第50話 血塗られた歴史
ゴーレムマスター ザザ・グアルネッリの物語
フォン・ゼークト伯爵家の広壮な館は、月神ディアナの青い光を濡れそぼり、ぬらぬらとした淫猥な光を放ちながら、夜闇の中に屹立している。
ほんの数日前、この場所である惨劇が発生した。
この館の所有者の一族であるエドラー・ヴォルフ・フォン・ゼークトが自ら放った魔法の炎の中で自死したのである。
ヴァルデス公国を転覆させる陰謀の担い手であったエドラー・ヴォルフは、横恋慕していたアインホルン家侯爵の子女、メーア・フォン・アインホルンを手籠めにするため、侯爵家の敷地に侵入した。
だが、メーアの機転によって撃退され、暗殺者から狙撃されたエドラー・ヴォルフは、絶命寸前に「魔結晶」を嚥下して、自らをゾンビ化させた。
「魔結晶」の効力が切れ始め、フォン・ゼークト伯爵家に隠しもっていた別の「魔結晶」を求めて、邸に侵入した時、邸内で待ち受けていたメーアやメーアの弟、ジークベルト・フォン・アインホルンに出迎えられ、メーアを手取りにしたまま、自ら火炎魔法を浴びることによって、自分の腐敗した肉体を焼き尽くしたのだった。
今、そのフォン・ゼークト伯爵家の豪壮な建物を二人の人間が、無言で見上げていた。
不思議なことに、その姿は完全に不可視であって、月神ディアナが投げかける、艶めかしい青い光は、二人の肉体をそのまま素通りしているかと思われた。
ザザ・グアルネッリとその腹違いの兄、ギデオン・グアルネッリである。
二人のゴーレムマスターは、グアルネッリ家伝統の秘術である「隠形」によって、その存在を完全に夜の闇に溶け込ませている。
「では、ザザ君。フォン・ゼークト伯爵家へお邪魔するとしようか」
「はい、ギデオン兄様」
二人のグアルネッリは、囁くように会話を交わした。
息を吐き切ったタイミングで、第三者に聴きとられることなく、意思を通わせることが出来る、これもまた、ヴァルデス公国の最も
ギデオンは、少し身を屈め、下半身に力をためて跳躍した。
ザザがそれに続く。
まるでそこだけ重力が失われたかのように、二人のグアルネッリの影が宙に踊る。
ギデオンとザザは、フォン・ゼークト伯爵家の鋼鉄製の柵を軽々と飛び越え、その敷地内に着地していた。
まるで小型の肉食獣であるかのように、音を立てることもなく、ギデオンとザザは、きれいに刈り揃えられた芝生の上に着地していた。
重厚なオーク材で出来た扉の鍵をギデオンの白い指が優しく撫でる。
それだけで、扉の鍵は開放され、二人の侵入者を館の内部へ導いた。
ギデオンとザザは、魔導ランプによって照らされた回廊を音もなく進んでいく。
深更、魔導ランプの光量が絞られ、辛うじて、数歩先の絨毯の模様が確認できるだけであった。
人間の気配は全くと言ってなかった。
ギデオンがある部屋の前で立ち止まった。
その部屋は、ザザにとっても見覚えのある場所だった。
あの沙馮の少女、リィーン・アフメドを救出するため、一度、訪った事のある部屋であった。
ギデオンの指が、再び、部屋の扉の把手の部分を撫でた。
かちりとかすかな金属の触れ合う音が鳴って、鍵が開く。
ギデオンが先に部屋に進入し、ザザがそれに続いた。
部屋に明かりはなかった。
窓辺のガラスを通じて差し込むディアナの青い光が、ゴージャスなベッドを闇の中に浮かび上がらせている。
