第40話 狙撃

神穹姫 アスベル・バウムガルトナーの物語


 「シャンプールの惨劇」以来、騎士爵家へ降爵されているとはいえ、バウムガルトナー家は、本来、伯爵の爵位を持つヴァルデス公国の高位門閥貴族であり、そのルーツを北方エフゲニア帝国に持つ、古く青い血を誇る大貴族である。

 エフゲニア帝国の支配者であるゲルトベルグ帝室から、「南方鎮撫」の命名を受けて、ヴァルデス選帝侯家がアポリネール大河の巨大な中州にあるヴァイスベルゲンへ転封した際に、ヴァルデス家の「寄り子」の小貴族として、ヴァルデス家とともに、この地へ移り住んだ、由緒ある家柄がバウムガルトナー家なのだ。

 今は、「惨劇」以降、大公家へ仕える騎士の家となっているが、バウムガルトナー家の広壮な屋敷は、その出自に恥じない威容を誇っている。

 三百年前の独立戦争を勝ち抜いてから、ヴァルデス選帝侯国がヴァルデス公国となり、ヴァルデス選帝侯家がヴァルデス大公家となって年月を経た今も、まるで時間を超越したかのように、周辺を圧倒する威厳を湛えている。

 並び立つ大理石の門柱には、精緻な彫刻が施され、往時の職人の技術の素晴らしさを偲ばせている。

 これが、二人の「神穹姫」、アスベル・バウムガルトナー、マリベル・バウムガルトナー、双子の姉妹の生家なのだった。

 一台の馬車がバウムガルトナー家の邸宅の敷石を敷き詰めたエントランスへ走り込んできた。

 これも大貴族の所有物らしく、全体に豪奢を極める造りになっている。

キャビンに描かれた紋章は、「勇み立つ一角獣」である。

 それは、この馬車がヴァルデス公国の大貴族、アインホルン侯爵家に所属する事を意味していた。

 バウムガルトナー家の家令が、優雅な歩みで馬車に歩み寄り、ワゴンの扉を開放した。

「よくぞ、いらしてくださいました、ジークベルト・フォン・アインホルン様」

 公立魔導アカデミーの制服に身を包み、燃え立つような明るい金髪と、エメラルドの瞳を持つ精悍な少年が、馬車から姿を現した。

「アスベルの様子は」

 ジークベルトの問いかけに、頭髪に霜を置く初老の家令は、表情を曇らせながら、それでも落ち着いた声で答えた。

「それが、神授式からお戻りになられてから、アスベルお嬢様はずっと自室に引き籠っておられます。マリベル様が必死に部屋の外から呼びかけておられますが、アスベル様はろくに返事を返されることもなく、マリベル様初め、私度も使用人一同も心からアスベル様の御身を心配しているのでございますが…」

 ジークベルトは、小さく頷いた。

美しく切り揃えられた芝生が、眩しい日の光を反射して、十五歳の少年の顔を下から照らしている。

 趣味の良い瀟洒な庭園に設けられた噴水からは、透明が水が勢いよく噴き上げられ、これもまた陽光を反射して、きらきらと水晶のように輝いていた。

 人の良さそうな家令が、本気で心配しているのだから、アスベルは、家中の人間たちから身分や立場を超えて、慕われているのだろうと、ジークベルトは少しだけ、心が温かくなるような思いがした。

「家令殿、後から、僕らの友人たちもここへ集まってくる。僕たちが、アスベルを励まして自室から出るように促すから、安心してほしい」

「ありがとうございます。そう言っていただければ、肩の荷が下りる思いです。私ども、正直に申し上げて、アスベルお嬢様が我と我が身を傷付ける様な振る舞いをなさるのではないかと、恐れております。何卒、宜しくお願いいたします」

「任せてくれ」

「それから、ジークベルト様に先立って、グアルネッリ伯爵家のご令息がお見えになっておられます。あの方もマリベル様と一緒に扉の前で、部屋の中に呼び掛けて下さっているのですが、それでも、アスベルお嬢様からはお返事がなく…」

