第5話 英雄症候群
甘い匂いがほのかにした。
猛の肩を支えているすずの匂いだった。香水か、シャンプーかは分からなかった。
「ぼろぼろだな、お前」
トオルは「フンッ」と鼻を鳴らして言った。
「大体、聞きました。笠原さんについては、緊急性は無いのですね」
「ああ、無えよ。ただ、気に食わねえ。……お前、笠原をぶっ飛ばしたいんだろ」
トオルは言いながら、煙草に火を点けた。
「やられっぱなしじゃ、嫌だよなあ」
一吸いして、煙を吐く。
「友達じゃないんですか」
「奴には散々迷惑を掛けられててなあ。金の無心に、女の紹介に、面倒事の尻ぬぐい。他にもいーっぱいあんだよ」
「どうしてそこまで関わるんです?」
「お前には関係ねえだろ」
「クスリですか?」
猛が言うと、トオルの眉間に皺が寄った。
「クスリの仕入れを、笠原がしてるんでしょう? 構成員時代から」
トオルは黙って煙草をくわえる。
「宅間には、断られちまってな」
煙を吐きながら、トオルは言い、猛を見た。
「何をですか」
「プッシャー。……だから、お前らにやってもらおうと思ってんだ。稼げるぞぉ」
プッシャーね。売り子の事だ。
猛は、そんな話はどうでも良いと思った。
「その話は、また今度にしてください。俺たち、そろそろ帰ろうと思うんですけど、良いですか?」
「俺たち?」
トオルは言いながら、皆を見回す。
「誰と誰と誰と誰と誰の事? お前、一人で帰れば?」
誰も、何も言えなかった。
数秒のわずかな時間の沈黙が、猛には数十分にも感じた。
「トオルさん、今日はもう遅いですし、解散しましょう」
真由美が言う。
「真由美、お前、いつからそんなに美人になったんだ。ソープ行くか?」
「い、いや。あの、それは出来ません」
「冗談だ。真面目な奴」
トオルは、にやにやしながら、皆の顔を見ている。
「もういいでしょう」
猛は、目の前に座る上葉の椅子の脚を軽く蹴って、すずに目配せし、トオルに背を向けた。
「帰ります」
「おう、じゃあ、またな」
*
身体が軋んで、全身が重かった。
ココナッツの匂いが鼻を衝いた。
目を開けると、細い背中。女だとすぐに分かった。
ピンクのラグ。その上にガラスのテーブル。
壁に朱い特攻服が掛かっている。
ココナッツの中に、染みついたタバコの匂いがする。
「勝ったか?」
目だけを動かして、声の主を探す。
ジャラっと、どこかで聞いた乾いた音がしてから、部屋に入ってくる人の気配を感じる。細長い腕から、テーブルに皿が置かれる。
その隣に、缶ビールが汗をかいている。
胡坐に座った金髪の男は、缶ビールのプルタブを引いた。
「まだ、アディショナルタイムがあるんで」
女は言って、テレビ画面に集中している。
「お前、マジで下手だな。一番弱いやつだぞ、相手」
男は言いながら、皿からスパゲッティを啜り込んだ。
猛は、自分の置かれた状況を把握するのに、数十秒かかった。
ここは、笠原のアパートだ。
目の前でスパゲッティを啜っている男は、笠原に違いなかった。
ガラス戸の向こうから、陽の光が差し込んでいた。
今は何時なんだ? 酷い頭痛がした。
手で頭に触れると、包帯が巻かれていた。
少し動かした自分の身体から土臭さがし、その中に血の匂いが混じっていた。
「起きた?」
笠原がこちらを見ている。
身体の痛さで、憎しみが生まれてこなかった。
「お前、臭えから無理にでも風呂に入ってこい。キッチンに飯あっからチンして食え。んで、邪魔だから出て行け。以上だ。さっさとしろ。目障りだから」
「どういう事?」
猛は、言いながら身体を上げる。
「なにが」
「なんで俺はこんな所に居るんだ」
「トオルの舎弟が連れてきた。お前、俺に用があったんだろ。でも聞かねえよ。お前に何か言われる筋合いねえからな」
笠原は言うと、ビールを一口飲んだ。
「すずが心配してる」
猛はテレビ画面に集中する、みこの背中に言う。
みこの肩が少し上がる。
「お前には関係ねえんだよ。ガキ」
笠原は、まだ飲み終わっていない缶ビールを猛に投げた。
「よっちさんは? どうしたんですか」
「よっちは、買い物に行ってる。早く風呂行って来いよ、くせえからよ」
笠原は言うと立ち上がり、猛に近づく。
片手で襟首を引っ張る。
「ほら、立てよ」
「真由美さんは、お前の事を厄介だと言ってた。みこさん、早く逃げましょう」
猛は、笠原の目をしっかりと見て言った。
「猛だよね。宅間はどうなった?」
みこは、顔を横に向け、猛を視界の端にとらえて言った。
「宅間さん? 昨日はあれから会ってないです」
「良いから、みーちゃんもこんなやつの話聞くな。ウイイレの練習しろよ」
笠原は言うと、猛をベッドから引きずり落とした。
「じゃあさ、猛にお願いがあるんだ。宅間を連れてきて」
みこは背を向けたまま言った。
「みーちゃん! メッ!」
笠原が言うと、みこの肩がびくっと震えた。
「おら、風呂行って飯食って帰れってんだよ」
笠原は猛の肩を蹴り押す。
「わかりました、絶対に連れてきます」
「おい! うるっせんだよ、ガキがよ。てめえ、もしや、人に認められた事ねえんだな。必死すぎんだよ。きっとそうだ。お前、親に殴られて育ったろ? 学校でも除け者にされてよ」
「……」
なんだこいつは。
猛は、笠原の言う事に反論できなかった。
全くその通りだったからだ。
「図星か? かわいそうな奴」
笠原の眼は、睨みつけるでもなく、憐れむでもない、感情の伺えない
「俺と同じ、
同じ?
