……ーン、ミンミンミー……。

　どこからか、蝉の鳴き声が聞こえてくる。

「…ん…」

　気のせい程度に聞こえていた蝉の鳴き声が徐々に大きくなってきた。

　ミ゙ーンミ゙ンミ゙ンミ゙ーン！ミ゙ーンミ゙ンミ゙ンミ゙ーン！

「……うるせぇなぁ」

　もう少し寝ていたかったのに。セミめ。あー、暑いし。今何時だ？

　時計を確認しようと体を起こしてみると、蝉への苛立ちと眠気が一気に吹き飛んだ。

「⋯⋯え？」

　何冊もの本が雑然としている棚。

　壁に貼られたカレンダー。

　ベッドに向けられ、回っている扇風機。

　古そうなパソコンが置いてある机。

　半開きになっている窓から見える網戸越しの景色。

　目に入るもの全てのものに見覚えがない。そんな中でようやく見つけた時計は11時40分と表示されていた。

　ここは…どこだ？⋯⋯俺は⋯⋯。これって⋯⋯。いやいや、そんなことは……。

　この状況にぴったりな単語が頭に浮かんできた。それじゃない、と否定したくてもそれしか考えられない。…⋯そう、あれだ。

　記憶喪失。

　それしかない。だって何も分かんないんだから⋯。　

　この状況をどうしたものかと考えていると、階段を上ってくる足音が聞こえてきた。だんだんとその足音は近づいてきて、部屋の前で止まった。

「起きてるかい？入るよ」

　ドアがノックされたと思ったら、すぐに開けられた。ノックに対する返事を待つ気はなかったようだ。

　入ってきたのは白髪混じりの女性。少し腰が曲がっているように見える。老婆といって間違いはないだろう。

「おはよう。起きてたんだな」

　急に現れた老婆が誰だかわからずに困惑しているこちらにはお構いなしに、窓際まで進んでカーテンと窓を全開にする。少し薄暗かった部屋が一気に明るくなった。セミの鳴き声がさっきよりも煩くなった。

「⋯あの、どちらさんですか？」

　そう聞くと、一瞬動きが止まったように見えた。

「やっぱりそうなったか…」

「え？やっぱり？」

「いや、なんでもない。⋯私はあんたのばあちゃんだ」

「俺のばあちゃん？」

「そうだよ。あんた、自分の名前わかるか？」

「あー…」

「わかんないんだろ？」

「わかんない、ですね…」

「あんたの名前は亮だ」

「りょう…」

　この人にそう呼ばれても、自分で声にだしてみても全くピンとこない。本当に自分の名前なんだろうか。それに、この人が祖母だという事も。

「ま、記憶喪失ってやつだな」

　さっき、自分でもそう思ったけど、それはそうだろう。

「⋯何年くらい前だったかな。今と同じように記憶がなくなったんだよ。それからはうちで療養してるんだよ」

「え、なにそれ。前にもなってるの？」

「……ここにいても暑いし、下にいくか」

　質問には答えてくれずに部屋を出て行ってしまった。

　さっき、やっぱりとか言ってたし、あまり驚いたように見えなかったな。となると、前にもなっているのは本当なのか？でも、記憶喪失って何度もなるものなのか？

　考えたところでわかるわけはなく、話を聞く為に部屋をでて追いかけた。

　下の部屋はエアコンがよく効いていた。さっきまでいた部屋との温度差が激しい。少し肌寒く感じる。

「亮。あんたはそっちに座りな」

　ばあちゃんに促されて椅子に座ると、テーブルの上にはあるものが置いてあった。

　……これは冷やし中華、だよね。どう見ても。

「聞きたい事はあるだろうけど、まず食べな。もう昼ご飯の時間なんだ」

　そう言って、ズズッズッと音を立てながら食べ始めてしまった。

　いやいやいや！それどころじゃないって！いろいろ教えてもらわないと！前にもなってるって⋯……まぁ、食べながらでも聞けるか。

　どんな時でも空腹には抗えない。

「じゃあ、いただきます」

　あれ？これは前にどっかで…。

「どうだ？」

「ん、普通においしい。それに…前に食べた事があるような気がする」

「最近は暑いからよく食べてるんだよ。⋯記憶がなくなっても体は覚えてるのかもな」

　起きる前の事は何も思い出せない。だから、これを食べたという覚えもない。でも、確かに初めて食べたような気はしない。なんだこれ？

「体は覚えてるって、そういうもんなの？」

「本当のとこは、私にもわかんないよ」

「そっか。…さっきさ、前にも記憶がなくなってるって言ったよね？」

「言ったな」

「なくなった記憶は戻らなかったの？」

「私が知る限りでは戻ってないね」

「じゃあ、ずっと戻らないって事なの？」

「……今日またなったんだもの。わかんないよ」

「じゃあ、またなるかもしれないって事？」

「だから、わからないけど⋯⋯⋯そうかもしれないな」

　そう答える声のトーンが随分と低い。こちらを見ずに冷やし中華が残っている皿に視線を落としている。そのせいで表情が見えないが、明るくはないだろう。前にも記憶をなくしたのに、それが戻らずにまたなくしての今なんて、自分もどんな表情をしているんだろうか。