「ザザが来ているのか。レオンハルト伯爵家のご令嬢、アデリッサと僕らの共通の友人、ヴァヌヌ、そして会議が終了次第、ラスカリス・アリアトラシュ・ヴァルデス殿下も、バウムガルトナー家へ駆けつけて下さる算段になっている。家令殿、アスベルの部屋へ案内を頼めるか」

 初老の家令の目が丸くなった。

「何と、大公家の公子様まで。アスベルお嬢様は、良き友人に恵まれておいでです。ささ、こちらへ」

 家令に先導させて、ジークベルトはバウムガルトナー家の邸内へ歩を進めた。

重厚な木材で出来た正面扉は、華麗な装飾が施された金属で保護されている。

 扉に設けられたノッカーは、バウムガルトナー家の紋章、「矢を番え、背いて立つ二人の少女」を象っていた。

 これもまた、ヴァルデス大公家の「フルール・ド・リス(アヤメの紋章)」、アインホルン家の「勇み立つ一角獣」と同じく、ヴァルデス大公家がまだ、選帝侯家としてエフゲニア帝国の一員であった頃から用いられてきた古い時代の意匠、即ち、「旌旗」であった。

 今は貴族然としている、これらの名家の人間たちが、毛皮を纏い、黒曜石の穂先の付いた槍を抱え、顔面に魔除けの入れ墨をして、野獣のように吠えながら敵と戦っていた時代から用いられてきた部族の象徴である。

 一階ロビーは、市松模様の大理石の床で覆われている。

赤レンガの壁には、名工の手になる絵画が飾られ、その周辺は彩り鮮やかなタペストリーで囲繞されている。

 豊かな財力と高い権勢だけでなく、長い年月で培われてきた美的センスがなければ、このように調和のとれた美しい空間を創造することは出来なかっただろう。

 ここは単なる住居という意味合いを超えて、青い血の歴史を刻み続けてきた藝術作品であると言ってよかった。

 まさに、公国の最高権力者であるアインホルン侯爵家には及ばぬまでも、決して劣ることもない、古い家門を誇る大貴族の邸宅であった。

「ジーク」

 家令に先導されて、バウムガルトナー家の屋敷の中を進んでいくと、ジークベルトの姿を認めて、色味の薄い金髪をした小柄が少年が声をかけてきた。

 きれいに整列した窓から、オレンジ色の太陽の光が邸内に差し込んで、くっきりと鮮やかな陰影を形成している。

 その光と影が織りなす空間の中で、その少年の姿は一際、輝いて見えた。

「ザザ、遅くなった」

 ジークベルトは、胸が異常に高鳴るのを感じた。

初めて会ったときは、こんなことはなかった。

 それはザザ・グアルネッリがアカデミーの制服を着用していて、普通の少年の姿であったからでもあるのだが、同じ制服姿であっても、今のザザは、男女を問わず、万人の心をざわつかせるような倒錯した美のオーラを放っていた。


 これが、グアルネッリ家の人間という者なのだろうか。


ザザ・グアルネッリは、その手を床にへたり込んだ少女の肩に置いている。

「マリベル、大丈夫かい」

 ジークベルトは、アスベルの双子の妹、マリベルに声をかけた。

マリベル・バウムガルトナーがその声に応じて、顔を上げた。

 ジークベルトが息を飲む。

マリベルの双眸の下には黒々とした隈があって、いつもバラ色に輝いていた彼女の頬は、肉が削げ落ちていた。

 アスベルが自室に籠ってから、マリベルは姉のことを心配し、ろくに食事もせず、睡眠もとっていないことが明らかであった。

「何て姿だ… マリベル」

 家令がマリベルの傍らに膝をついて言った。

「私どももお食事を召されるように、夜はベッドに入られるようにと懸命に申し上げているのですが、お嬢様には聞き入れていただけず…」

「マリベル」

 ようやく、マリベルがジークベルトの姿を認めたようだった。

「ジーク」

 その目は真っ赤に充血していて、マリベルがこの三日間、全く眠っていないことが、そしてその間、アスベルのことを心配して、ずっと泣き腫らしていたことが容易に伺われた。

「マリベル、気持ちはわかるけど、これでは君まで参ってしまう」

「ジーク、お願い。姉さんに部屋から出る様に言って。姉さん、もう三日の間、ずっと部屋に籠ったまま。これじゃ、身体が持たないわ… 姉さんに何かあったら、私、私、もう生きていけない…」

