第一章 三
その頃、
「突然呼び立ててすまなんだ。なにぶんここのところ忙しくてな、お前たちの顔を長らく見ていなかったものだから、時間のあるうちに会っておきたかったのよ」
上座でそう笑うのは、当主の禅優である。痩せこけた頬と申し訳程度に生えた髭、それと眉尻の下がった目元は少々気弱な印象を受けるが、久方ぶりに会う子らを見た表情はとても優しげだった。
「こうして食事をするのは夏の終わり以来でしたね」
「おれ聞いたことがあります、貴族は家族でわざわざ集まって食事しないんだって。いつも貴族の真似してるのにこういうところは譲らないんだな〜」
白露の隣には二人の兄が並んでいた。長男の
普段は日中穢れを払いに山に行き、家では鍛錬や父から一部引き継いだ雑務をこなしているため、白露と彼らも顔を見るのは随分と久しぶりだった。
「まあそう言うな賢優。父上は案外さびしがりやだ。たまには人恋しくもなるだろう」
「そうだともそうだとも……さぁ、そろそろ食事を始めようか。せっかくの膳が冷めてしまうからね」
それぞれが手を合わせて祈り、箸をとる。賢優は米を一口食べると、大人しげに湯のみを手にした白露に話しかけた。
「そういえば儀式見たぞ。お前少し大人っぽくなったんじゃないか?裳着を終えたのがついこの間のことのようだったのに、すっかり紅が馴染んじゃってさ」
「裳着は二年も前のことですよ。そういう賢優兄さまは、ひとつしか変わらないのにお顔が可愛いままですね」
「ああ、こういうやつだってこと忘れてたよ」
白露は彼の眉を寄せて笑う絶妙な表情を懐かしく思った。賢優とは昔こそ二人でよく遊んだものだったが、だんだんと個人の時間が増えていくうちにそれも少なくなってしまっていた。隣り合わせの年でもはや双子のように接してきた彼らは、成長した今でも互いのことを年下のように思っていた。
「白露、賢優。今度また町に降りる予定ができたから、欲しいものがあれば言っておいてくれ。買ってきてやるよ」
「え、また行くの?いいなぁ兄上は。おれも見物してみたい」
「お前がもう少し勤勉になればお務めも任せてくれるだろうさ」
士優は村で取れた作物などを町で卸売りする役目を担っていた。
彼はしごく真面目で努力家な人間である。長男として家に貢献するため、元服する前には基礎的な学問や世の中の知識を仕入れた本のみで吸収し、そして大人として認められたその日から当主の務めを一部任されてきたのである。彼は滝之雪の歴史の中でも稀に見る男児だった。
「本を読むのは嫌いだね。中央に比べればこっちに広まっている学問はだいぶ遅れているみたいだし、あんまり意味を感じられない。おれは体を動かす方が性に合ってるよ」
「じゃあ武術の心得を学べる本でも買おうか」
そんなのを読んでいたら眠くなる、と賢優は大げさに仰け反る。
「おれは椿餅をもう一度食べたい!」
「わかったわかった。白露はどうだ?」
「私は、何もいりません」
賢優は気安く肩を叩き顔を近づける。
「遠慮するもんじゃないぞ白露。兄上はがっぽり稼いでいるんだから、お前の頼みなら聞いてくれる」
「聞こえているんだが」
そう言ってくれたものの、白露は本当に何も望む気はなかった。普段から巫の自分が必要だと思われるものは父が全て与えてくれていた。既に十分なものを持っているというのに、今さら自分が何を欲しいかなんてわからなかった。
「いえ、特に思い浮かぶものがないのです。見物のお時間がたくさん取れるといいですね、士優兄さま」
白露はにこりと微笑んで見せた。彼女がそう言うのなら、本当にそうなのだろう。士優はそれ以上聞こうとはしなかった。
「ねえ父上。おれにも外出許可をくださいませんか。一度でいいからどんなところか見てみたいんです!」
「それはならんなぁ」
のんびりと父が答えると、賢優は食い下がった。