「やめろよ。お前と俺が、同じなわけないだろ」
「ははっ、トオルのやつが嫌いなわけだ」
笠原は満面の笑みで言った。
「奴は悪党だからよ、俺らみてぇなヒーローが気に食わねえんだ」
「お前のどこがヒーローなんだよ」
「知らねえのか、善と悪は表裏一体なんだよ。だから神の使いである天使でさえ堕ちて悪魔になんだよ。逆もあるんだ、悪党はヒーローになり得る。それが俺とか、お前だあ! ははっ!」
笠原は、テーブルからフォークを取る。
「親の心子知らず、反面教師。人間てのは、面白れえ!」
笠原はフォークを逆手に持ち、床に突き刺した。
「お前の正義は、俺にとっては悪なんだよ!」
「センパイ、スイッチ入ってますよ。お薬、飲みましたか」
みこが背を向けたままで言う。
「嬉しいんだよ、みーちゃん。こいつ、俺と仲良くなれるのかも」
「んなわけあるかよ」
猛は言い、痛みに耐えて立ち上がると、
「おい、猛。風呂、入って行けよ。飯も食え。そしたら出て行っていい」
「うるせえ」
猛が言った瞬間、全身のどこよりも鋭く強い痛みが、左肩に走った。
振り返るように目をやると、笠原がフォークを突き刺していた。
「入っていけ。飯食え。わかったか?」
全身から冷や汗が出た。
痛みを超える恐怖を、猛は笠原の冷たい表情に感じた。
「痛ってぇよ……」
「おお、ごめんな」
笠原はフォークを抜くと、口に咥えた。
玉暖簾を手の甲でジャラジャラと弄びながら、笠原は猛が風呂に向かうのを見送っていた。
なんだ、あいつは。
猛は服を脱ぎながら、笠原という捉えようのない男の事を考えた。
シャワーを出し、包帯の巻かれた頭からかぶる。
ゆっくりと包帯を外すと、毛先から茶色に染まった湯が流れ落ちた。
「ひっでえな」
俯くようにしてシャワーを浴びる。
後頭部にコブが出来ており、固まった血がタイルの上で溶けた。
その中に、溶けない物質があった。
浴室の照明を反射している。
ガラスだった。
いや、これは、瓶の小さな欠片だ。
トオルはビール瓶で俺の後頭部を殴ったのか。
まるで映画。
「俺、良く死ななかったな」
涙が溢れた。同時に腹が鳴った。
きたねえ。後ろからやりやがってよ。
猛は、涙を拭うのも忘れて身体の汚れを洗い落とした。
(親に殴られて育ったろ?)
(俺と一緒だ)
「クソ野郎が!」
猛、酒はどうした。
お父さん、今日はもうやめた方が良いよ。
うるせえ、早く買って来いよ。
お母さんは、いつ帰って来るの?
うるせえんだよ! てめえ!
いつもいつも母ちゃん母ちゃん!
てめえなんか死んじまえ!
