第51話 重なり合う心と肉体

戦略家 ジークベルト・フォン・アインホルンの物語


 参道の両側には、樹齢を経た糸杉が立ち並び、その尖った幹の先端は、神々の領域である天空に向かって突き出された槍のように、まっすぐに突き立っていた。

 乾いた苔がこびり付いた煉瓦の外壁は、立ち並ぶ大理石の墓標をぐるりと囲繞し、結界によって遮られた外と違って、その内側が、死と沈黙に支配された、全くの異世界であるかのような静粛な雰囲気を湛えている。

 ここは墓苑である。

それも、ヴァルデス公国を支配するヴァルデス大公家を初め、公国を代表する貴顕たちが、現世の命を全うした後、永遠の安らぎの場所となるであろう、青い血を持つ貴族たちを対象とする墓所なのだった。

 今、二人の少年と少女が、ずらりと整列した墓石の間を進んでいく。

半ば朽ちかけた家紋を刻んだ墓碑の上を緑色の昆虫が這い回っていたが、その頭上に二人の影が差し掛かったことで、あわてて墓石の陰に隠れた。

 この場所を歩いている以上、まだ十代に見える少年たちもまた、この国の特権階級に所属している人間であることは間違いのない事だった。

 少女は、腕いっぱいに白い花を束ねた供花を抱えている。

まるで、少女の方が白い花束に抱えられているかのようだった。

 そのすぐ後ろを複雑な表情をした少年が、先行する少女を守るかのように周囲を警戒しながら、その後に続いている。

 少女が、ある墓石の前で足を止めた。

少年がそれに倣う。

 少女の前に立つのは、雪のように白い大理石で出来た墓標であった。

この墓苑に立ち並ぶ貴族たちの墓石が、長年の風雨に晒され、あおぐろく変色したり、乾いた苔をこびり付かせていたりする中、その墓石はまだ建立されてから間もない、まっさらなものであることが窺われた。

 墓碑には、「エドラー・ヴォルフ・フォン・ゼークト、ここに眠る」の名前が、優美な彩飾文字で刻まれていた。

 少女が、胸いっぱいに抱えた白い花束を墓石の前に置いた。

そのまま、左右の掌を胸の前で組んで、少女は静かに首を垂れた。

 ヴァルデス公国の宰相兼財務卿を預かるアインホルン侯爵家の公女、メーア・フォン・アインホルンであった。

 メーアの後ろで、ジークベルト・フォン・アインホルンは微妙な表情を保ったまま、仕方なく、姉のメーアに倣って、エドラー・ヴォルフの墓石に向かって一礼した。

 メーアが心の中で祈りの言葉を紡ぎ、それを終えて頭を挙げてから、ジークベルトは感情のこもっていない声を姉の背中に投げかけた。

「…今更ですが、あのエドラー・ヴォルフにここまでしてやる必要があるとは思えません… あいつは姉様を…」

 メーアは血の繋がらない弟を振り返って、にこやかな笑顔で答えた。

「そうかもしれないわね、ジーク。でもね、エドラー・ヴォルフが私たちに関わったせいで、命を落としたのは間違いのない事なのだから、せめて死後の世界で安寧を得られるようにお祈りしてあげるくらいは、構わないでしょう?」

 ジークベルトは、むっとした表情を作って姉から視線を逸らした。

「…姉様は優し過ぎます。だから、エドラー・ヴォルフのような輩が増長するのです」

 メーアは、ころころと笑った。

糸杉の並木をすり抜けて来た日の光が、メーアのホワイトブロンドの髪を白銀に輝かせていた。

 その姿は、まさに地上に降りた美しき天使のようだった。

アインホルン侯爵家と同じく、ヴァルデス公国を代表する名門貴族であるフォン・ゼークト伯爵家の第二子であるエドラー・ヴォルフ・フォン・ゼークトは、アカデミーの同学年であるメーアに一方的に懸想し、自分と交際する事を迫った。