「マリベル」

「マリベル」

「マリベルお嬢様」

 ジークベルトとザザ、バウムガルトナー家の家令が同時にマリベルに声をかけた。

ジークベルトは、アスベルの自室の扉を叩いて、部屋の中へ向かって叫んだ。

「アスベル、僕だ、ジークベルトだ。みんな、君のことを心配してくれている。頼むから、ここを開けてくれ」

 だが、返事は返ってこなかった。

「アスベル、頼む。扉を無理やり、押し破るような手荒な真似はしたくない。お願いだから、この扉を開けてくれ」

 マリベルが、ジークベルトに続いて悲痛な声で叫んだ。

それは悲鳴に近かった。

「お願い、姉さん。この扉を開けて。もう、三日間、何も食べてないでしょう。このままじゃ、姉さん、本当に死んじゃうよ」

 ザザが続けて言った。

「アスベル、アカデミーの練兵場で僕たち、誓い合っただろう。決して、人生を諦めたりしないって。自分は悪人どもを叩き潰すだけの道具でいい、心なんて、ない方がいい、それがゴーレムマスター、グアルネッリ家に生れた人間の宿命なんだって。僕は自分の人生など、それでいいと思っていた。でも、君に会って、人生を投げ出したりせず、もう一度、きちんと生きてみようという気持ちになれたんだ。君だって、同じだったはずだろ? アスベル、お願いだ。こうやって、ジークも来てくれた。ヴァヌヌやアデリッサ、そして、ラスカリス・アリアトラシュ殿下も君のことを心配して、この屋敷まで来て下さることになっている。アスベル、こんなに大勢の人間が、君のことを心配しているんだぞ」

 ザザの言葉が終わるのと同時に、部屋の中からかすかな声が聞こえた。

「……」

 アスベルの自室の前に集まった少年たちは、はっと息を飲んだ。

「アスベル」

  「私には、その価値がない」、そのかすれた声はそう言っていた。

「アスベル姉さん、今、何て」

 マリベルがすがるような表情で、部屋の中へ問いかけた。

「…私には、みんなの友人でいる資格なんてない。みんな、立派な子たちばかりなのに、私ときたら、何の価値もない人間なんだから」

 ジークベルトが力と熱を込めて言った。

「アスベル、本当に君が価値のない人間なら、態々わざわざ、みんな、君の屋敷まで、足を運んだりしない。こうやって、みんなが君を心配して集まったりしない。君はこんなに大勢の友人たちから、愛されているじゃないか。アスベル、君はそんな友人たちの気持を踏みにじるつもりか」

「もう、放っておいて」

 少女の弱々しい声が、部屋の中から聞こえた。

ジークベルトが、その声に応えて叫んだ。

「放っておけないから、こうやっているんじゃないか。君は丸三日も、何も食べていないようだが、マリベルだって、その間、何も口にしていないんだぞ。君は君自身だけでなく、心から君のことを心配してくれている人間まで傷付けているんだ。なぜ、それが分からないんだ」

