NATURAL

夢野 幻

深愛

音楽劇場



 音律を整える菅弦楽器の音がホール全体に響き渡る。舞台上に約百四十名を超す奏者たちが鮮やかな音を奏でていた。中央には細かい音の出し方を指示する指揮者。緊張に包まれる中、刻一刻と迫る開演に向け最後のリハーサルが進んでいた。


 新設されたばかりのこの音楽劇場は良質な生演奏を客席に届ける為、音響環境に力を入れて造られたコンサート専用ヴィンヤード方式円形劇場。内部の装飾にも拘り木目調を基調とした温かみのある落ち着いた雰囲気で三百六十度、四階もある座席が中央の舞台を取囲む。


 最上階の一番奥、薄暗いバルコニー席で一人リハーサルの様子を静観している者がいた。

 席に浅く腰掛け、背筋を真っ直ぐ伸ばしたその後ろ姿にはどこか気品と優美さを感じさせる。

 長い金の髪を綺麗に編み込み纏め上げた髪。陶器のような褐色の肌、耳元には廉価のチタンピアスが一粒、光輝く。細かな刺繍が施された濃白のタイトなロングドレスに身を包んだ華奢な人物はその透き通るような白縹色の瞳でじっと何かを注視していた。


「……こはねちゃん?」


 不意に背後から名前を呼ばれた。

 声がした方へゆっくり振り向くとそこに立っていたのは黒のワイシャツにベストを羽織った正装姿の男性が一人、物怪な表情でこちらを見つめていた。


「あぁ、やっぱりこはねちゃんだ」


 男性はそう言うとにこりと甘ったるく微笑んだ。慣れた動作でこはねの隣の席に座りその長い脚を組んだ。


「お疲れ様です」

「お疲れ様。こうして直接会うのは久しぶりだね。元気してた?」

「はい。お陰様で」


 久方の再会。舞台上の様子を眺めながら二人は暫し囁くように対話する。


「僕のお願いを聞いてくれてありがとう」

「いえ」

「芸術家は短命だね。僕としても残念だよ」

「……」

「今日、来ないのかと思ってた。キミ、こういう場所は苦手でしょ?」

「……そうですね。でも、私にとってとても大切な人なんです。だから、ちゃんと最後のお別れをしたいんです」

「ふーん」


 ちらりと隣に座るこはねを見る。どこか憂を帯びる横顔。男性は徐に肘掛けに寄り掛かりながら顔を覗き込むようにそっと顔を近づけると、低い声で囁いた。


「……にしても、今日は一段と綺麗だねぇ。大人っぽくて色気がある」


 そのとき重厚感のあるコロンの香りが男性の首元からふわりと漂う。褒め言葉を素直に受け取りこはねは小さく笑う。


「それで、あそこにいる彼がキミの兄弟弟子さん?」


 再び舞台に視線を向けると、指揮台に立つ人物を見てこはねに問いかける。


「はい。一度しか会ったことないですけど」

「ならこんな所にいないで、近くに行けば良いのに」

「いいえ。ここで大丈夫です」


 こはねは小さく顔を横に振る。

 開演まで数刻。最終リハーサルの最中に余計な気遣いをさせたくないという、こはねなりの心配りなのだろうか。

 自分はともかくとして。部外者ではないし一応は当事者なのだから遠慮する必要はないのに。どこか謙遜する彼女の態度に一瞬、考える。


「あ。そっかキミ、破門になったんだっけ?」


 突然、意地の悪い方にそう言われ、こはねは突拍子のない声を漏らした。


「え」

「聞いたよ? キミ、かなりの問題児で恩師を病院送りにしたんだってね?」

「えっ……、いや、それは……」

「ん?」


 語弊を招くような発言に一瞬、反論しようとするが事実なので言い返せない。そんな黙り込むこはねを見て男性は揶揄い、弄び、一笑する。


「この後どうする? 僕、サロンでお酒でも飲もうと思うんだけど、こはねちゃんも一緒にどう?」

「いえ、私は……」

「そう。それじゃあ、また後でね。あ、もう暗くなるから遠くに行っちゃダメだよ」


 こはねは軽く会釈をし別れを告げて席を立つ。丁度、舞台上でもリハーサルが終わったのか楽員たちも楽器を片手に舞台袖へと消えて行く。


 重厚な扉を開けて劇場ロビーへ出ると近代的なデザインの内装が目を惹く。高級感溢れる落ち着いた空間に大理石の床、高い天井にはシャンデリアが輝いていた。そして一階のホワイエでは多くの観衆が屯していた。

 今夜のコンサートには生前、故人と関わりのある者や元教え子たちが訪れ、その人望の高さが窺える。

 群衆の中に学友らしき人物も見えたがこはねは人混みを避けて二階の外階段から劇場の外へと出る。


「——っ!」


 ガラスドアを放つと刺すような寒風に当てられ思わず身を震わす。

 持っていた水色のカシミアのストールを肩に掛け構わす進む。外階段を下へと降りる途中、ふと顔を上げる——。


 真っ赤に燃える夕日が地平線に沈みかけ、焼けるような朱色に染まる西の空。反対の空には夜の訪れが。深い瑠璃色に染まった空に宝石を散りばめたかのように星々が輝く。


 息を呑むほどに美しい光景にこはねは思わず目を奪われる。


 人が手を伸ばしても決して届くことのない無限に広がる空。自然の偉大さを思い知らされる。


 自然が作り出す美しさ。人の想像を超え現実を忘れる程に引き込まれ魅入られる——。



 ——二月上旬。

 都市郊外。大自然に囲まれた静かな場所に近代的なデザインのドームが聳え立つ。一面ガラス張りの白を基調とした外観に滑らかに湾曲した金属屋根が目を惹く。建物周辺にはの広大な緑の庭園が広がり、所々に設置された庭園灯が暗闇の庭園を静かに灯していた。


