第40話 8番出口
映画に行ってきました。今回は『8番出口』です。
(最後にちょっとネタバレあります)
国宝を見に行った時に、宣伝していたのですよ。それで気になりまして。
私は大変方向音痴なもので、行けども行けども辿り着けない悪夢を暗示されて、大変恐れおののいたわけです。
だから、迷路に迷い込んだ人が出られたのかどうかがとっても気になって気になって。要するに宣伝にまんまとのせられたわけです。
とにかくどうなるのか知りたかったのです。わからない、これが一番怖い。
最後には出られなかったという結末であってもいいんです。なぜそのような結末を迎えたのか分かれば。
いえ、どうなったか結末さえ分かれば、安心できます。
というわけで、観てきました。
映画を観るまで、8番出口については一切調べませんでした。
諸星大二郎のマンガで、地下通路で迷う話があったのを映画を観ている途中で思い出しました。あれは、救いようのない話でした。
あのマンガは方向音痴の私には非常に怖かった。だからでしょうか、8番出口を観るまでは、スッカリ忘れていました。思い出してしまったため、映画に対して怖さが倍増してしまいました。
面白かったです。
設定はいたってシンプル。異変がなければ進み、あれば戻る。指示された『ご案内』に従って8番出口にたどり着けばいい。
それだけなんですがねえ。むずかしい。ずっと同じ様な地下通路をひたすら歩いていく。
途中で嫌になるくらいでした。精神的にも削られるんじゃないでしょうか。正直言って、映画を観てからしばらく地下鉄の地下通路を通るのは御免被りたいと思いました。
元ネタはゲームで、同じ様にひたすら出口を目指すというものなんだそうです。帰ってから調べました。
それにドラマがつくとこうなるんだと妙に感心してしまいます。
あの中に登場する異変は人によって違うものもあって、それはその人だからこそのもののようにも感じ、だからこそまるで試されているかのようにも思えました。
映画の中で、迷うっていう事とそれから選択するっていう事を考えちゃいました。
映画見に行って、あー怖かったとか、笑えたねとかいうような単純さはないかもしれません。
ゲームの中に投入されちゃった的な面白さをこの映画に求めるならば、映画を観ないほうがいいかもしれません。そういう視点では作られていないので。
ゲームをする時、ゲームを始める前と後で自分は変わりません。でも物語の前と後では、主人公は変質するものなのです。
何かの小説で、ピンボールはお金も時間も無駄にしてしまうとかいう文章があったように記憶しています。
別にゲームを否定しようとは思いません。私もゲームしますし、楽しいです。ただ、ゲームをする時間と物語を読む時間、同じ時間を過ごしても残るものが違うのだなと思っただけです。
どちらがいいとか悪いとかではなく、違うものです。ゲームをするのは私ですし、映画の主人公は主人公で、私ではないのです。
だから、8番出口のゲームが楽しいと思う人が、この映画を観ても楽しいかどうかは違うだろうなと思います。
映画として観るならば、面白かったです。
さて、当日の映画館での出来事を最後に。ネタバレ含みます。
同じ映画を見たらしき小学生ぐらいの女の子が、一緒に来ていたお母さんに
「それで、あの子はどうなったの」
と聞いていました。
「これから生まれるのよ」
お母さんが突っ慳貪に一言で返していたのに遭遇し、ちょっと微笑ましくなりました。
映画は父親側からの視点で、母親からではないですものね。でも、幸せになってくれるといいなと思いました。
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