「……」

「アスベル」

 それきり、部屋の主は再び、沈黙してしまった。

ザザが、ジークベルトに囁きかけた。

「どうしよう、ジーク。無理にでも、部屋の扉を破った方がいいかな」

 ジークベルトは、かぶりを振った。

「いや、無理をすれば、アスベルが自傷行為に及ぶ可能性があると思う…」

 ザザは俯いた。

「そうだね…」

 マリベルが部屋の扉を拳で叩き付けた。

「姉さん、お願い。部屋から出てきて。神授式の結果に関係なく、私たち、ずっと仲の良い姉妹でいましょうって、約束したじゃない。お願い、姉さん…」

 恐らくは、この二日間、マリベルは何百回もそう言って、アスベルの部屋の扉を叩き続けてきたのだろう。

 マリベルの声はかすれ、しわがれていた。

いつも太陽のように明るく笑っていた十五歳の少女が、こんな打ちひしがれた姿を見せるのは、ジークベルトら、アカデミーの級友たちにとっても初めての事であった。

 その時、件の家令がアスベルの部屋の前まで小走りに駆け寄ってきた。

「失礼いたします。レオンハルト伯爵家のご令嬢、アデリッサ様、そのご学友、ヴァヌヌ様、そして、ラスカリスア・アリアトラシュ・ヴァルデス公子殿下がお見えでございます」

 少年たちが、バウムガルトナー家の廊下を振り返ると、メイドに案内されて、三人の少年少女たちが、足早にこちらへ向かって来るのが見えた。

 ラスカリス・アリアトラシュが、息を弾ませながら級友たちを認めて言った。

「遅くなった、申し訳ない」

 続いて、アデリッサ・ド・レオンハルトが友人たちに会釈した。

アデリッサの視線は、すぐにマリベルに注がれた。

 アデリッサはしゃがみ込んで、マリベルの肩に手をかけた。

「マリベル、元気を出して。アスベルは大丈夫だから」

 マリベルは、赤く染まった双眸で優しい栗毛色をした少女の貌を見詰めた。

「何て顔… マリベル、せっかくの美人が台無しじゃない」

 アデリッサは、そのまま、優しくマリベルの身体を抱き締めた。

ジークベルトとザザは、アデリッサの傍らに佇むヴァヌヌに目線で挨拶した。

「すまない、ヴァヌヌ。君にまで迷惑をかけてしまった」

 ヴァヌヌは、首を横に振った。

「迷惑などとんでもない。僭越ながら、この僕もアスベル様の友人の一人であると自負しています。大事な友人のためなら、自分に出来ることは何でもいたします」

 ジークベルトとザザは、穏かな微笑を平民の共に向けた。

ヴァヌヌは、友人たちに倣って、アスベルの部屋の中へ向かって叫んだ。

「アスベル様、ヴァヌヌです。これまでマリベル様を初め、あなたの大切な人たちが、あなたのことを心配して、部屋から出てくるようにお願いされたはずです。僕も同じ事を申し上げます。お願いです、部屋の扉を開けて下さい」

 だが、やはり、部屋の中からは返事がなかった。

ヴァヌヌは、続けて言った。

「アスベル様、ここにはアデリッサ様もおいでです。アデリッサ様のお父上、ガレオン・ド・レオンハルト伯爵閣下が率いる騎士団、エルデリッターが謎の武装勢力に襲撃され、ガレオン様は負傷を負われたそうです。アデリッサ様は、ご自身のお父上の事を心から心配されておられます。それでも、アデリッサ様は、お父上に心を残しながら、こうやってバウムガルトナー家まで足を運んで下さったのです。アデリッサ様は、遠くにおられるお父上の事はどうすることもできないけど、アスベル様、あなたなら、自分の力で励ましてあげられるとおっしゃってます。アスベル様、ほかの方たちも仰ったと思いますが、あなたはこんなにも大勢の人たちに愛されています。お願いですから、自分で自分を傷付けることなど、なさらないで下さい」

 しかし、アスベルからの返事はなかった。

それでも、ヴァヌヌの言葉が自室に引き籠るアスベルの心に届いたのは、間違いなかった。

 ラスカリス・アリアトラシュが、眦を決して友人達に告げた。

「僕に任せてくれるか、みんな」

「ラスカリス?」

「…こんなことはあまりしたくないのだがね」

 ラスカリスは、すうっと息を吸って力強い声とともにそれを吐き出した。

「バウムガルトナー家の長女、アスベル・バウムガルトナー。これは、ヴァルデス公国大公家第三公子、ラスカリス・アリアトラシュ・ヴァルデスである。ヴァルデス大公家の一員として、汝臣下に命じる。この部屋の扉を開けよ。これは主命である」