「一日くらいいいでしょう?おれ毎日鍛錬してるし、少しくらいご褒美くれたっていいじゃないですか〜」
「白露は四六時中、この村のために働いてくれているというのに、賢優だけ特別に出す訳にはいかんだろう」
「──それは、白露だって外に出たがっ」
かしゃん、と小鉢が床に落ちた。白露が賢優の袖を強く引いたのである。
「言ってはだめ」
控えめな声とは違い、その双眸は強く訴えかけていた。
「言わないであげて」
「……あ……う、うん」
圧倒された賢優はちらりと父の顔を窺って頷いた。父上は穏やかなままだったが、ほんの一瞬、目元に険を浮かべたように見えた。
侍女が小鉢を片付けに来る。
「ごめんなさい兄さま、これ、私の分を食べてください」
「お……おお。別に、大丈夫だよ」
妙な静けさが部屋に漂った。
「……あー……、おれ、鍛錬もっと頑張ります」
「そうするといい」
それきり会話はなくなった。気まずそうに背中を丸めた賢優に、頃合を見て士優が別の話題を振り、そうして朝餉の時間は過ぎて行ったのだった。
「あのことをもう忘れたのか」
白露と別れた後、道場に向かう道で士優は軽く賢優を小突いた。
「そんなわけないよ。つい口が滑ったんだ。白露を外に出さないようにしているのは父上なのに、ああいう言い方はずるいと思わない?」
「そうかもしれないが、父上を怒らせたら困るのは白露なんだぞ」
実際にそんなことが起こったのは、二年ほど前。白露が町に興味を持ち、兄や侍女にあれこれ聞き回っていた時期があった。その日知ったことを毎日のように侍女のこずえに話し、本人は面白い話の種として新鮮な出来事を取り込むのを楽しんでいた。するとそのうち、こずえは良心が芽生え白露が町に降りられるようにならないかと考えるようになった。
ある時こずえは直接、当主にお願いをしに行った。ところが当主はこずえの言い分に頷くどころか、突然癇癪を起こして怒鳴り散らしたのだ。
「こずえもあの時泣いていたが、一番ひどいことを言われたのは白露の方だった。あんなに小さな頃からみんなのために舞を踊ってきたのに、『村を裏切るのか』なんて。白露は何も悪くなかったのに責められていた。父上は白露に全てを委ねすぎなんだ。そしてそれが負担になっていることにも気づいていない」
宙を睨む士優の横顔を、賢優はそっと見上げ、肩を落とす。
「やっぱり、関心をなくそうと思って何もいらないって言ってるのかな」
「無欲なのは元からだったが、今は好奇心すらなくしてしまおうとしているように見える。昔は情緒豊かだったのに、あまり笑うところも見なくなったな。さっきも気を使って笑っていたし。……全部、父上がそうさせたんだ」
彼の心を宥めるように、賢優は背中を軽く叩いた。
「兄上、何か白露が喜ぶようなものを見繕ってくれよ」
「そのつもりだ。だけどあそこも小さな町だから、いい物が見つかるかはわからないけど」
「兄上が選んでくれたものなら嬉しいに決まってる」
二人は互いに顔を見合わせ、笑った。どうしてか士優は、弟に励まされたような気分になって頭をかいた。自分は一番上の兄だからと気負っていても、結局、全てをわかった上でそばにいてくれる弟が何よりも救いになっているのを実感した。同時に、気恥しさも覚える。
もし、賢優のような共有者がいなければ、今頃どうなっていただろう。心の内を他人に見せるのは勇気がいることでも、それができる身内がいるのはこんなにいいものなのだと、ここ数年を振り返ると余計に思うところがあった。
その後、稽古で打ち合いをした二人だったが、やけに気合いが入った士優に賢優は振り回され、疲れ果てるまで木刀を振るう羽目になった。
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