第一章 四
日が天に昇る頃になると、彼らは装備を整えるために屋敷に戻り、着替えてから再び庭へと出た。
腰には黒い
直系の血筋と腕の立つ者たち八人以上で固まって山に入り、各所にある祠を巡りながら穢れを除き、祈り、物怪の魂を断つために廻るというもの。物怪はバケモノの“形”をとる前に“魂”としてこの世に出現し、魂は人やものから流れ出た穢れと合わさることで初めて形を得て物怪となる。祈祷により魂に呼びかけ、穢れを払うことで未然に物怪を退く。これが祈祷巡りの意義なのである。
点呼を終え、互いの装備に不備がないか確かめ合うと、士優と賢優が先頭となって山へ入って行く。後に続く男たちはみな薙刀を持ち、地面に突きながら祈りを唱え始めた。自然の中にその声は静かに響き渡る。時が止まった景色の合間を縫うように、黒い行列が通り過ぎる。
普通の人間であればもちろん、祈ることはできても物怪を払うことはできない。一見この祈祷巡りは非常に無防備で危険に見えるが、実は長男である士優は僅かだが祓いの力を持っていた。鍛え上げられた剣術を使えば、よっぽどの脅威が現れない限り追い払える。一方、賢優は魂の状態でないと祓えないほど力は微弱だった。
この土地の場合は山奥に行き過ぎなければ物怪に遭遇することはほとんどない。集団で行動していれば対策は十分だった。
「これ、もし、白滝のお方」
祈祷に混じって微かに人の声が聞こえる。集中していたはずが、割り込むようにして入ってきた声に違和感を覚え、士優は辺りを探した。誰もいない。であれば、気のせいなのかと正面を向いた時、視界の右端に背の低い老人が立っているのが見えた。
「!……そこのご老体、こちらの村の者ではないな」
「さよう」
突然現れた老人に全員が警戒心を向ける。こんな半端な山道を散歩する人などいるはずはない。それに村人との交流を怠ったことのない士優が、老人一人の顔を見分けられないわけがなかった。
「なぜこんなところにいる。どこの者か答えよ」
「わしは東のずっと遠くの竹藪から来た者だ。山がちと騒がしく思うて歩いていたのだが、これまた随分と穢れがたまっておるのう」
やけにまっすぐな背筋で老人は空を仰ぐ。
士優は完全な地図を見たことがないため、国の地理には詳しくない。しかし遠くから来ただけでは老人がここにいる理由にはならない。町に行くならまだしも、こんな田舎のよくある山に来るのはよっぽどのことがあったに違いなかった。
「一人でふらつくのは危険だ。物怪に遭いたくなければ今すぐ帰るといい。……聞いているのか?」
見向きもせずにゆっくりと首を回していた老人は、不意にぎょろりとした目で士優を睨んだ。
「危ういのはあなたの方だ。この腐ったような“気”も感じぬ
「なんなんだあのじいさん」
「おのれ、無礼だぞ!」
士優の後ろにいた男たちが喚くも、彼は腕を上げてそれを制した。自身の村では権力を持っていても、しょせんは田舎の下級貴族だ。矜恃はあっても威張れるほど彼は傲慢ではなかった。
「腐った“気”とはなんの事だ」
「物怪が住み着くと穢れが自然を侵す。物怪が増えれば増えるほどその領域は広くなり色濃くなる。あなたはそれを感じられるほどの異能はないということだ」
相手をしてはなりません、という後ろからの声も、士優には届かなかった。この老人は何かを知っている。
「……そうだ。俺には大した力は宿っていない。しかし麓では祓いの儀を終えたばかりだ。それなのにどうしてここが穢れていると言える?」
「もはやこの穢れは儀式のみで追いつける濃さではなくなっておる」
「……さすがに、嘘でしょう?」
雰囲気を軽くしようとした賢優の言葉が、沈黙した場の空気に霧散する。
「そちらの村にいる巫の娘に聞いてみるといい。そうすればわしの言った意味がよくわかるだろう」