 ジークベルト初め、その場の少年たちは呆然とラスカリス・アリアトラシュの横顔を見詰めた。

 決して身分をひけらかすことのない同い年の少年が、こんな高圧的な物言いをするのを彼らは初めて経験した。

 ラスカリスの言葉とともに、少年たちは恐懼して姿勢を正した。

いつも羊の様に穏やかで、まわりに暖かな笑顔を見せる少年が、その気になれば、これ程のカリスマ性を発揮できることをジークベルト初め、少年たちは驚きとともに受け止めた。

 ヴァルデス公国のアリストクラシーの外にいるヴァヌヌでさえ、ラスカリスが発した君主のオーラに圧倒され、居住まいを正したほどだった。

 アスベルの部屋の扉が、かすかな軋みとともにゆっくりと開放された。

ラスカリスの言葉は、事実に閉じこもる少女にも同じ効果を与えたらしかった。

「僕に任せてくれ」

 ラスカリス・アリアトラシュは、友人たちにそう言って、アスベルの自室の内側へ身体を斜めにして滑り込ませた。

 部屋の内部は薄暗く、その空気は淀んでいた。

窓を覆う厚手のドレープは、外からの光を遮っていたし、窓硝子もまた、この三日間、開放されることがなかったのだろう。

 ラスカリス・アリアトラシュは、暮明に目を慣らす必要があった。

それでも、ラスカリスは豪華な天蓋に覆われた寝台に、一人の少女が身を起こしてこちらを見詰めていることに気が付いた。

 絹とベルベットで出来た天蓋は、寝台の主を外界から隔絶し、その者に紗の掛かったプライベートな空間を提供していた。

 アスベル・バウムガルトナーは、純白の絹で編まれたネグリジェを纏い、上半身を起こし、顔だけをラスカリスに向けたまま、呆然とこちらを見ている。

 こんな場合でなかったなら、寝室という、妙齢の女性の極めてな空間に男性が侵入すること自体、大事であっただろう。

 アスベルはよろよろと立ち上がり、精緻な彫刻の施された寝台の手すりに手を置いて体重を支えながら、かろうじて立ち上がった。

 そのまま、彼女はネグリジェの裾を左右の手でつまみ上げ、片脚を後方へ引いて貴人に対する礼をとった。

 カーテシーである。

「大変、失礼をいたしました。ラスカリス・アリアトラシュ殿下。こんな場所で、こんな格好で、本当ならお手打ちにされても、仕方がない処です…」

「そんなことを聞きたいんじゃない!!」

 ラスカリスが大声で怒鳴ったので、アスベルは身体を痙攣させた。

少女の体力が、弱り切っている証拠であった。

 そのまま、崩れ落ちそうになるアスベルの身体をあわててラスカリスが抱き留めた。

「アスベル」

「ご、ごめんなさい、私…」

「こちらこそ、大きな声を出して悪かった。君が今、どんな状態なのか、考えるべきだった。申し訳ない」

 アスベルが、弱々しく笑った。

その憔悴しきった微笑は、ラスカリスの胸を焼いた。

「高圧的な口調で、君に命令して、すまなかった。どうしても、部屋の扉を開けてほしかったのだ。許してほしい」

「良いんです、ラスカリス・アリアトラシュ殿下」

「ラスカリスと、いつもの様に呼び捨てにしてくれ。アスベル、僕たちは友達だろう。君がこんな状態の時、君の力になりたくて、私はここへ来たんだ。アスベル、君はこの三日間、何も口にしていないようだが、マリベルも同じだ。彼女は君の大事な妹だろう? 君の半身と言ってもいい存在だろう? 君が苦しめば、半身であるマリベルも同じように苦しむんだよ。私はここから君を連れ出すためにやってきた。さあ、帰ろう、みんなの所へ。君のことを心から案じている友人たちの元へ」

