× × ×


「あの、どうかされましたか」

 控えめな声をかけられてふと我に返った。やつれた顔が心配そうにこちらを見ている。そうだ、自分はまた忌書の記憶を視ていたんだ。

 自分は競取り屋として故人の遺品の買取に訪れた。亡くなったのは製薬会社に勤め、新薬の開発に貢献した研究者の男性。しかし私生活に問題があり世間の非難を浴びる中、自宅で亡くなっているのが発見された。死因は心不全だという。遺された彼の妻は、夫の遺品である忌書を手離すために自分を呼びつけた。

 その忌書とは『ファウスト』。ゲーテの戯曲の翻訳版だ。死後に魂を渡す約束で誘惑の悪魔メフィストフェレスと契約したファウストは若返り、享楽に耽る。恋人や名声を得た反面、大切なものを幾度となく失いながらもファウストはその生に満足して死を迎えるが、その魂はメフィストフェレスに囚われることなく、かつて愛した女に救われて天に昇っていく。

「本当に手離していいんですか?」

 念のため、そう訊ねると奥方は青白い顔を顰めて頷いた。

「ええ。亡くなる前、夫がこの本に向かって喋ったり怒鳴ったりしていたのを目撃しました。なんだか気味が悪くて……お代は要りませんので、早急に買い取っていただけませんか」

 答える奥方には見えても聞こえてもいないのだろう。忌書の中で喚く夫の姿が。

「お前まで俺を見捨てるのか!? 俺がお前の願いを何でも叶えてやる、だから俺をここから出してくれ……」

 金と名誉と女を手に入れ、そして全て失った男はなりふり構わずに喚き散らす。その様は憐れでもあった。

 恐らくこの忌書に棲む悪魔とは、グレートヒェンに救われることのなかったファウストの成れの果てだ。そうして次の持ち主の前に誘惑の悪魔として現れ、願いを叶えながら外に出る機会を眈々と待っている。持ち主の魂を新たなメフィストフェレスとして忌書に縛りつけるために。

 自分は奥方から本と謝礼を受け取ると、彼女の家からお暇した。泣き落としが妻に通じないことを悟ったのか、忌書に囚われた魂は今度は自分に話しかけてくる。

「なあ、お前。お前だよ、俺を持ってるお前! お前の願いを何でも叶えてやる、だから……」

「悪いけど、俺が叶えたい願いなんてもう何もないよ」

 男が持ちかけてきた提案を静かに遮る。そう、瀬戸セト蒼乃アオノとして生きている自分に叶えたい願いなどない。過去を変えたい、やり直したいとは思わない。過去をなかったことにするのは、自分を救ってくれた彼女に失礼だから。それに、今の自分を形成する縁をなかったことにはしたくない。

「なので、他を当たってください。きみと波長の合う人間が、いつか現れますから」

 そう告げて、古巣でもある古書店へと足を向けた。自分は彼のファウストにはなれないけれど、いつか彼が新たなファウストに巡り会えることを信じて。

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合縁奇縁〜ゑにし堂綺譚〜 佐倉みづき @skr_mzk

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