 メーアが応じないと、手下たちと図って学院内でメーアを乱暴しようと図った。

エドラー・ヴォルフは、ヴァルデス公国の第三公子、ラスカリス・アリアトラシュ暗殺計画に関わっており、それをジークベルトの機転によって防がれた時、フォン・ゼークト伯爵家から逐電した。

 メーアとジークベルトによって、人生を狂わされたと逆恨みしたエドラー・ヴォルフは、アインホルン侯爵家の敷地に侵入し、メーアを凌辱し、メーアの面前でジークベルトを殺害しようとした。

 それに失敗して逃走する際、恐らくはエドラー・ヴォルフの暴走を危惧した敵勢力によって毒を塗った矢で狙撃され、落命したのだった。

 いや、落命したに見えた。

死の寸前、エドラー・ヴォルフは「魔素」の塊である「魔結晶」を飲み干し、自らをゾンビ化した。

 そして、新たな「魔結晶」を確保するため、実家であるフォン・ゼークト邸へ立ち戻った時、メーアの前で自ら火炎魔法を浴びて我が身を滅ぼしたのだった。

 事件の経緯を考慮したなら、エドラー・ヴォルフがメーアになした事は、まさに悪逆無道そのものであり、一切の同情を得られない行為であった。


――それなのに、なぜ、メーア姉様はこいつの事をそんなに気にかけるのか。


 ジークベルトには、それが理解できなかった。

「…エドラー・ヴォルフはある意味、私にとって生れて初めての衝撃的な経験をさせてくれた人物であると言えるかしらね」

 樹間を渡る冷風が、メーアのホワイトブロンドの髪を嬲って彼方へ吹き去っていった。

「私ね、ジーク。アカデミーの中等部の頃は、良く男の子たちに告白されたものよ…」

「はい」

「あの頃は、私の容姿に惹かれて私の周りに蝟集してくる男の子たちが多かった… それが、高等部に進学するとちょっと様子が変わって来た… 私ではなく、私が属するアインホルン侯爵家の権勢と財産を目的として、私にアプローチしてくる男の子たちが増えた…そんな子たちは、アインホルン侯爵家とも家柄の釣り合う大貴族の子弟たちばかりだった。中等部で私に愛を告白してきた男の子たちは、その頃には私に近寄ってくることはなくなっていた。さすがにアインホルン侯爵家とは家格が違いすると判断できる分別が付く年齢になっていたのでしょうね…」

「そうでしょうね」

「私は男の子なんてそんなものだと思っていたし、大貴族の娘である以上、アインホルン家のため、ヴァルデス公国のため、命じられるまま、会ったこともない人物の所へ御輿入れをするのが当然だと思っていた… それが貴族の家に生まれた娘の宿命なのだってね…」

「それが、エドラー・ヴォルフとどんな関係があるのですか?」

「あいつだけなのよ。『お前が気に入った』『メーア・フォン・アインホルン、俺の女になれ』、私に向かって公然とそう云い放ったのは」

 ジークベルトは、鼻白んだ。

メーアは苦笑した。

「もちろん、そんな要求に応えるつもりなど、更々ない訳だけどね… それでもある意味、とてもショックだった。自分の欲望をあんなにあけすけに突き付けてくる人間が存在するなんてね…」

 ジークベルトは、口を尖らせた。

「エドラー・ヴォルフは、姉様の美しい肉体をほしいままにして、自分が満足するまで姉様を嬲り尽くそうとしていただけです」

 ジークベルトは、エドラー・ヴォルフの名前が刻まれた墓標を睨み付けた。

「こいつは、愛情と肉欲の区別がつかない獣でしかありません。姉様だって、あんな獣に好意を持たれていたわけではないでしょう。こいつの死に、姉様が罪の意識を感じることなど、全く必要のない事です」

