エッセイ・意見文

陰謀論とカルト宗教への傾倒について

陰謀論とカルト宗教への傾倒について



 陰謀論にのめり込むのと、カルト宗教に傾倒することは同質の心の働きがあるというのはわたしも同意したい。「わからない」ことに耐えられない人が世間に多いことは自明であり、本来「わかりにくい」はずの事象を捉えるに、「わかりやすい」答えに飛びつくことでなにはともあれ自身の心を安心させたいものである。


 十五年ほど前に読んだ村上春樹さんと河合隼雄さんの対談本『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(1996年刊行)が面白かった。オウムの地下鉄サリン事件が起こった翌年の刊行。この本の、中ほどの章で、なぜ若者はオウムの教義にがつんとやられて、実際にテロ事件を起こすことになったのかについて考察されていた。いわゆるカルトというもの――これにのめり込むには、ハルマゲドンの思想があって、これを受け止めることによって終末思想を信じるようになった。しかしここで考えたいのは、オウムの思想にのめり込んだ信者の多くは、幼少期に神話や小説、大きな想像力によって形作られた世界観に触れる経験が少なかったという事実があったということである。大いなる想像力によって構築された偽典的な物語を身内に多く納めていれば、ハルマゲドンの思想に出会ったところで、オウム信者のように、ワンイシューに凝り固まることなく、ましてテロ事件にまで走るようなことはなかったであろうということであった。(元理系学部生が多く入信していたことも事実である。)


 温室育ちの若者が、世の中の病的な思想に毒されやすいのはよくいわれることで、これまでしっかり考えてこなかったからこそ、ある時、社会に対して疑念を抱き、自身の存在に疑義を抱いたときに、一見、答えらしきものを提示されたところで、それこそ没我没入的にその思想を受け入れてしまうということが生じる。


 それが世の中のカルト信者の思考パターンであり、世にあまたある陰謀論にはまってしまう人々の辿る道筋であろうとわたしも受け止めている。


 世間の通説もワンイシュー、オールドメディアが流す世論もまたワンイシュー、ネットで流布する出どころ不明の陰謀論もワンイシュー。

 世の中には人の数だけ考え方があって、そういった雑多なものに取り巻かれたうえで自分はどう考えるかが問題である。

 そこで重要になるのが「わからない」に耐えるということ。とにかく「わかりやすい」ことに飛びつかないこと。「それらしいこと」を口にするものの口車に乗らないこと。


 もともと「わからない」ことだらけだからこそ、ものを考えるときに無限の道筋が見えるのであるし、あくまで「現時点で」そういうことらしいといった推論しか述べることはできない。そんな根拠薄弱ななかにあって、なにを自信を持ってあなたたちは他者を非難することができるのか。

「わからないことをわかっていない」の段階よりもはるか前、「わからない自分を認識できていない愚かさ」を露呈しているだけだと知るべきだ。恥を知ってほしい。


 わたしは今回の、新型コロナワクチン接種の為政者側の主導については、医療界の金儲けのための行動という見方が「いまのところ確からしい」という意見を持っているのみ。ただの経済論である。そして人間行動学である。これが合っているかどうかは後世の判断を俟つのみ。


 ちなみに私は仏教徒であるが、献金とか、葬式仏教とかそういうものには与しておらず、座禅、読経、瞑想の有効性を知るのみです。自己研鑽の為であり、いまも仏教徒であることに変わりはありませぬ。

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