二階建ての四部屋のうち、正面から見て一階左側の部屋が、笠原の部屋だ。
パトカーはまだ残っている。そして、もし北沢が誰かに撃たれたのならば、鑑識が入って警察官が瞬く間に増えていく。そうなれば、これからあの部屋には入れなくなり、北沢が示した何かを知るのは当分先になってしまうだろう。
今、ここで入らなければ。
猛は、この世に生まれ落ちて初めて、今、生きていると実感した。
自分に課せられた、それはまるでゲームのクエストのように、目の前の確かな目標を目指して身体と頭を動かす。
小さな頃から殴られ、存在を否定され続けてきた。
母を父から助けることが出来ないまま、自分の現状すら変えられないまま、猛はこれまでの人生を歩んできた。
笠原に言われた、自分を露にする言葉。
そして、「俺と同じ」と言う、これまでに聞いた事の無い言葉を投げかけられた。
猛の理解者は、両親でも教師でも、龍樹でも上葉でもでもなく、笠原なのかもしれない。
そう思うと、この、生きている感覚は、笠原から
頭を左右に振っても、この高揚は払拭されそうになかった。
猛は、ヒーローになりたいのかもしれない。誰かに認められたいのかもしれない。
初めての感覚は、根強く猛の心を侵食していく、そんな気がした。
スクーターを停めて、塀の高さを見る。
3メートルほどだろう。猛はスクーターのシート上に立ち、塀の縁を掴んで一気に乗り越えた。
アパートの裏には、ガスボンベやエアコンの室外機があって、塀沿いに進み、表が見える位置を取る。
上葉の様子を見ると、警察官3人に囲まれて何かを必死に訴えている。
一瞬、上葉の視線がこちらに向いたのを確認し、速足でアパートの側面を抜け、表に回り、笠原の部屋に入った。
昼前にこの部屋で目覚めた時には何ともなかった部屋に、血だまりが出来ていた。
テレビには昼のワイドショーが流れ、解説者が御託を並べている。
魔利亜の2人の形跡はない。壁に掛かっていた特攻服も無くなっていた。
荒らされた、誰かが揉み合った、そのような跡に気が付けば、もっと情報が手に入ったかもしれなかったが、猛の頭はそこまで冷静ではなかった。
血だまりだけを見ると、北沢は死んでしまうかもしれない。
猛は昔、血だまりの大きさで大体の出血量が分かるというのを聞いたことがあった。この大きさなら、死んでもおかしくない。
そうなったとしたら、北沢からも話を聞けなくなる。
ここで何かを見つけなければ……。
しかし、その考えは杞憂だった。
猛が血だまりに近づくと、そのすぐそばに、明らかに異様な物があったからだ。
北沢は、このMDMAの入った袋を回収しろと言っていたのだ。
警察官や救急隊は、確実にこの袋を確認しているはずだった。現場保護のために鑑識が来るまでは現場を触れない。だから、回収されていないのかもしれなかった。
猛は掌よりも大きく、錠剤が詰まって膨らんだ袋を手にし、部屋を後にした。
アパートの裏に戻り、塀を超える。
スクーターのシートボックスに袋を入れた。どこに向かえばいい?
上葉を拾わなくてはならない。それよりもずっと遠くへ離れる方が先かもしれない。
猛は考えるよりも先に、スクーターを走らせた。
ずっと遠くへ、まずは地元に向かって、スクーターを走らせた。
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