 ジークベルトの言葉に、メーアも小さく頷いた。

「そうね…」

 エドラー・ヴォルフの存在が、メーアの心に小さからぬ影響を与えたことは間違いのない事らしかった。

 それが何なのか、想像もつかず、ジークベルトはじりじりと苛立っていた。

「ジーク、話は変わるけど…」

「えっ」

「この国は… 私たちの祖国ヴァルデス公国は今、とても危険な状況にあるのでしょう?」

 ジークベルトはメーアの質問の意味が分からず、答えに詰まってしまった。

「あなたのクラスメートでもあるラスカリス・アリアトラシュ殿下が、ウラジーミル・ゲルトベルグ殿下、アブド・アルラスール殿下の前で、堂々と次期大公位を競おうと発言されたことを耳にしたわ。これまでヴァルデス公国は、帝政エフゲニアと沙馮シャフーの間を上手に泳ぎ回ることによって南北の勢力を牽制して、やっとのことで独立を維持してきた。それが今回のラスカリス・アリアトラシュ殿下の言葉で、ヴァルデス公国はエフゲニア、沙馮シャフーの両方を敵に回してしまった… アカデミーの教室ではもっぱらの噂よ」

 ジークベルトは、唇を噛んで強弁した。

「ヴァルデス公国の人間なら、誰でも本音ではそう思っています、姉上。ラスカリス・アリアトラシュ殿下は、ある意味、人々の気持を代弁されただけです」

 メーアのペールブルーの瞳が、まっすぐにジークベルトを射抜いた。

「ちゃんと答えて、ジーク。ヴァルデス公国は今、亡国の危機にあるのでしょう?」

 「賢い女性だ」と、ジークベルトは改めて実感した。

メーアに適当な嘘をついても、無駄なことは明らかだった。

「おっしゃる通りです。ヴァルデス公国は、その三百年の歴史の中で、現在、最大の危機的状況にあります。間違いなく十年前の『シャンプールの惨劇』以上の窮地です。十年前、公国の敵は帝政エフゲニアと沙馮シャフーでした。ですが、今回は公国を転覆させようとする謎の勢力が暗躍しています。このエドラー・ヴォルフもまた、その一員であったのです。内務省では、この勢力が北のエフゲニア帝国、南の沙馮を結び付けていると考えているようです。宰相であるユルゲン・アインホルン侯爵閣下も同じお考えだと思います」

 メーアはくすっと笑った。

「あなたって、まだ父上のことを閣下なんて呼んでいるのね… ユルゲンお父様、きっと寂しがっているわよ。あなたは小さい頃、亡くなられたブリュンヒルト母様のことは、ちゃんと『母上』と呼んでいたのじゃない」

「姉様、僕がユルゲン閣下のことを『父上』とお呼びしたら、それは僕がアインホルン侯爵家を継ぐ野心を抱いていると世間に公言するようなものです。僕はヴァイスベルゲンのスラム街でブリュンヒルト様に拾っていただいた売春婦の息子で…」

 メーアは春の風の様に優しく笑った。

「あら、別に構わないじゃないの。ブリュンヒルト母様は、そのおつもりだったみたいだし… ジーク、あなたがアインホルン侯爵家の後継ぎになりたいと本気で思うのなら…」

「えっ」

「アインホルン侯爵家の血筋である私、この私を妻にするのが一番、てっとり早いやり方よ。私たちは血が繋がっていないのだから、何の問題もないでしょう? あのエドラー・ヴォルフのように、私に向かって言い放つといいわ。『メーア・フォン・アインホルン、俺の女になれ』ってね…」

「姉様…?」

 メーア・フォン・アインホルンは、そのまま黙り込んだ。

「ごめんなさい、ジーク… 私もまだ、色々と混乱しているみたい… 今日は、アカデミーをお休みするわ… あなたはこのまま登校しなさい… ラスカリス・アリアトラシュ殿下を初め、お友達と話すこともたくさんあるでしょう…?」