「猛、着替え置いとくよ」
みこの声だった。
摺りガラスの向こうに、みこの姿があった。
「どうしてだよ。何で逃げないんだ」
「逃げられないからだよ」
みこは言うと、踵を返して脱衣室から出て行った。
(おまたせー、鮭とば売ってなかったわ)
よっちの声がした。
シャワーを止め、タオルで身体を拭くと、白いタオルが所々赤くなった。
出血はまだわずかにあるらしかった。
用意されたTシャツとスウェット地のジャージを着る。
猛の服を探してみたが、みこが洗濯機に入れたようだった。
すでに洗濯機は回っている。
洗面台で自分の顔を見る。
眉の上と、顎、頬の一部に擦り傷があった。
頬は腫れている。
猛は脱衣室から出ると、キッチンによっちがいた。
赤のシャドーや口紅を落とした顔は、幼かった。
「痛そ。大丈夫?」
よっちはカップ麺にお湯を注いでいる。
「大丈夫です。あの、逃げないんですか?」
猛が言うと、よっちは当然のように「無理だからね」と言った。
「お腹空いたでしょ。何が良い? 好きなの取って食べて」
「すずと、真由美さんが心配してました」
猛は続けて言ったが、よっちは猛の目を見て、肩に一度手を置くと「ありがとね」と言い、それからは何も言わなかった。
「おい、よっち、北沢はどうした。繋がらねえんだよ。パクられたんか?」
笠原が言いながらキッチンに来る。
「お、猛。早く食えよ。よっちが作ってくれるから」
笠原はすぐに携帯に目を落とし、チッと舌打ちした。
「あいつ、後でお仕置きだな。着拒してんじゃん。ほんと、クズばっかだな。舐めやがって」
笠原が居間に歩む。
「おい、宅間さんを連れて来れば、二人を解放するのか?」
「あー?」
笠原は上半身をくねらせ、猛に振り返る。
「連れて来れば?」
「約束しろよ」
「お前、約束なんてしていいのか? 絶対に連れて来られるって思ってんのか?」
「連れてくる」
「男同士の約束は、破ったら怖いぞ?」
「そんな事は分かってる。だから、絶対に解放しろ」
「わーったあー」
笠原は言うと、キッチンの片隅に置いてあったメモ帳を一枚破いて、それに何かを書き始めた。
「朱肉ねえから血判でいい。名前書いてから押せ」
「何だよこれ」
「見てわかんねえのか。誓約書だ」
「見せろ」
「どーぞー」
誓約書。私(空白)は、神岡みこと鈴木芳美の解放を条件に、宅間真治を必ず連れてくる事を誓います。
「連れて来られなかったらどうなるかが書いてねえじゃねえか」
「馬鹿かよ。解放できねえって事だろうが」
「クソッ」
猛は、笠原からボールペンを受け取ると、空白の欄に名前を書いた。
頬の傷を親指で押し、血を付け、血判を押した。
「ヒーローって大変だよなあ」
笠原は言いながら、誓約書のメモ紙を手に居間に戻って行った。
「それじゃあ、行ってきます。すぐに戻りますから」
猛は居間のみこにも聞こえるように言い、よっちに頭を下げた。
よっちは総菜パンをいくつか手に取り、猛の胸に押し付け、持たせた。
「おい! 言い忘れた事がある。悪党もヒーローも、絶望から生まれるんだよ。よく覚えておけ」
うるせえな。
猛は声に出さずに、頭の中でごちた。
「ヒーローと悪党は、コロンブスの卵みてえなもんだからよ。どっちが先でどっちが後なのか。どっちが絶望を生むのか、お前にわかるか」
猛は靴を履いて、笠原の言葉を無視して、アパートから出た。
陽は、まだ真上になかった。
時計が目に入らなかったために、猛は正確な現在時刻が分からなかったが、午前中である事は確かだった。
ここがどこなのか、まずは知る必要があった。
数えもせずに受け取った総菜パンは、三つだった。
周りの景色を確認しながら、ソーセージパンに齧り付くと、美味すぎて一気に食べた。
道路標識さえあれば、どこだかがすぐに分かる。
しかし、周りは住宅がほとんどで、大通りに出る必要があった。
方向も定まっていなかったので、とにかく歩いた。
住宅が少なくなって、飲食店が多くなってきた所で、大きな通りに出た。
交差点の道路標識を確認すると、小山市の外れだった。
この通りをまっすぐに行けば小山駅に着く。
地元の佐野市まで帰るには、距離にして四十キロ弱はある。
猛は、総菜パンの三つを食べ終えると、コンビニに入り、トイレの洗面台から水を飲んだ。
公衆電話はあったが、金がなかった。
頼りにできる知り合いも、この辺りには居なかった。
前に、小山駅の西口に不良がたむろしているという話を聞いたことがあった。
カラーギャングのたまり場。
こんな時に情報通の龍樹が居ればなと、猛は思った。
とにかく、猛は駅に向かう事にした。
同年代のやつらと話をしてみようと、思ったのだ。
笠原との会話が、頭の中で反芻していた。
宅間の事も、すずや真由美、上葉、そしてトオルの事が、ぐるぐると頭の中を巡った。
(ヒーローってのは大変だよなあ)
「俺はヒーローになりたいわけじゃない。ただ、仲間を助けたいだけだ」
猛は、あえて口に出して言った。
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