ベッドは、緻密なレースによって飾られ、ふかふかとした毛皮が閨の全体を覆っている。
それはこのベッドに横たわる人物が、相当な地位と財産の持ち主であることを示していた。
ギデオンは、ベッドへ接近した。
今度は、ザザは兄に続かなかった。
ベッドに横たわる青白い顔を人物は、頬がこけ、眼窩が落ち窪んでいる。
それは長い闘病生活の果てに疲れ果て、とっくに生きることを諦めてしまった人間の姿に見えた。
それが十五歳の少年の心を冷たくした。
ベッドに横たわる人物が、薄らと目を開けた。
そして、顔だけをギデオンとザザの方へ向け、弱々しく微笑した。
「そろそろ、来る頃だと思っていたよ、ギデオン・グアルネッリ…」
「ルードヴィヒ」
この屋敷の主人、ルードヴィヒ・フォン・ゼークトは、ザザに視線をやった。
「弟も一緒か… 確か、ザザ君だったね… こんな深夜、ご苦労な事だね…」
ザザ・グアルネッリは、胆を潰した。
あらゆる気配を完全に断ち切る、グアルネッリ家家伝の「隠形」術。
それが、完璧に見破られたのは、今回が初めてだった。
「こんな夜分に失礼します。ルードヴィヒ・フォン・ゼークト伯爵」
我ながら、何という馬鹿げた挨拶だろう、とザザは思った。
「…構わないさ。かけてくれたまえ、二人とも」
ルードヴィヒ・フォン・ゼークトは、部屋の隅に視線をやった。
そこには、小さいがとても座り心地の良さそうな椅子が、二つ、用意されていた。
ザザがまた、内心で驚愕を禁じえなかった。
ルードヴィヒ・フォン・ゼークト伯爵は、最初からギデオンとザザ、二人のグアルネッリの到来を予期していたことになる。
それも、深夜、人目を忍んで自分の寝室に侵入してくるであろうことも。
「きちんとベッドから身を起して、君たちに挨拶をしたいのだが… 残念なことに、この疲れ果てた哀れな肉体には、もはや、それだけの力も残されてはいない… 申し訳ないが、このままで失礼するよ…」
それだけの言葉を吐き出しただけで、ルードヴィヒは疲労困憊したかのようだった。
そのやせ衰えた肉体を、頭上から死神が見下ろしているかのようだった。
――死相。
ザザの脳裏にその言葉がよぎった。
ギデオンが「隠形」を解き、ザザもそれに倣った。
ギデオンが二つの椅子を引き寄せ、ベッドサイドに配置した。
「お言葉に甘えさせてもらうよ、ルードヴィヒ。さあ。ザザ君、君も座りたまえ」
全くの自然な仕草で、ギデオンはザザに椅子をすすめた。
ザザは、ルードヴィヒに問いかける衝動を抑えることが出来なかった。
「ルードヴィヒ卿、僕たちがやって来ることを予期していらしたことは分かりますが、なぜ、グアルネッリの完璧な『隠形』術を見破ることが出来たのですか」
「ザザ君」
ギデオンが嗜めるようにそう言った。
だが、ルードヴィヒは瞑目したまま、弱々しく微笑した。
「ザザ・グアルネッリ、君は死後の世界とか、生まれ変わりを信じるかね」
予想外の質問にザザは、どう答えていいか、分からなかった。
「僕は、死後の世界とか、生まれ変わりとか、もしかしたら存在するのではないか、と最近、思うようになったのだよ…」
ギデオンとザザは、病臥するルードヴィヒ・フォン・ゼークト伯爵の横顔を見詰めた。