「ラスカリス…」

 アスベルの頬に銀色の涙が伝い落ちた。

「私、女神様から魔導弓を授かれませんでした… 私はみんなと一緒にいる資格がありません… みんな、立派な子たちなのに、私だけ、価値のない人間だし…」

「アスベル、君の価値を決めるのは、女神様ではない。君の価値を決めるのは君自身の行動と、そして君の友人である僕たちの思いだ。君のことが大好きで、ずっと君と一緒にいて、君と笑い合って生きていきたいと願っている僕たちだよ。このラスカリス・アリアトラシュ、ジークベルト・フォン・アインホルン、ザザ・グアルネッリ、アデリッサ・ド・レオンハルト、ヴァヌヌ、そして、君の半身であるマリベル・バウムガルトナー… そのぼくたちが、アスベル・バウムガルトナー、君という人間には特別な価値がある思っているのだ。それで良いじゃないか」

「ラスカリス…」

 胸の奥底から、何か熱い感情が込み上げて来るのをラスカリスは感じた。

ラスカリスの手には、十五歳の少女の嫋やかな肉体の重みが心地よかった。

 アスベルを腕の中に掻き抱いたまま、ラスカリスはアスベルの薄い唇に己のそれを重ねていた。

 それは、ラスカリス・アリアトラシュにとっても、アスベル・バウムガルトナーにとっても、生まれた初めての口付けであった。

 ラスカリス・アリアトラシュのぎこちない接吻を受け入れながら、アスベルのペールブルーの双眸が大きく見開かれた。

「ラスカリス、何を…」

 ラスカリスは、アスベルの朱を刷いたような唇を解放した。

「すまない、こんな時に… 君の弱った心に付け込むような形になってしまった…」

「…私、何の役にも立てません。ラスカリス、妹のマリベルはあなたの事を憎からず思っている様子です。銀の魔導弓アルギュロスを授かったあの子なら、あなたや大公家のためにお役に立てるはずです。それに…」

「それに?」

「私たち、双子ですから、鏡に映したみたいに瓜二つだし… 貴方自身のためにも、私ではなく、マリベルを選ばれた方が…」

 なんだか、無性に可笑しさが込み上げてきて、ラスカリス・アリアトラシュは、小さな声を発して笑った。

「君と顔がそっくりだから、君ではなく、双子の妹の方を好きになれと、君はそう言うのかい?」

 ラスカリスの言葉を聞いて、さすがに憔悴しきったアスベルも笑顔になった。

「あはは…」


もう、大丈夫だ。


 ラスカリスは、心の中で安堵のため息をついた。

「言っておくが、君を励ますために、今、こんなことを言っているのではない。初めて会った時から、アスベル・バウムガルトナー、僕は君のことが好きだった」

「ラスカリス」

「君が弱っているときに、強引にキスするようなことをして申し訳ない。ずっと、最初の時はどうしよう、どんな状況で、どんな感じにその場の雰囲気を盛り上げてとか、考えていたんだ。僕の気持は、真剣だ。それだけは分かってほしい」

 アスベルは小さく頷いた。

その落ちくぼんだ眼窩の底にある、薄青い双眸に今は、小さな輝きが灯っていることをラスカリスは確認した。

「一緒に部屋を出よう、アスベル」

「は、はい」

 

