第三章 四
呪いの輪郭が今までよりもはっきりとしている。周囲に漂う穢れも怨念も、何もかもが明瞭に目と肌で感じ、認識できる。あまりにも鮮明すぎて、覚醒に戸惑うより先に、恐怖を覚えた。
阿嵐もこのような世界が見えていたのか。
とてつもない刺激が常に体をつきまとう。以前とは別の意味でどこに集中したらいいのかわからない。見定まらない。どうしたらいい?
「君は祈ってくれさえすればいい」
扇を拾い上げた阿嵐は白露にそう言って差し出す。
静寂を表す瞳がまっすぐに彼女を見つめると、惑う心が静まっていった。痛いくらいだった視界が棘をなくし、和らいでいく。
「呪いの内側にある誠の心に捧げるのだ。それが君の本領だろう?」
彼は口端を上げて見せた。
私の本領。私の役目。
白露は扇を受け取り、今一度己の姿を思い出す。
巫は、穢れた魂を鎮め、正しく導くために在る。
深呼吸して、頭の中にある一切の雑音を消し去り、目を瞑った。舞を踊る時と同様、無の境地へと意識を向ける。
扇を親指に挟み、手のひらを合わせる。
凪のような静けさが、訪れた。
「さて」
阿嵐は数珠を絡めた手で刀を握り直す。呪いの叫びは、いつしか化け物ではなく、女性そのもののような切ない嘆きに変わり、動きも鈍くなっていた。
花の尾がふわりと広がる。
「兄上、大丈夫?」
戸にしがみつくようにして見守っていた賢優は、具合が悪そうにしていた士優の顔を覗き込み、驚いた。
両手をついて脱力しながらも、士優の目は白露の姿をしっかりと捉えていた。その瞳から、一粒の涙を流し、頬を伝ってもなお、拭おうともせずに注視していた。
まるで心を奪われたかのような表情だった。
「子守唄が、聞こえた気がして」
「……え、唄?」
その唄は、士優の過去の記憶を蘇らせた。
掠れた歌声。
ぎこちない手つき。
おそらく自分が元から持っていた記憶ではない、呪いから影響を受けたものなのだろう。今まで思い出すこともなかった、穏やかな時間。暗い記憶ばかりで掘り返すこともできなかった過去に、こんな瞬間もあったのだと、彼は初めて知った。
母は笑っていたのだろうか。それすらもわからないけれど。
少しでも、自分に優しさを向けて、少しでも子を愛おしいと思ってくれていたのなら。
「母上……」
魂は同じだとしても、たった一人の存在だった。
「どうか」
せめてこの祈りの果てで、安らかでありますように。
阿嵐は、床を蹴って呪いへと飛びかかった。
刃がてっぺんから振り下ろされる。
ざあっと切れた先から、砕いた宝石のような粒が飛散し、浄化されていく。
真っ二つになると、歪な形に曲がりながら浄化が進行し、やがて、建物全体から黒い穢れは跡形なく祓われた。
最後に、残りの小さな粒が宙で煌めき、白露が生成した神聖な生物が花と散って消えると、彼女はゆっくりと目を開く。
これで、苦しみから解き放たれただろうか。
ぶら下がっていた太い縄は、切れて床に落ちてしまっていた。
柔らかな雪が古びた建物を濡らす。
寒さはもう、感じなかった。
阿嵐は独鈷杵で中央を叩き、摩訶不思議な言葉を吐くと、先でぐるりと円を描いた。
大きな波紋が途端に広がる。それは離れに留まらず、屋敷全体から村の端々、そして山の頂上までもを覆い、山の祠は呼応するようにして高く澄み渡る音を響かせた。
「あれって鈴の音?」
「各所に置かれた鈴が勝手に鳴っているのか」
ここから山は見えなくとも、賢優と士優は自然に外を向いて音に耳を澄ませた。
こうして、全ての穢れは祓われたのである。
再び、この地は清浄を取り戻した。
「こんな少ない手順で終わらせてしまうなんて」
「祓いの手法はいくらでもある。俺はあらゆる物怪の煩悩……核を直接破壊し、導くことに特化しているが、白露の君の場合は舞による御魂鎮だ。荒れた魂に呼びかけ安らぎを与えることが出来る力。だから呪いが近くにあっても被害なく村を守れたのだろう。いつもは儀式のついでに山も浄化していたのだから、この程度で済むのは普通だ」
独鈷杵を懐にしまいながら立ち上がり、阿嵐は外へ出た。寒がる素振りも見せず、気持ちよさそうに深く息を吸う。
「ああ。空気が美味いな」
「こんなに変わるものなのですね」
白い景色は相も変わらず、冷たい雪が降り注ぐばかりだったが、整った清らかな気が村いっぱいに広がっているのを白露は感じた。きっと山も、生まれ変わったように新鮮な気を漂わせていることだろう。
「平気か、白露。痛むところは」
士優が傍に寄って声をかけた。先程呪いから吐き出されたのを気にしているのだ。
「……ええ、心配ありません。少し打ってしまっただけです」
それにしても、なぜ急に呪いが自分を飲み込んだのか、白露は釈然としない気持ちでいた。魂が今の自分に何かを訴えたかったのか、何かを思い出して欲しかったのか。
空を揺蕩うようなあの感覚。持たないはずの記憶。懐かしい子守唄。
彼女もまたその唄を聞いたことがあった。かつての自分が歌っていたから。けれどいつから歌われていたものだろう。村に伝わるものではない。ずっと昔に作られたような気がする。子どもをあやす様に、己の魂を癒すために歌っていたものだから。
記憶を遡って行くと、白露は気づいた。
……この唄が、鍵だ。
今の自分にないはずの記憶が、刻まれている。
何もかもが、思い出せる。
兄さま、と白露は続けた。
「私はやっと、ここでの役目を果たせました」
士優はじっと白露を見下ろした。
彼女の表情は、いつも気を張って強ばっていたそれとは打って変わって、清々しく穏やかになっていた。白露もまた、呪縛から解放されたのだと、士優は安心し、頭を撫でた。
「ああ。よく頑張ったな、白露」
賢優が横から彼女に飛びつく。
「ほんとに怖かった!お前が食われたとき気絶しそうだったんだぞ!」
「……兄さまたち、私をいつまで小さな子だと思っておられるのですか」
揉みくちゃにされ、髪が乱れても、白露は抵抗しようとはしなかった。
自分という存在が如何なるものかを知れても、今ある自分は彼らの兄妹であることが喜びだった。地に足をつける生き方が白露の誇り。彼らを守れたのもまた人生の誉れだ。
弛緩した空気にしばし浸っていると、従者らと話をしていた阿嵐が傘を持って言った。
「ではお前たち、今後のことを話し合おうか」
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