「時々ね、自分の意識がこの病み疲れた肉体を離れて、ベッドの上に浮かんでいるという体験をすることがある… そんな時は、全ての苦しみから解放され、まるで雲の上に浮かんでいるかのような安心感に包まれる… 次の瞬間には、また肉体に引き戻され、再び、際限のない病苦に苛まされることになる… それを繰り返していると、死とは恐れるものではなく、死は肉体からの解放であり、人間の意識は肉体が滅びた後も存続するのでないかと思えるのだ…」
ギデオンとザザは、無言でルードヴィヒ・フォン・ゼークト伯爵の言葉を聞いていた。
「そんな時は、ベッドに横たわって眼を瞑ったまま、この屋敷の中で何が起こっているのか、分かったりもする… だから、君たちが柵を飛び越えて、この屋敷の内部に入り込んできたときも、すぐにそれと分かったのだ…」
ルードヴィヒは、唇を歪めて微笑した。
「不思議なものだね… 人間、死に近付くと諸々、普段ではありえなかった能力に目覚めたりするらしい… どうだね、ギデオン? グアルネッリ家の完全な『隠形』術を見破ることが出来たのは、有史以来、このルードヴィヒ・フォン・ゼークトだけではないかね…?」
ギデオンは苦笑した。
「君の言うとおりだ。千年以上の歴史を持つゴーレムマスター、グアルネッリ家の『隠形』が見破られたのは、今回が初めてだよ」
ルードヴィッヒが目を開き、弱々しくも快活な笑い声を発した。
「名誉なことだな、やっと君から一本、取ることが出来たぞ、あははははは…」
ギデオンが、ルードヴィヒ・フォン・ゼークト伯爵の顔を覗き込んだ。
「ルードヴィヒ」
「分かっている… 弟のエドラー・ヴォルフと… それから依然、私が言った『フォン・ゼークト文書』の事だろう…? 内務省の正式な捜査という形でなく、あくまで秘密裏に私のもとを訪ねてくれたことをギデオン、君に感謝したいと思う…」
「ルードヴィヒ、君は私のアカデミー時代の友人だ。たった一人の大切な親友だ。私は君のためなら、自分の職分を超えて、何でもしてやりたいと思っている。君のフォン・ゼークト伯爵家は、エドラー・ヴォルフの件も含め、ヴァルデス公国の国家覆滅の陰謀に関わっているという疑惑で、極めて危険な立場にある。私は君を助けたいのだ。だから、知っていることは、全て話してくれないか。アカデミー時代の友情にかけて、決して悪いようにはいないと誓う」
ルードヴィヒは、また、唇に微笑を浮かべた。
「さもないと私を拷問して無理やり、情報を聞き出すのか、ギデオン…?」
「ルードヴィヒ」
「すまない、今のは失言だ… 君の友情、心から有難く思っている… だが、病に侵されているとはいえ、私の頭脳は、そこまで鈍っていない… どう足掻いても、フォン・ゼークト伯爵家が助からないことくらいは、判断できるよ… 私はそれでいいと思っているのだ…」
ルードヴィヒ・フォン・ゼークト伯爵は眼を開け、ザザ・グアルネッリを凝視した。
「ザザ・グアルネッリ、君はいい兄を持ったね…」
ザザは答えた。
「はい、兄は私の誇りです。兄のギデオンがアカデミー高等部への進学を進めてくれなかったなら、アカデミーで友人を得ることなどできませんでした。当初は、グアルネッリ家に生れた自分が、十五歳まで何百人もの人間を殺してきた自分が、同年代のクラスメートと友情を結ぶことなどできるはずがないと思い込んでました。それが出来たのは、全て兄のおかげです」
ザザは良き級友たちの横顔を思い浮かべた。
ジークベルト・フォン・アインホルン、アスベル・バウムガルトナー、マリベル・バウムガルトナー、アデリッサ・ド・レオンハルト、ヴァヌヌ、そして、ラスカリス・アリアトラシュ… みんな、素晴らしい仲間たちだった。