「姉さん」

 ラスカリスに肩を支えられながら、ゆらゆらと震えながらも、自分の足で歩いて自室を出てきたアスベルを最初に迎えたのは、やはり、マリベルだった。

 マリベルは、この世で一番大切な双子の姉の痩せた身体を抱擁した。

「出てきてくれたのね、うれしい」

「ごめんね、マリベル。心配かけちゃって…」

「良いのよ、こうやってまた、姉さんの顔を見れたのだから」

 その後、マリベルは泣き腫らしたウサギのような赤い目で、ラスカリス・アリアトラシュを見上げた。

「ありがとう、ラスカリス。あなたのお蔭で姉さんとまた、会えました」

「僕は何もしてないよ、マリベル。君たち、みんなの力だよ」

 アスベルが、妹の顔を見詰めて囁くように言った。

「ごめんなさい、マリベル…」

 アスベルにすれば、それは部屋の中でラスカリスから口付けを受けたことを言いたかったのだが、マリベルはそれを謝罪の言葉と受け取った。

「もういいって、姉さん」

 そう言って姉に笑いかけた時、マリベルは気力が限界に達していたのだろう。

全身の力が抜け、膝から崩れ落ちようとした。

 慌てて、その身体をジークベルトが支えた。

「マリベル」

「だ、大丈夫…」

 アスベルは、自分が事実に引き籠ることで、この世で最も大切な妹まで、深く傷付けていたのだという事を改めて思い知った。

「ごめんね、マリベル… 本当にごめん…」

 マリベルがラスカリスを密かに思慕していることをアスベルは、察していた。

そのラスカリスの心が妹ではなく、自分の方を向いていることを知って、彼女がこの場で感じているのは、妹に対する申し訳なさだった。

「本当に、本当にごめんなさい、マリベル…」

 件の家令が口を挟んできた。

「お食事に致しましょう。アスベル様もマリベル様も、三日間、日の光を浴びておられないので、まるで幽霊のようです。庭園のテラスにお食事を運びますので、そちらで日光を浴びながら、栄養を補給して頂きましょう。皆様もどうぞ、アスベル様、マリベル様と一緒に、お食事をしながら、心行くまで語り合ってください」

 家令の言葉に、その場の全員が無言で同調した。


 アスベルは、眼の奥を焼くような太陽の光を遮るため、片手を額の上に翳した。

三日ぶりの日光であった。

 バウムガルトナー家の庭園は、植栽が幾何学的に計算され、配置され、まさに大貴族のそれと言ってよかった。

 それぞれ、含蓄のある花言葉を持つ花々が、己の美しさを誇るかのようにと咲き乱れている。

 薔薇は「愛と美」と意味し、百合は「純潔と高貴さ」を、スミレは「誠実と謙虚」を、そして、ヴァルデス公国の国章であるアイリス(アヤメ)は、「希望と知恵」を現わしていた。

 アスベルは、ネグリジェの上に薄手のローブを纏っている。

日の光を浴びるだけで、幽霊のように瘦せこけたアスベルの両頬に赤みが戻ってきたかのようだった。

 たっぷりとミルクと砂糖を入れた紅茶を口に運んで、アスベルは大きなため息をついた。

「なんだか、私、今日という日に新しく生まれ変わったような気がするわ…」

 アスベルの述懐を受けて、マリベルが温かい微笑を姉に向けた。

「ええ、今日、生まれ変わったのよ、姉さん。今日が新しい人生の最初の日… これから一緒に生きていきましょう」

「マリベル」

 大事な妹を初め、アスベルは自分に注がれているアカデミーの同級生たちの慈愛に満ちた眼差しを受けて、心から彼らの存在に感謝した。

 アスベルは、自分の唇に押し付けられたラスカリス・アリアトラシュの熱いそれの感触を思い出し、心臓の高鳴りとともに顔が紅潮するのを感じた。

 当のラスカリスは、何事もなかったかのように、ジークベルトやザザ、ヴァヌヌら、男友達と楽しく語らっている。


 あれは、空腹と疲労が見せた幻ではなかったのか…


アスベルは、ふとそんなことを思った。

 しかし、再び、ラスカリスと視線を合わせると、彼が送ってきたのは、異性の友人に対する感情ではなく、明らかにアスベルを愛する少女として認識している、同い年の多感な少年のそれだった。

