第7話 混線する一人称

一人称もこれまた難物である。知人曰く「小説を書き慣れない内は三人称で書いた方がよい」といった教導を受けたとのことであった。蓋し至言であろうと思う。自分はそういった教導を得る機会がなかったので、素直に羨ましかった限りである。


そして対極と評してよいだろう言に、「主人公は作者のアバター」という表現を見かけたことがある。要はあの作者の描く主人公は毎度変わらないが、それは『この状況であれば自分はどうするか』というテーマを主人公を通して描いているということなのだろう。そして同じテーマばかり繰り言のように反復するがために、読者からは食傷気味に感じるのであろう。


さて、ここでは「私」と「筆者」を混同してしまうとただでさえ混乱するであろう論議をさらに混乱させることになるため、本稿中では以下のように定めることとする。


本稿において「私」と書いた場合は、今この文章を書いているである私こと四辻重陽を指すこととする。そして本稿において「筆者」と書いた場合には、文章(特に小説ないし物語)を執筆する者全般のことを指すこととする。無論、「筆者」には「私」こと四辻重陽も含まれるが、あくまで一般についての言及であるものと思っていただきたい。


そう定めでもしなければ、恐らくこれからの議論は混乱することとなるであろうため、あらかじめ了承願いたい。


さて、かくいう私も「この小説の主人公の語りはお前の独白でしかない」と断言されて崩れ落ちたことがある。無論、それは一つの気付きとして糧とはなったのだが、その後行き当たったのは「では一人称視点で語る主人公とは何者であるべきか?」という新たな問いであった。


さて、この問いを立てた上で考えなくてはならないのは、恐らく筆者と主人公の距離、そして読者と主人公との距離であろう。筆者と主人公との距離は厳然と定めることが恐らく望ましいと私は考える。しかし、「自分ならこう動くだろうが、この『主人公』なら恐らくこう動くだろう」と線引きをして考えることはかなり難しい。こと一人称では主人公が語るであろうことと、筆者が語りたいであろう内容が乖離することは往々にしてある。


さて、以降はは筆者と物語中の主人公と筆者を分離するために、物語中の主人公を敢えて『主人公』と表記することとする。錯綜すると表題に描いている通り、この辺りを弁別しておかねば余計に混乱することになると思われるためである。重ねてご容赦願いたい。


舞台背景や『主人公』が本来知りえないこと、そしてその後の展開を俯瞰したうえで「何を書きたいか」と「何を開示すべきか」が一致しないことがあるのはそう珍しいことではあるまい。あるいは弁別することが難しいこともあるだろう。そうなった際において「何を書きたいか」を優先してしまうのは物語を書く者における宿痾であると同時に、「付き合いきれない」と読者が去っていく端緒になりがちでもある。


無論、そうならない場合もある。それは作者自身が物語の舞台に適しているか、或いは極言すれば「作者本人が面白い人である」という場合である。しかし、そのような場合であればこのような雑記を読まず伸びやかなまま筆を走らせるべきであろう。つまるところは「書ける人」であるのだから、そのまま書き続ければ宜しい。本稿は文章執筆に思い悩んだ際の助けとなればと書いているものであり、決して角を矯めるための物ではない。


さて、それを前提として私が思い知らされたことは「読者は『主人公』が筆者の書きたいもののために唐突に一貫性を失うことを倦厭しがちである」ということと、「筆者が執筆に要する時間と、作中における時間と、読者が物語を読み進める時間の間には乖離がある」ということである。


前者について端的に言えば、筆者が書いて楽しい文章と読者が読んで楽しい文章の間には隔たりがありうるということである。これは言うが易しであるが、対策を施すとなるとこれほど難しいこともない。慎重に慎重を重ね推敲した文が好評を博すこともあれば、思うに任せて書き上げた文が好評を博すこともある。逆もまた然りである。


前者については読者が嫌うのは概ね唐突に筆者のその後の展開や思惑に添わせる形で物語が捻じ曲がることであろうと、少なくとも私は考える。これについて対策することは非常に難しい。


何故なら筆者の思惑とはすなわち筆者が執筆する動機と分かちがたい上に、筆者が「読者から見てどこまで筆者によって物語が捻じ曲げられたのだろうか?」という視座を適正に保つことは難しいからである。


つまるところは想定読者にとって妥当な物語とはどのようなものかということになるが、そればかりを考えてしまっては筆者の筆は進まないことだろう。少なくとも私にとってはそうである。


後者については、ある程度意識的に問題を回避できるだろうと思われる。『主人公』は必ずしも一貫した思考の持ち主である必要はないが、「このような出来事や思惑があって今はこういった行動をとっている」と明確化すれば良いのである。


こと歳を重ねることについては入念に書くべきかもしれない。と言うのも、作中において数年あるいは数百年が過ぎようが読者にとっては数時間あるいは数分ということは往々にしてあり得るからである。


また、筆者が歳を重ねることによって見解や視座が変わることはあるが、それをどこまで反映するか或いは反映させないかについては力量が問われるところなのであろう。


つまるところは物語を核において、『主人公』の一人称によって話を進めるのであれば、『主人公』は何を知っており、何を知らず、どのような目的のため動き、どのような結末を望んでいるかを予めある程度明確に定めておくべきではあるまいかということになるだろう。


無論、「このような結末を望んでいたが、それが許される状況になかった」というのであれば『主人公』の目標変更に至る思惑や苦悩といったものを描くことで物語に奥行きを追加することにもなりうるだろう。


とはいえ、筆者とて一人の人間である。少なくとも私はこれまでの人生経験から、或いは人生経験を反転させたりゆがめたりする形からで『主人公』の原像を作りがちな傾向にある。また私は執筆したいシーンのために『主人公』がとらないであろう行動を強要していると感じた草稿を散々没にしている。


そのような経緯から生み出された『主人公』というものはどうしても「作者のアバター」としての性質を帯びかねない。「作者のアバター」が受け入れられるならそれはそれで幸いなのであろうが、そして私は「作者(私)のアバター」が広範に受け入れられるものでないだろうと認識している。


しかし、そうであるが故にどのように距離を取ればよいのか、結局わからないままでいる。その為一人称視点で主人公を描くことに憧れと躊躇いがある。迷うままの私にとっては、一人称視点での物語を執筆することは難しい。とはいえ三人称で淡々と語り続ける事に徹するのもまた難しい。


などと考えつつ勢いのまま文章を書き殴り、そして没にしていっている。筆者と『主人公』との距離については結局のところ悩んだままである。


この雑文が読者諸氏の何らかの糧になることを願って、この稿を終えることとする。果たして私は私と離れた文を書けるのか? これは終生尽きない課題であるだろう。

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「離」に至るための「破」について 四辻 重陽 @oracle_machine

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