 公立魔導アカデミーの教室は、異様な沈黙に支配されていた。

高等部一年A組の生徒たちは、声を潜めて会話を交わしながら、一人の少年にちらちらと視線を飛ばしている。

 生徒たちの視線の先にいるのは、ラスカリス・アリアトラシュ・ヴァルデス、このヴァルデス公国次期大公位を襲位する権利を持つ第三公子である。

 先般、エフゲニア帝国の支援を受ける第一公子、ウラジーミル・ゲルトベルグ・ヴァルデスが、同じく第二位の大公位継承権を持つアブド・アルラスール・ヴァルデスとアイヴォリー・キャッスルの庭園で喧嘩騒ぎとなった時、ラスカリス・アリアトラシュは、「現大公である父、ペンドラゴン・ヴァルデス三世が指名した人物こそ、次期大公であり、父が指名するのがこのラスカリスであるなら、ウラジーミルもアブド・アルラスールも、御両所は自分の臣下となるだけだ」と宣言した。

 ラスカリス・アリアトラシュは、帝政エフゲニアと沙馮シャフー、南北の大国に「ヴァルデス公国は、いずれの味方にもならない」と啖呵を切ったのだった。

 それは、エフゲニアと沙馮シャフー、どちらの力も借りることが出来なくなるという事、更には、エフゲニアと沙馮シャフーの双方を事実上、敵に回すという事を意味していた。


――一体、ラスカリス・アリアトラシュ殿下は何を考えておられるのか。


――死刑執行の書類に自分から署名するようなものではないか。


 ラスカリス・アリアトラシュにあからさまに敵意を向ける者もいた。

一時の感情で国家を危険に晒す愚か者、そういう連中はラスカリスのことをそう考えていた。

 あべこべに、感激に胸を打ち震わせて、ラスカリス・アリアトラシュの元へ走り寄って来て、ラスカリスの言葉を激賞する者もいた。

 そういう連中は鼻っ柱だけは一人前であっても、ほとんど現実が見えていないのは明らかではあったのだが。

 他の連中は、ラスカリス・アリアトラシュとの距離感を図りかねて、ちらちらと困惑した視線を彼に向けてきた。

 ラスカリス・アリアトラシュは、小さくため息をついた。

ラスカリスの背後で、小さな笑い声が聞こえた。

「ため息は命を削る鉋であると申しますよ、ラスカリス・アリアトラシュ殿下」

 それは、ラスカリスに対する親愛の情に溢れた声だった。

「ジークベルト・フォン・アインホルン、遅刻か? 君らしくもないな」

 ジーベルトは、春風のような視線でクラスメートを見詰めた。

「アカデミーに登校する前に、寄り道をしましたのでね。ところで…」

 ジークベルトは、周辺に視線をやった。

「おかしな空気になっていますね、教室の中が…」  

 ラスカリス・アリアトラシュは、弱々しく微笑した。

「私のせいだよ。私が感情任せに、従兄たちに放言してしまったせいだ。みんな、これからこの国がどうなってしまうのか、心配しているのだ…」

「君子に二言なしと言います。あなたはヴァルデス公国の次期大公となるかもしれないお方、あなたの言葉は公国全体の意思です。胸を張ってください、ラスカリス」

「…私の言葉が、結果としてヴァルデス公国を滅ぼすことになってもかい?」

 ラスカリス・アリアトラシュは、力なく項垂れたまま、言葉を紡いだ。

「ヴァルデス公国は小国だ。どう足掻いても、帝政エフゲニアや『沙馮シャフー部族国家連合群』に比する国力などない。ヴァルデス公国には、南北の大国に裏で通じていて、この国を進んで売ろうとする勢力が暗躍している。更には、この有様だからね…」