 会場を抜け出し暗い外へと踏み出したこはね。真冬の澄んだ空気に冷たい夜風が吹く中、金の髪を靡かせる。庭園灯の灯りを頼りに石甃の上を高いヒールで当てもなく歩き続ける。

 劇場から離れた場所、深い森の中へと進む。木橋を渡ると微かに水の流れる音が聞こえてきた。耳を澄ましながら音を頼りに進んで行くと、樅木に囲まれた場所に小さな湖を見つけた。

 そっと水面を覗き込む。水面には月の光が反射し青白い光を放つ湖は透き通る程に透明で微かな音を立て揺らぐ。


「……」


 ぼんやり眺めていると、ふと、自身の心が浮ついているのを感じ、憂とともに現実を帯びて思い出す。

 突然知らされた恩師の死。

 それは余りにも唐突だった。純粋で恬淡とした性格の彼は沢山の人々に好かれていた。誰に対しても分け隔てなく接し、音楽を通じて他者という存在を深く理解しようとしてた。

 こはねも指導を受けてき生徒の一人。音楽に対する姿勢は貪欲で誠実。そんな恩師を尊敬していた。一緒にいると心強い存在だった。だからこそ安心して授業を受けられた。そしてなによりも彼こそが全ての始まりでもある。


「——」


 思い返せば鮮明に蘇る記憶。

 静かに故人の冥福を祈り感謝と共に心を落ち着かせると一息つき、そっと瞼を開く。ふと、こはねは物思いに耽るのを止め踵を返して来た道を戻って行く。ストールを手繰り寄せヒールを鳴らし闊歩する。

 暗い夜道。転ばないようドレスの裾を少し持ち上げる。気持ちを抑えながら石段を上がり劇場の方へと戻って行く——。



✳︎ ✴︎ ✳︎ ✴︎



 コンサートマスターが合図を送る。

 劇場内では柔らかな空気に包まれる中、舞台上には正装姿の楽員が着席し全方位の観客に見守られながら四管編成フルオーケストラの音の調整が始まった。それまで談笑をしていた客たちも口を噤み、静まる場内。オーボエの音が響き渡り、他の楽員たちも緩徐に楽器を構えた。菅弦楽器が次々と音を出して合わせていく。ピンと張り詰めた弦、磨き上げられた楽器の表面は照明に照らされ美しく煌めく——。



✳︎ ✴︎ ✳︎ ✴︎



「……はぁ……はぁ」


 小さく息を整え、立ち止まる。

 音楽劇場へと戻る為、道なりに沿って歩いて来たつもりだが、どこかで道を間違えたのか。見覚えのない深い緑に囲まれた場所に来てしまった。

 ——先程から何者かにつけられてる。そんな気がする。

 暗い森に一人、迷い込んでしまったこはねはそう危惧していた。人気の多い場所あるいは明るい場所へと向かいたい。平常心を保ちつつ再び歩き出そうとした、その時—— 。不意に背後から足音が聞こえこはねは身構える。ゆっくりと振り返えると、暗闇からゆらり黒い人影が現れた。


「……」


 次第に心臓の拍動が重く激しく打つ。落ち着かせるかのように無意識に胸の前で手を握る。

 雲の切間から月明かりが差すと、その相形が露わになった。精悍な顔立ちの男は冷風に煽られ赤黒い髪が揺れる。まるで何も感じないかのようなその空虚な瞳は、警戒するこはねを捉えたまま一歩、また一歩。何も発さず躊躇ない足取りで距離を詰める。

 男から異様な無気味さを感じる。ここにいてはいけないと頭では分かっているが足が動かない。逃げ切れる自信もなくこはねはその場に立ち尽くす。その間にも男はこちらへと向かって来る。


「……」


 男は緩慢な動作でその細長い指先で無遠慮にこはねの顎を掬う。逃げても抵抗しも無駄だと瞬時に悟り、抵抗はせず素直に男の手を受け入れた。

 温度のない金色の瞳と目が合う。

 男はどこか探るようにこはねの顔を凝視したあと、片方の手で懐からハンカチを取り出し、彼女の口元に充てがう。


「——んっ!?」


 抵抗するこはねを男は片手で抑えつける。

 数秒。突然胸に強い不快感を感じ視界が暈け、ぐらりと身体が弛緩する。膝から崩れ落ち地面に倒れそうになるこはねの身体を男は抱き抱えた。


「……っ……!!」


 次第に呼吸が抑制され、男の腕の中でもがき苦しむこはねは朦朧とする頭で必死に抵抗するがその力は酷くひ弱でびくともしない。じんわりと視界が暗転し、こはねは抱き込まれたままそっと意識を手放した——。



✳︎ ✴︎ ✳︎ ✴︎



 コンサートは定刻通り開演した。

 照明が絞られ大勢の拍手に迎えられながら舞台袖から正装姿の指揮者が現れた。コンサートマスターと握手を交わし指揮台の横に立つと、眩いライトゴールドのスポットライトに照らされながらステージを埋め尽くす客席に向い軽いお辞儀をし指揮台に登壇する。


 四階バルコニー席。一人、長い足を組みながらそのようすを眺めていた。視線を外し隣の座席を見ると、やれやれ、と言いたげな呆れた顔をする。演奏が始まっているのにこはねが戻らない。

 いつもの事とは言え、今日は大切な日だと言っていたのに。だが、きっとそのうちに戻って来るだろうと思い、深くは考えず演奏に耳を傾ける。


 ——結局。最後までこはねが戻る事はなく、隣の席は空席のままだった。



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NATURAL 夢野 幻 @yumenogen20221010

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