「友人か…」
ルードヴィヒが天井を見詰めたまま、そう言った。
「子供の頃から病弱で、ろくにアカデミーに通えなかった私にたった一人だけ、友達が出来た… 生まれてこの方、ずっと灰色に閉ざされていた私の人生に、ギデオン・グアルネッリ、初めて君が鮮やかな色彩を与えてくれた… 本当に感謝しているよ、ギデオン…」
ギデオン・グアルネッリは、羸弱して寝台に横たわる友人に笑いかけた。
「それはこちらの台詞だ、ルードヴィヒ。誰からも恐れられ、忌避され、敬遠されるグアルネッリのゴーレムマスターに普通に接してくれたのは、ルードヴィヒ・フォン・ゼークト、君だけだった。私がザザにアカデミー高等部への進学を進めたのは、弟に君のような友人を作って欲しかったからなのだ。グアルネッリ家に生れた者に課せられる過酷な人生を思えば、せめて思春期だけは、人並みに送ってほしいと願ったからだ。これも、君との友情があってこそだ、ルードヴィヒ。僕は君を助けたいのだ。だから、知っていることを話してほしい」
「……」
ルードヴィヒ・フォン・ゼークトはしばし、沈黙した。
「ギデオン、先ほども言った通り。私はフォン・ゼークト伯爵の廃絶は仕方のない事だと覚悟をしている。この通り、生まれついて病弱な私は、配偶者を得る機会に恵まれなかった。弟のエドラー・ヴォルフはもしかしたら、街の売春婦たちとの間に『落とし子』を儲けているかもしれないが、アイヴォリー・キャッスルがそんな子供をフォン・ゼークト伯爵家の嗣子として認めるはずがない。父上と母上は健在だが、もう、新しく子供を作れる年齢ではない。フォン・ゼークト伯爵家は私の代で終わりだ… 」
ルードヴィヒ・フォン・ゼークトは、顔を横に向けてアカデミーの級友を見詰めた。
「そんなことより、私に聞きたいことがあって、態々、深夜にこんな形でわが屋敷を訪ったのだろう。君たちは、以前、私が告げた『フォン・ゼークト文書』の事を聞きたいのだろう…?」
「…有体に言えば、そうだ。その文書の内容を含め、君が全面的に協力してくれるなら、内務省が、そして我がグアルネッリ伯爵家が、全力を挙げて君を守ると誓おう」
だが、ルードヴィヒは弱々しく頭を振った。
「死を待つばかりのこの私に対して、もう、何をしてくれても無駄なことだ。それより、私が最期の息を吐き出す前に、君たちに伝えておかねばならないことがある。聞いてくれるか、ギデオン・グアルネッリ、ザザ・グアルネッリ…?」
「無論だ、友よ」
「…これは、このヴァルデス公国の歴史の暗部に関わることだ。ヴァルデス公国が絶対に秘密にしておきたい、この国の血塗られた歴史の事だ…」
「血塗られた歴史…?」
「言うまでもなく、我がヴァルデス公国は、北方の雄、帝政エフゲニアから三百年前に独立した若い国だ。ヴァルデス大公家はまだ、エフゲニア帝国が原始的な部族国家であった時代から、最も強大な勢力を誇る
エフゲニア帝国の帝室、ゲルトベルグ家は、ヴァルデス家の帝国内における横暴を嫌い、ヴァルデス家を転封によって帝国の勢力圏の外に放逐することによって、ようやく、国内における実権を確立することが出来たのだ…」
そんなことは、公国の子供でも知っていることだ。
いったい、この人は死に瀕した床にあって、何を語りたいのか?