「この有様と申しますと…?」

「クラスのみんなは動揺している。このラスカリス・アリアトラシュが、うかつにも南北の大国を同時に敵に回してしまったのだと… 一国だけでもどうにもならない国力差があるというのに、公国はエフゲニアと沙馮シャフーの両方を一度に敵に回してしまった。もし、本当に戦争という事になれば、今は大公家に忠誠を尽くす者たちも、わが身可愛さに公国と大公家を裏切る者たちが続出するだろう。暗澹たる前途とはこういう事だね…」

 ジークベルトは、まっすぐにラスカリス・アリアトラシュの目を見詰めた。

「僕たちがいます。たとえ、この国の行方がどうなろうと、僕たちは、ラスカリス・アリアトラシュ殿下、あなたとずっと一緒です。このジークベルト・フォン・アインホルンも、バウムガルトナー家の双子も、ザザ・グアルネッリも、アデリッサ・ド・レオンハルトも、そしてあのヴァヌヌも、あなたと運命を共にする覚悟ですよ」

「私に君たちの命を懸けた友情を受け取る資格があると思うかい、ジーク?」

 ジークベルトは、莞爾と笑った。

「それはあなた次第ですよ、ラスカリス・アリアトラシュ殿下。事ここに至って、ふらふらと右顧左眄することこそが、最悪の行動だと思います。貴方が国家の意思を示されたのなら、臣下の者たちはその意思を全力で遂行するだけ。その結果は神のみぞ知るというやつです。ラスカリス・アリアトラシュ殿下、決して怯むことなく、自分が信じる道を突き進んで下さい」

「ジーク」

「ラスカリス・アリアトラシュ。貴方が正しいと信じた事なら、僕たちもそれに従います。それは、あなたがヴァルデス公国の公子だからではありません。あなたが僕たちの大切な友人だからです。決して、忘れないで下さい。僕たちは、みんな、あなたが大好きなのですよ」