 もう、このままでいい。

このまま、自分の寝室に引き籠って干乾びて死んでしまえばいい。

 そんな風に思っていた自分が、今は不思議だった。

アスベルの部屋の前で、友人たちが心のこもった声をかけてくれたのは、本当に彼女の心に染みた。

 だが、繊麗の女神アルシノエ様から、金の魔導弓クリューソスを伝授してもらう事に失敗したアスベルの絶望を覆すほどではなかった。

 部屋から出て、もう一度、自分の人生を必死に生きてみようと言う気持ちになれたのは、ラスカリス・アリアトラシュから受けた接吻であった。

 ラスカリス・アリアトラシュが、アスベルに与えてくれた口付けは、繊麗の女神アルシノエ様が金の魔導弓クリューソスを授けて下さることより、ずっと嬉しかった。

  

 もう、子供ではない。


私もまた、同世代の男の子からキスされて、心をときめかせる,普通の思春期の女の子であったという事だ。

 胸の奥でうずうずと蠢くその感情は、決して不快なものではなかった。

その時、アスベルは、自分たちに向けられた針のような殺気を感じ取った。

 はっと息を飲んで、アスベルは殺気が届いた方角に視線をやった。

バウムガルトナー家の敷地は、背の高い石壁に囲まれている。

 その石の壁の上に、黒ずくめの男がしゃがみ込んで、こちらを睨んでいる。

その手には、鋼製の短弓が握られていた。

 アスベルは、息を飲んだ。

その男の顔は黒い頭巾で覆われ、表情を伺うことは出来ない。

 しかし、男の視線は、まっすぐに自分たちに向けられ、男の手に握られた短弓は、限界まで引き絞られ、番えられた矢はこちらに狙っていた。

  

 暗殺者?

 

一体、誰を?


 この場で最も身分が高いのは、言うまでもなく大公家の一員であるラスカリス・アリアトラシュ・ヴァルデスである。


 しかし。


咄嗟の判断で、アスベルは子の暗殺者が誰に狙いを定めているのか、察知した。

「危ない、マリベル」

「えっ」

 アスベルは弾むように立ち上がって、傍らに座るマリベルを突き飛ばし、マリベルを自分の身体で庇った。

 暗殺者が放った矢は、本来の暗殺対象であるマリベル・バウムガルトナーから狙いを外してしまった。

 その代わり、その矢は妹を庇ったアスベルの左の胸を直撃した。。

「姉さんっ!!」

 マリベルが悲鳴を上げた。

暗殺を仕損じて,黒づくめの男が舌打ちしたようだった。

「あ、あれは…!!」

 ジークベルトは絶句した。

それは、アインホルン侯爵家を急襲し、姉のメーアを凌辱し、ジークベルト自身を殺害しようとしたエドラー・ヴォルフ・フォン・ゼークトを、彼が逃亡する際に毒を塗った矢によって殺害した、あの暗殺者で間違いなかった。

「曲者だッ!! 出会えッ!!」

 ジークベルトが叫んだ。ザザとヴァヌヌが、自分の身体でラスカリスを暗殺者の射線から隠した。

 闇色のマントを翻し、男はバウムガルトナー家の敷地を囲む石壁から、外へ向かって飛び降りた。

 ラスカリスは、先程、告白したばかりの少女の身体を抱きかかえ、アスベルに呼び掛けた。

 妹のマリベルもまた、姉の身体を腕で支え、悲鳴のような声でアスベルの名前を呼んだ。

「アスベル」

「アスベル姉さん」

 アスベルは、ラスカリスとマリベルに両側から抱えられ、薄らと目を開けた。

暗殺者の矢を受けた胸には、鮮血ではなく、真っ黒な魔力の塊が渦巻いている。

 鋼で出来たやじりの代わりに、魔力を打ち込む魔法矢マジック・アローであった。

「ラスカリス… マリベル…」

 アスベルは、自分を覗き込む二人の顔に等分に視線をやった。

「ごめん… ごめんね… 折角、私の事を… 本当にごめんなさい…」

 そのまま、アスベルは瞑目した。

「アスベル!!」

「アスベル姉さんッ!!」

 だが、もうアスベルから返事は戻ってこなかった。



 


 

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