老人は最後に念を押すように声を低めて言った。
「よいか。すぐに村へ帰るのだ。長く歩いてはいつ物怪に遭うかもしらん。大事になる前に必ず、必ずだぞ」
呼び止めるよりも早く、ご老体とは思えぬ俊敏さで木々に紛れ、あっという間に姿を晦ました。
我々を惑わすために暇な老人がからかいに来たのだ、と言う者もいたが、士優はそんなことよりも、さらりと出た巫の名に冷や汗をかいていた。
儀式を行ったと明かしても、その内容や、不思議な力を持つ娘がいることは一言も漏らしていない。なのになぜ、あの者はそれを知っているかのような発言をしたのだろう。
唐突に父の顔が思い浮かんだ。
「兄上……大丈夫?」
巫がいることを外に知られてはならない。
「……ああ……なんだか気分が悪いな。祈祷は手短に済ませて戻ろう」
宙を見つめて固まっていた士優が、妙な汗をかいていることに賢優は気づく。
「兄上は体調が優れないそうだ。途中だがここから折り返すぞ。祈祷を続けろ」
回れ右で賢優は列を整え、彼の指示で来た道を戻って行く。
士優は老人の言葉を頭の中で反芻した。山のこと、物怪、そして巫。怪しいと思った時点で捕らえることもできたはずなのに、正常な判断も下せなかったとは、これでは本当に惑わされたみたいだ。
それでも間違いを一方的に言われたわけではない。士優には心当たりがあった。
儀式の間隔が年々狭くなっているのは村のみんなが察している。その事について言及する者は誰もいなかったが、彼だけは一度だけ、白露に尋ねたことがある。自分たちが十分に祈祷できていないせいで穢れを多く祓う羽目になっているのではないか、と。白露はすぐに否定してこう言った。
「山が悪いのではありません。穢れの“元”はここにあるのですから」
わかっているでしょう、と言わんばかりに、彼女は床を指したのだった。
あの後、自分がどんな反応をしたのか覚えていない。今のように混乱したのか、焦ったのか、記憶が朧気で思い出すことすら拒んでいる。とにかくすぐに、白露に会わねばならないことはわかっていた。
坂道だからか、無意識に早くなる足取りが、心の内を表しているようだった。
しかし実際に白露と会えたのは、それから三日後のことだった。ただでさえ、互いに役目が多く屋敷で会うことも少ない。白露はこの間、村の家々を訪れこれまでの働きに感謝し、冬を耐え抜くための祈りを捧げに回っていた。帰る頃には日が落ちており、自室で休んで次の日にまた出ていくのを繰り返すため、ゆっくり会えるような時間はとれなかった。
事前に話を通していた侍女に案内され、士優は部屋に入った。
それまで本を読んでいた白露だったが、日が高くなる前に一冊読み終えてしまい、所在ないままに火桶の箸をいじって、灰に模様を描いていた。
「……兄さま。珍しいですね、わざわざお呼びするなんて。何かありましたか」
士優と目が合うと、白露はまたあの微笑を浮かべて崩していた姿勢を戻した。場を設けて話すくらいだ、よっぽどのことがあったのだろうと彼女は察していた。
先日の祈祷巡りは道半ばで終えてしまったと侍女から聞いている。おそらくその日に気づいたことがあるのだろう。いつか問われる日が来るとわかっていたからか、特別な心構えなどなく彼の話に耳を傾けた。
「人払いを頼む」
お茶を運んできたこずえにそう告げ、士優はまっすぐに白露を見据えた。
「疲れているところ悪いな。少し気になることがあるんだ」
「山の穢れのことでしょうか」
回りくどいやり方は必要ない。その意図を察し、士優はさっそく本題に入る。
「……ああ。聞いたかもしれないが、祈祷中にご老体が現れて、変なことを言われたんだ。山の穢れは相当なものだ、とても儀式で祓える濃さではないと。俺はそこまでの力がないから判断のしようがなかった。だが白露にはわかるんだろう?」
彼女は口を固く結んでいた。