 ラスカリスの頬が少しだけ、赤みを帯びたようだった。

「ありがとう、ジーク」


――本当に良い友人を持った。


 ラスカリス・アリアトラシュは、心の底からそう思った。


 アインホルン侯爵家のその晩の夕餉はいつもよりは質素なものとなった。

メインディッシュは、蜂蜜と香草で香ばしく誂えられた子羊のプディングである。

 ラム肉の表面は絶妙な熱加減によって、飴色に焼き上げられ、その内部には林檎や李、洋梨などの果実が詰め込まれていて、白い湯気とともに絶妙な芳香を辺りに放っていた。

 高価な魔導ランプが投げかける光に照らされて、ダイニングルームはまるで昼間のような明るさである。

 オーク材のテーブルには純白の絹のクロスが敷かれ、個々の席の前には甘やかな匂いを放つ蜜蝋の蝋燭が黄色い炎を揺らめかせていた。

 窓の外は墨を流したかのような深淵の闇であった。

テーブル上のろうそくの炎が小さく揺らめくたびに、壁に駆けられたタペストリーに描かれた魔獣たちの絵がまるで生きているかのように蠢いていた。

 ほっそりとしたワイングラスに注がれたワインを口に含んでから、メーア・フォン・アインホルンはグラスをテーブルに置いて言った。

「ジーク、お父様は今夜、アイヴォリー・キャッスルの財務省官舎の方へお泊りになるそうよ」

 ジークベルトはラム肉を刻むナイフの手を止めて、姉の言葉に応えた。

「そうですか… 心得ました」

 メーアはペールブルーの瞳で、血の繋がらない弟を見詰めた。

「今宵、食事は控えめにして、ジーク」

「えっ、あっ、はい、分かりました」

 メーアの言葉の意味はよく分からなかったが、ジークベルトは素直にその言葉に従った。

「それから、今夜は入浴を済ませたら、早くおやすみなさい」

 ジークベルトは、メーアに小さく会釈してから、そう答えた。

 メーアはそれだけ言って、俯いたまま、ラム肉のソテーにフォークを突き立てて口に運んだ。

 その表情はなぜか、とても張りつめていて、メーアがその心の内側に強い負荷を抱えていることは明らかであった。


――どうされたのだろう、メーア姉様は。


――今朝から、どうもご様子がおかしいのだけれど…


 メーアはワイングラスに残った琥珀色の酒を一気に飲み干してから、大きな息を吐いた。

 その双眸には、固い決意を込めた光が宿っていた。


 深更。

ジークベルトは、寝室の扉を叩く、慎ましやかなノックの音を聞いた。

 メーアの言葉通り、夕食を控えめにして早々に入浴し、この夜は何時もより、かなり早い時間帯にベッドに入った。

 ジークベルトは、褥から身を起こし、白いローブを纏ってドア口に立った。

「誰だ」

 すぐに応答が返って来た。

「私よ、ジーク。開けてちょうだい」

「姉様?」

 ジークベルトはドアの把手を回して内開きの扉を開放した。

グレーとベージュを混ぜたかのような、グレージュと呼ばれる、上品な色合いのローブがメーアの身体を包んでいる。

 メーア・フォン・アインホルンは、音もなくジークベルトの寝室にその身を滑り込ませていた。

 ジークベルトは当惑した。

「こんな夜更けに、どうされたのですか、姉様?」

 ジークベルトは、メーアが素足である事に気が付いた。

これは小さからぬ衝撃をジークベルトに与えた。

 ヴァルデス公国において、貴婦人が靴を脱ぐのは、二つのケースしかない。

入浴と時と、ベッドに入る時だ。

 貴婦人が素足でいるのは、ほとんど半裸である事と変わらなかった。

「姉様…?」

 メーアは、だしぬけにジークベルトの身体を力強く抱擁し、彼の唇に己のそれを押し当てて来た。

「!!」

 一瞬、意識が飛びそうになり、ジークベルトは慌ててメーアの身体を自分から引き剥がした。

「どうされたのですか、姉様? これは、どういう振る舞いですか?」

 メーアは小さく唇を開いて、ジークベルトに向かって微笑みかけた。

それは白い薔薇の蕾が、ゆっくりと綻ぶかのようだった。

「あなたは私のファーストキスを無理やり、奪った… これはそのお返しよ…」

 メーアはジークベルトの身体をベッドに突き飛ばした。

あっけにとられた表情で、ジークベルトはベッドに転がったまま、メーアの顔を見上げた。

「お父様は今夜、アイヴォリー・キャッスルの官舎にお泊りになる… 使用人たちにも、今夜は早めに自室に下がりなさいと命じてあるわ… この部屋には誰も来ない… ここにいるのは、私とあなたの二人だけよ、ジーク…」

「姉様…」

 メーアは両手を頭の後ろに回して、その豊かなホワイトブロンドの髪をまとめるバレッタを外した。

 バレッタは貴族の女性が愛用する髪留めであり、メーアのそれは大貴族の令嬢らしく、プラチナの土台にサファイアとルビーが象嵌された豪華な一品であった。

 メーアはバレッタから、銀色の針を引き抜いた。

それは、公国の貴婦人たちが身を守るための最後の武器である「ツァイガー」であった。

 針には、出血性の蛇毒が塗られ、これで刺されると蛇毒が毛細血管を破裂し、大の男でもしばらくはのた打ち回るほどの激痛を与えるのだ。

 あのエドラー・ヴォルフの暴挙からメーアが我が身を守り抜いたのが、この「ツァイガー」であった。

 メーアは、バレッタに仕込まれた毒針「ツァイガー」をベッドサイドのキャビネットの上に置いた。

「これが私のツァイガーよ、ジーク」

 ジークベルトは絶句した。

ヴァルデス公国の貴婦人たちにとって、男性の前で「ツァイガー」を外すことは、これから男性のすることに何の抵抗もしないという意味であり、若い女性が男性の眼前でその身を包む最後の布切れを脱ぎ捨てるという事と同じだった。