ザザは、訝しく思った。
「…ベルトベルグ帝室が、ヴァルデス選帝侯家に新しい封土として与えたのは、カルスダーゲン亜大陸を南北に分断するアポリネール大河、その中州にある肥沃な土地だった… これがヴァイスベルゲン島だ… この島の名前は、そのまま、ヴァルデス公国の首都名に採用されている… ゲルトベルグ帝室は、ヴァルデス選帝侯家を南方に追いやることによって、帝国内におけるヴァルデス家の専横を排除し、同時に南方の脅威である騎馬民族、
「……」
「…ここで少しだけ、考え見てほしいのだ。ヴァルデス選帝侯家の転封は、何の障害もなく、すんなりと実現したのだろうかと…」
「どういう事だ、ルードヴィヒ」
「…この土地、ヴァイスベルゲン島には、先住民がいたのだよ。精々、住民は数万人程度の群小国家であったが、この土地には確かに人々の生活の営みが存在したのだ。ゲルトベルグ帝室はそれを知りながら、ヴァルデス選帝侯家にこの土地を新しい領地として与えたのだ。それがどういう結果をもたらしたか、知っているかい、ザザ・グアルネッリ…?」
ルードヴィヒはギデオンではなく、敢えてザザにこの質問を発した。
ザザは答えることが出来ず、無言で首を横に振った。
ルードヴィッヒ・フォン・ゼークトは、小さく息を吐いて笑った。
「当然、知らないだろうね… ギデオン、アカデミーの優等生であり、公国の暗部を知り尽くしている内務省の高官である君ですら、聞いたことがないだろう…」
ギデオンは頷いた。
「ああ、ヴァルデス家が来訪する以前、この島に住人がいたという事さえ、今、初めて知った事実だ…」
ザザは、腹違いの兄の横顔を見上げた。
ギデオンの困惑の表情を見れば、兄が本当にその事について聞き覚えがないことが見て取れた。
「当初、ヴァルデス家は、この地の先住民に対して土地を明け渡すように要求した… 当然、元からの住人たちはこれを拒絶する… 仲良く共存すればいいだろうというのは、単なるきれいごとか、歴史の後知恵というやつだ… こうやって、ヴァイスベルゲン島を巡る戦いが始まった… いや、それは戦いなどというものではなかった。そもそも、数が違う… 北方にあって最も猛々しい気性をしたヴァルデス家にとって、長らく、この温暖な土地で平和に暮らして来た人間たちなど、物の数ではなかった。戦いは数日を経ずして終了し、その後、一方的な虐殺が始まった…」
「虐殺…」
「兵士たちはことごとく、撫で斬りにされ、抵抗した市民たちはなぶり殺しにされた。ヴァルデス家の兵士たちは、三日間の略奪が許可されたのをいいことに、この地の住民たちから金品を残らず奪い去った… 三百年前のヴァルデス家の当主は麾下の兵士たちに命じて、この土地の人間を根絶やしにするため、男たちを皆殺しにし、女たちを凌辱した… そして、この土地の先住民たちの記録と記憶を完全に消滅させたのだ…」
「そんな… そんな馬鹿なことが…」
ザザは呻くように言った。
「…事実だよ、ザザ・グアルネッリ。さて、ほめられたものではない歴史的事実を隠蔽するには、どうすればいいか… 最初からなかった事にするのさ… ヴァイスベルゲン島の先住民たちの事は歴史から完全に拭い去られ、ヴァルデス家は、最初から無人の土地であったこの島にやってきて、何事の障害をもなく、新しくこの土地に国家を成立させた… そういう事にされたんのだ… ヴァルデス家は、先住民にとっては、まさに悪魔のような侵略者であったのだがね…」
「ルードヴィヒ」
「前置きが長くなってしまったね… しかし、歴史的な前提を知っておかないと、
今、この国で起こっている真実に迫ることが出来ないのだ… ヴァルデス家は住民を殲滅して、この地にヴァルデス選帝侯国を建国した。そして、三百年前の独立戦争で、ヴァルデス選帝侯家はエフゲニア帝国に勝利して、見事、帝国から自治権を獲得し、ヴァルデス公国と国号を改めて自立したのだ…」
小さな咳をして、ルードヴィヒは話を続けた。