　食べ終わるまでの間、お互い何も話さずに麺をすする音だけが響いた。

　昼ごはんを食べ終わった後、窓際に座って外を眺めてみる。塀の上に見える空は雲がほとんどない快晴だ。セミの鳴き声が小さく聞こえる。窓がしっかり閉まっているから、さっきよりは煩く感じない。

　天気がいいけど、外には出ない方がいいかな。かなり暑そうだし。つか、出たところで迷子になるだろうな。このまま家にいよう。…普段の俺は何して過ごしてたんだろう？療養してたって言ってたから仕事はしてないよな？

「亮、そんなとこで寝るなよー」

「うーん⋯」

　台所で後片付けをしているばあちゃんの声が聞こえる。いつの間にか寝転んでいたようだ。返事をしたところで眠気に襲われた。満腹になったせいなのか、単なる寝不足なのか、記憶を失ったせいなのか。いずれにせよ、この眠気には空腹同様に抗えそうにない。そのまま身を任せ、視界が真っ暗になる直前「ことしだっ…」とばあちゃんが何か言ってるような気がした。

「⋯…ん⋯⋯⋯うん？」

　お腹のあたりになにやら重さを感じて目が覚めた。ゆっくり目を開けてお腹の方を見てみると灰色の物体と目が合った。

　あ、猫だ。

　そう思った瞬間、視界が灰色でいっぱいになった。灰色の端から、同じ灰色の足が迫ってくる。そのまま顔をぺしぺしと叩かれた。「にゃー」とわかりやすい音声付きで。

「ちょ、ちょっと！やめっ！ば、ばあちゃん？！」

「んん？起きたのか？あー、そいつはユキって名前だ。亮が拾ってきたんだよ」

「いや、今その情報はいいから！」

　なんとか叩いてくる足を押さえて抱き寄せてみると、嫌がる素振りを見せずにゴロゴロと喉を鳴らしている。俺が拾ってきたというくらいだから、結構懐いてくれているんだろう。動物のこういう行動は信用できる気がする。

「ねぇ、寝る前に何か言ってなかった？」

「ん？そんなとこで寝ると汗かくぞって言ったかな。そこは結構日が当たるんだ」

　言われてみると確かに着替えてしまいたい位の汗をかいていた。気持ち悪い。猫の毛もついているし。

　でも…、

「それだけ？今年とかって言ってなかった？」

「……言ったかなぁ。忘れたな」

　まぁ、寝落ちする寸前だったから、聞き間違いの可能性もあるだろう。

「そっか。それならいいや」

　起きてからずっと、ばあちゃんはこちらを見ることなくテレビを見ていた。何か面白い番組でもやっているのだろうか。

　片手間にユキとじゃれながら、テレビを眺めてみたけど誰が誰だかわからない。しばらく見ていてもそれは変わらなかった。

「全然わかんないな…」

「そりゃそうだろうなぁ」

　思わず出てしまった呟きに、当たり前だ言わんばかりな感じに返された。ばあちゃんは何か知っていてそう思うのかもしれない。でも、こっちにとってはそんな事ではない。少しイラッときた。

「なぁ！なんでそんな普通にテレビなんか見てんの？病院とかいいのかよ？本当はこうなってる原因とか知ってるんじゃねぇのか！こっち見ろよ！」

「普通に、っしてるつもりはっ……」

　そう言いながら、やっとこちらを見たばあちゃんの顔には涙が流れていた。

「あ…」

　よく見てみると目が真っ赤になっている。今泣いたわけではなく、少し前から泣いていたのかもしれない。でも、どうしてだろうか？

「ごめんね。亮の方が泣きたいよね……」

「……⋯…」

「でも、ごめん。ちょっと一人にしてくれないかな？」

「……わかった」

　声を荒らげても離れることなくそばにいたユキを抱えて部屋を出た。

　　いや、本当にこっちが泣きたいくらいなんだけど。なんなんだよ……。何を知ってるんだよ⋯⋯。教えてくれよ⋯⋯。