「姉様…」

 メーアはグレージュのローブの前に手をやり、腰のところで縛られた帯を解き放った。

メーアのほっそりとした肩からパイル地のローブが滑り落ちる。

 それは音もなく寝室の絨毯の上に落ちて、そのまま、くたりと広がった。

ジークベルトは、息を飲んだ。

 幼い日、公都ヴァイスベルゲンのスラム街の路上で、今は亡きブリュンヒルトに拾ってもらってから、ずっと血の繋がらない肉親として育ってきた姉メーアの一糸まとわぬ姿がそこにあった。


 ――黄金比。


 おかしなこと、ジークベルトの脳裏に浮かんだのは、この言葉だった。

メーア・フォン・アインホルンの豊かな胸乳から腰にかけてのなだらかな曲線は数学的な比率で完璧なバランスを保っていた。

 光量を落とした魔導ランプの光に濡れて、薄暮の中に浮かび上がるその肉体は、まさに美神の顕現そのものだった。

 誇らしく盛り上がった脂肪の双丘は、重力に逆らってつんと上を向いている。

その先端は薄紅色の慎ましい突起で飾られていた。

 それ自体が美しい生き物であるかのような、まっすぐに伸びた白い両脚の重なる場所には、メーアの髪と同じく、ホワイトブロンドの恥毛が頼りない翳りを提供していた。

 メーアはジークベルトのベッドに腰を下ろし、そのままジークベルトの上半身に己の身体を預けた。 

 メーアの体重を受け止めようと手を伸ばしたジークベルトの掌が、メーアの乳房の重みをダイレクトに受け止めた。

 ジークベルトはその硬さに驚いた。

未だ、熟しきらぬ青い果実の硬さであった。

 ジークベルトは、自分に覆いかぶさったメーアの肉体の熱と重さを感じながら、メーアが小さく震えていることに気が付いた。

「姉様、震えておいでなのですか…?」

「…私、怖いのよ、ジーク」

「姉様?」

「恐れながら、現ヴァルデス公国大公、ペンドラゴン・ヴァルデス三世殿下は、やがて崩御されるでしょう… そうしたら、この国は嵐に巻き込まれてしまう…」

 ジークベルトは、無言でメーアの体温を感じていた。

「ヴァルデス公国には、帝政エフゲニアや沙馮シャフーに対抗できる国力はない… 公国が戦争に負けたら、騎士団は殲滅され、抵抗した市民はみなごろしにされるでしょう。子供たちは奴隷として連行され、役立たずの老人たちは処分される… 若い娘はエフゲニアの重騎兵や装甲歩兵、沙馮シャフーの軽装騎兵に凌辱されるか、無理やり、彼らの妻にされるか、あるいは私娼窟に売られるか…」

「姉様」

「私ね、ジーク。なんとなく、これからも平和で穏やかな時間が続いていくと思い込んでいた… 時々、交際を迫ってくる男の子たちを適当にあしらいながら、時期が来たら、お父様か、大公家の命令で、アインホルン侯爵家の格式に見合った嫁ぎ先に御輿入れするのだろうと… これまでと変わらない、少し退屈であっても平穏な生活がずっと続いていくのだと漠然と思っていた…」

「……」

「でもね、あのエドラー・ヴォルフの事件で、思い知らされたわ。平凡でも安らぎに満ちた日常など、一瞬で奪い去られてしまうものなのだとね…」

「僕が姉様を守ります。メーア姉様を、アインホルン家を、このヴァルデス公国を」

 メーアは悲しみに満ちた双眸でジークベルトを見詰め、そのままジークベルトの顔を両の掌で包み込んで、その唇に己のそれを押し当てた。

それは肉親に対する軽いキスではなく、心から愛する異性への情熱のこもったそれであった。

「私は大貴族の娘に生れて、幼い頃から、その人生をお国のために捧げる覚悟を叩き込まれてきた… このちっぽけな命を失うことは怖くない… でも、私が愛したこの国の色々なもの、この美しい大地に存在する全ての愛しいもの… それが戦火で焼かれ、無残に蹂躙され、根こそぎ奪い去られていく… 私、そんなことに耐えられそうにないわ…」