「それから三百年が過ぎ、気候温暖なこの土地での暮らしは、ヴァルデス家をすっかり弱体化させた… エフゲニア帝国は、苛烈な武力行使と周到な婚姻政策で国力を拡大させ、今や、押しも押されぬ北方の超大国に成長している。南方では、サイード族、ハザーラ族という二大部族が
「シャンプールの惨劇」とは、十年前、エフゲニア帝国と「
アスベルとマリベルの実父であるグイン・バウムガルトナー伯が、外務卿として公国を代表してシャンプール砦へ赴き、両国の大使らと降伏に関する諸条件を詰めながら、文書に署名するという作業であったが…
あろうことか、グイン・バウムガルトナー伯爵は会談の場で、エフゲニアと
激高したエフゲニアと
戦いは激烈を極め、お互いに甚大な被害を受け、軍の遠征を維持する事が出来なくなってしまい、無念の涙を呑んで母国へ軍を撤退させる結果となってしまった。
グイン・バウムガルトナー伯爵は、そのまま逐電し、行方知れずとなった。
もっとも、アスベルとマリベル、二人の神穹姫が金銀の魔導弓を授かる「神授式」に黒い覆面をした謎の人物、「死告鳥・フッケバイン」として参加し、正体を隠したまま、バウムガルトナー家の姉妹に邂逅しているのではあるが…
「…話が長くなって申し訳ない。あの『シャンプールの惨劇』によって、エフゲニアも
「協力者…?」
「…このヴァルデス公国にあって、最もヴァルデス大公家を憎んでいるのは何者だと思うかね…? かつてのこの土地の先住者たちだよ… 三百年前、ヴァルデス選帝侯家は、ヴァイスベルゲン島の住民たちを残らず、殲滅しようと図った… だが、住民たちの中には、進んでヴァルデス選帝侯家に協力して、新しい時代を生き残ろうと考える一群の人々がいたのだ… それは決して同胞への裏切りという訳ではない… 滅亡が避けられないなら、その一部でも生き残り、敵中にあって辛抱強く機会を待ち続けて、いつか、時が来たら、獅子身中の虫となって、ヴァルデス公国を内側から食い破ってやると誓った者たちがいたのだ… 彼らはヴァルデス選帝侯家の信頼を勝ち得るため、昨日までは隣人であり、友人であった仲間たちを攻撃して、殺害した… 心の中で血の涙を流しながら、また、死んでいく仲間たちに詫びながら… いつか、この恨みを晴らす時が到来する事を胸の奥で渇望しながらね…」
沈黙がその場を支配していた。
隙間風が窓硝子を揺らし、キィキィとかすれた音を発した。
「ルードヴィヒ、エフゲニアと
ギデオンが強張った声でそう問いかけた。
ルードヴィヒ・フォン・ゼークトは、仰臥したまま、小さく頷いた。
「そうだ、わが友よ… 彼らはヴァルデス家に対する復讐の機会が三百年ぶりにやってきたと思っている… 彼らの願いは父祖の土地を取り戻すことではない… 自分たちが経験した苦痛を今度は、ヴァルデス公国に味わわせてやる… つまり、この国を最悪の形で滅亡させてやると決意している… 彼らは、エフゲニアや沙馮から金銭や権力などを約束されて、野心や欲望のために動いているのではない。心の底からヴァルデス公国を憎悪し、何としてでも公国を破滅に追い込んでやろうと本気で考えているのだよ… だからこそ、彼らは毒蛇のように危険なのだ…」
ギデオンとザザは、顔を見合わせた。
改めて、ヴァルデス公国の置かれている状況が危機的であることが思い知らされた。
ザザは、胸の内に絶望の波が押し寄せてくるのを感じた。
まるで、地獄の底を覗き込んでいるかのようだ…
ルードヴィヒ・フォン・ゼークトは、また弱々しい微笑を浮かべた。
「ここまで話したからには、今更、隠し立てをすることなど何もない 実は我がフォン・ゼークト伯爵家もまた、このヴァイスベルゲン島に生きていた古い一族の末裔なのだ…」
「何だって」
「わがフォン・ゼークト伯爵家は三百年前の大虐殺を、侵略者であるヴァルデス家に協力することでかろうじて生き延びて来た一族の末裔なのだよ… フォン・ゼークト伯爵家はその出自からして、民族の裏切り者なのだ… 私の祖先は祖国を裏切り、同胞を売り、友人達を殺害することによって、大虐殺の後、ヴァルデス公国で貴族の地位を得たのだ… わが家はその出発点から呪われているのさ…」