「正直に答えてほしい。白露から見たこの山はどうなっているんだ?」
外では、しんしんと雪が降り始めていた。嫌に床が冷たいと思っていたが、火桶の炭に火をつけたばかりで、まだ十分に温まっていなかった。
「兄さまの仰る通りです。私は物怪を祓えても、長らく蓄えられた山の穢れまでは浄化しきれていないのです」
「なら、儀式を多くやるようになったのは、村への穢れの進行が早まっていたからなんだな」
「はい。一度祓いさえすれば、しばらくは浄化された地に物怪が寄り付くことはありません。それは兄さまもご存知だとは思いますが、穢れが蓄積し続ければそれだけ物怪も増えていきます。儀式の日はだんだんと間隔を狭めて行くでしょう。つまり、既に私の力では山を浄化することは適わないのです」
災い……、この言葉が士優の脳裏に蘇った。村はとうの昔から、山肌を削るようにして危機に侵食されていたのだ。白露でもどうしようもないほどの穢れで満ちてしまっているから。そんな中をあの日、何も知らずに歩いていたのかと思うとぞっとした。老人に出会わなければ、帰る選択肢もなかったはずだ。そして白露に真実を聞くことなく、自分の見えている世界に満足してしまっていたかもしれない。
とんだ思い上がりだった。妹のことを思っているふりをして、白露がその事実を知りながらどんな思いで過ごしてきたのか、気づくこともなければ想像すらしてこなかった。なんて情けないことだろう。
士優は顔を上げられなかった。
「私が至らないばかりに、ごめんなさい」
「なぜ謝る?何も知らずお前の力に甘えていた俺にも責任はある。一人で物怪も祓えない俺を頼れるはずがなかったのに。心に寄り添うこともしなかった。何もしてやれなくて、本当にすまない」
拳を握り、頭を下げる兄を前に、白露は目を見開いた。
士優は温かみのある人間だ。長男であるにも関わらず、巫であるというだけで優遇されて育てられた妹を僻むことなく、恨みを抱くこともなくよく気にかけて可愛がってくれた。士優には元服以来、新しく仕立てられた着物はない。父上から髪紐すら贈られたことがない。それでも彼は誠実に生き、己の役目を果たしながら過ごしてきた。ただ与えられたものだけで人生を組み立ててきた自分とはまるで違う。こんな自分をどうしてここまで思ってくれるのだろうか。
「……それは違います。巫とは元々そういうものです。身内を含め全ての人々を救うことが私の務め。それが出来なければ、私がここにいる意味はありません」
だから一人で舞い続けた。みなを守れるのは自分だけなのだと、その気持ちを糧にしてここまできた。己の価値そのものである力が役に立たないと知られてしまえば、きっと誰もが白い目を向けるようになるだろう。白露は人というものが如何に薄情であるかをよく知っていた。
「悲しいことを言うな。……そうだ。穢れの根本となるものを直接清めることで山の穢れを止められないか。せめて山がこれ以上ひどくならないようにできれば、」
物怪とは、人やものから流れ出た穢れと、魂が合わさることで生まれる。
人や、もの。
「根本は、とても私の手に負えるものではありません」
「心当たりはあるのか?」
白露は否定も肯定もしなかった。
「穢れの領域があまりにも広すぎるせいで、元を辿ろうとしても上手くいかないのです。けれどここまでの規模になると、原因はこの村にあるとしか考えられません。兄さまこそ、何か心当たりはありませんか」
人の穢れ、ものの穢れ。
士優の心の奥底にあった錠前が、そっと揺れる。
「大変でございます白露さま!」
顔面蒼白になったこずえが大慌てで部屋へ転がり込んだ。何事かと問うと、
「組合の者が物怪に襲われたそうです!」
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