「姉様、だからと言って、こんなことは…」

 メーアは再び、その熱烈なキスでジークベルトの唇を塞いだ。

「…いつか、こんな日がやって来ると思っていた。それが今夜だっただけよ。ブリュンヒルト母様は、あなたを引き取ってから、あなたが本当に優れた資質をした少年であることを認めて、よく私にこうおっしゃっていたわ。『メーア、あなたがジークと結ばれて、アインホルン侯爵家を、そしてヴァルデス公国を盛り上げてくれたらいいのにね』って。私はね、ジーク。その時からずっと、意に添わぬ男の元へ嫁ぐくらいなら、あなたと結ばれたいと思っていたのよ…」

「姉様」

「でも、姉と弟としてあなたと過ごした幼い日々の記憶がとても楽しくて、それを壊してしまうのが怖くて、一歩を踏み出す勇気が持てなかった… でも、あのエドラー・ヴォルフのおかげで嫌でも思い知ったわ… 今、ここで、ずっと願い続けてきた夢を果たさなければ、二度目はもうないのかもしれないってね…」

 メーアはジークベルトに身を任せ、上からジークベルトの顔を見下ろした。

「あなたが好きよ、ジーク。ずっとあなたとこうなりたかった。今宵、ようやくその希望がかなったわ。お願い、ジーク。ありのままの私を受け入れて」

「…姉様、僕も姉様が好きです。アインホルン侯爵家を初めて訪った時から、ジークベルトはメーア姉様を心から愛していました。血の繋がらない弟としてではなく、一人の男として、メーア姉様を愛しています」

 メーアは微苦笑を浮かべた。

「だったら、姉様はやめて頂戴。姉様なんて呼ばれたら、あなたを一人の男性として愛することが出来なくなってしまうでしょう? 二人だけの時は、『メーア』と呼んで、ジーク」

 メーアは、ジークベルトの下半身に片手を伸ばした。

その冷たい掌が、ジークベルトの怒張を捉えた。

 それは強い熱を帯びていた。

「メーア姉… メーア」

「それでいいわ…  あいつみたいに言って、ジーク」

「あいつって、エドラー・ヴォルフのことですか」

「そうよ… エドラー・ヴォルフみたいに言って… 『お前が欲しい』『俺の女になれ』って言って…」

 覚悟を決めて、メーアの目を真っ直ぐに見詰めながら、ジークベルトは答えた。

「メーア、あなたが欲しいです…」

 そう言って、今度はジークベルトがメーアの唇を自分のそれで塞いだ。

ジークベルトはメーアの身体を抱え、メーアと体を入れ替えて、メーアを下に組み敷いた。

 ジークベルトは、今度は上からメーアの顔を見詰めた。

「僕の物になってください、メーア」

「ええ、ジーク。私はあなたの物よ…」

 メーアはそう言って瞑目した。

ジークベルトがこれから始めるであろう行為を全面的に受け入れる覚悟が出来たという事だった。

 ジークベルトの唇が、メーアの首筋を這った。

「――あ」

 メーアの喉元から、甘やかな声が漏れた。


 いつの間にか、厚い黒雲はまばらとなり、アインホルン家の庭園は、月神ディアナが下界に投げ下ろす青い光に照らされていた。

 窓辺の窓硝子から、ディアナの青い光が差し込んでいる。

夜の女神であり、暗闇の女神であり、性愛の女神でもあるディアナに見守られながら、その夜、ジークベルト・フォン・アインホルンとメーア・フォン・アインホルンは結ばれた。


 ふたつのアインホルンは、この夜、ひとつになった。

 

 

 

 

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