ギデオンは、病み衰えた級友の顔を覗き込んだ。
「ルードヴィヒ、君もずっとヴァルデス大公家を、そしてヴァルデス公国を恨み続けて来たのか…?」
ルードヴィヒは、ゆっくりと頭を振った。
「ヴァルデス家に対する怒り、憎しみ、恨みなどを綴った、代々、伝えられてきた歴史書を親に読まされたことはある… だが、私には三百年前の怨念などどうでも良い… 健康に恵まれず、子供の頃からずっとベッドに臥せって来た私にしてみれば、呪うべきは我がひ弱すぎる肉体であったからね… だが、弟は… エドラー・ヴォルフは違う… あいつは、己の出自を知って、心の底からヴァルデス大公家とヴァルデス公国を憎んでいた… あいつにしてみれば、大公家こそがこの土地の簒奪者であり、本来ならば自分たちこそが、この国の支配者なのだという強烈な自意識があったはずだ…」
ザザは、兄の古い友人であるルードヴィヒ・フォン・ゼークトの顔を覗き込んだ。
「ルードヴィヒ卿、あなたがおっしゃる『フォン・ゼークト文書』とは、この国が隠蔽してきた、血塗られた歴史を告発する書類なのですか?」
ザザの問いかけに、ルードヴィヒ・フォン・ゼークトは唇を歪めて微笑した。
「ザザ・グアルネッリ、あれはそんな安っぽい文書ではないよ。『フォン・ゼークト文書』とは,名簿なのだ…」
「名簿?」
「ああ、かつてヴァルデス公国に祖国を奪われた者たちの子孫にして、エフゲニア帝国と
「ルードヴィヒ、君はその名簿を、『フォン・ゼークト文書』を渡してくれる気持ちはあるのか?」
「もちろんだよ、ギデオン… だが、それは私が死んでからだ… 私はあの文書で、私自身の命を守り続けてきたのだ… ヴァルデス公国を滅亡させる陰謀に参加しろと誘われた時、拒否していれば、その場で殺されていただろうからね… あの時は、承知するほかなかったのさ… だが、三百年前の怨念がどうであれ、私自身はこの美しい国を愛している… 大切に思う人たちも何人か、いる。ギデオン、君もその一人だ… 私はその人たちを悲しませるようなことをしたくないのだ…」
「ルードヴィヒ」
「以前にも、この部屋で君たちに話した通り、『フォン・ゼークト文書』は、クリスタロス銀行のヴァイスベルゲン支店の貸金庫に保管されている… いかなる形であれ、私がその命を終えるまで、銀行側は金庫を開放する事はない… ギデオン、近くに寄ってくれ… 君に貸金庫の暗証番号を教える…」
ギデオンは、アカデミーの古い友人の言葉に従った。
ザザには、ルードヴィヒ・フォン・ゼークトが兄の耳にささやきかける言葉は聞き取れなかった。
暗証番号を伝えてから、ルードヴィヒは、その頭を深く羽根枕に沈めた。
「…君にこれを伝えるまで、何とか命がもってくれて良かったよ… もう一度、言わせてくれ、ギデオン・グアルネッリ… 長い間、友人でいてくれてありがとう…」
ギデオンは、慈父のような優しい視線を旧友に向けた。
「それはこちらの台詞だよ、ルードヴィヒ。君は私にとって、たった一人の、そして最高の友人だ。この世界で君に出会えたことを心から神に感謝したい」
ギデオン・グアルネッリとルードヴィヒ・フォン・ゼークトは、御互いを見つめ合った。
その後、ルードヴィヒは小さく咳き込んだ。
かすかな赤い染みが、純白のシーツに飛び散るのをザザは、目撃した。
「…さあ、もう行きたまえ、ギデオン、ザザ君… ひどく、疲れてしまったよ… 少し、眠りたい…」
ギデオンの白い指先が、ルードヴィヒの髪に触れた。
「さらばだ、友よ」
「…ああ、いい夜だった」
ザザは、兄の双眸に銀色の涙が浮んでいることに気が付いた。
グアルネッリ伯爵家のゴーレムマスターであるギデオンが、涙を零すところをザザ・グアルネッリは生れて初めて目撃した。
月神ディアナの裸身は叢雲の後ろに隠れ、ディアナの投げかける青い光はうっすらと陰って、下界に
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