21:【問】あれとは何か

(2023/05/23・monogayary)『あれがくる』



「あれがこない」


 文嶋綾子あやしまあやこの呟きに、ホームに居合わせた僕以外の人間が息を呑んだ。

 先刻まで穏やかで弛みまくっていた空気がピンと張りつめている。何処からともなく聞こえる空調の稼働音が耳に障る。眼の端で誰かがビクッと震えた。そちらへ視線を移すと、猫村の背筋が伸びていた。まるで背骨に太くて頑丈な針金が一本、入ったようだった。これは由々しき一大事である。彼の背中は名字が体を表したかの如く丸まり、見事なアーチを描いていたのに。猫村が凡人へランクダウンするほど、文嶋の呟きは衝撃的だったらしい。

 あれがこない。

(あれってなんだ?)

「うそ……ほんとに……?」

 壁際に設置された長椅子から、ひとりの女が立ち上がる。井野さんだ。ひょろりと長い身体がふらつくのに合わせて、腰の辺りまであるポニーテールが揺れる。井野さんは震える声で「ほんとに」を繰り返した。

「ほんとにこないの……あれが……」

「えぇ」厳しい表情の文嶋が頷く。「そうなの」

「いつ……いつから、こないの」

「……三ヶ月と三週間前」

 小波のように起こったざわめき。ただでさえ色白な井野さんの顔から血の気が引いた。そのうち唇が真っ青になるのでは、と僕は思った。

 猫村の背筋は伸びきったまま、かちこちに固まっている。息をしていないように見える。彼の安否を確認したいが、僕と猫村の距離はそこそこ遠く、肩を揺すぶることも鼻の下に手を翳すことも出来ない。猫村の傍へ歩いて行くのは何となく憚られた。妙な緊張感さえある空気をかき分けて進む勇気が、僕にはなかった。

 誰も彼もが傍らの人間と囁き始める。

「あれがこないんですって」

「本当なのか? 冗談じゃなく?」

「冗談ならどんなに良いか」

「でも、冗談には見えないわよ。ご覧なさいな、あの表情」

「確かに、あれは何ヶ月もきていない顔だ。それも悪い意味できていない証拠だ」

「あぁ、なんて嘆かわしい」

「かわいそうに」

「そう心配することないわよ」

「そうよ。あたしだって何度か、三ヶ月こなかったわ」

「俺もそうだった」

「うちも」

「でも、三ヶ月経てば、ちゃんときたんでしょう?」

「勿論」

「彼女は更に三週間きていないのよ。もうすぐ四ヶ月になる。おかしいわ」

「案外、彼女の自業自得じゃないかね」

「油断したか、ミスったかしたんだよ」

「充分用心したからといって、防げるものでもありませんしね」

「所詮は大抵、他人頼みですもの」

 いくら耳をそばだて紳士淑女の囁きを盗み聞いても『あれ』が何を指すのか判らない。

 最初は、月経だと予想した。三ヶ月と三週間こないことで、文嶋綾子が顔を硬くし、井野さんが動揺するもの。女性限定の生理現象。

 猫村の背筋が強制的に矯正され、そのまま形状記憶される理由は判らない。けど、僕の知らない内に文嶋と猫村が懇ろな間柄となっており、ベッドを共にする関係にまで進展していたなら納得は出来る。あぁ、避妊に失敗して妊娠したのか、と。

 しかし。自分も三ヶ月こなかったと言う女性に同意する人の中には、男性の姿もある。

 僕はちらりと彼らの薬指へ眼を遣った――どの指にも装飾品はなかった。

 だから恋人も配偶者も居ない、とは断言できない。けれど『あれ』が月経のことを指さない証明にもならない。今日日、月経時の痛みは知らずとも、月経が何たるものかの知識を得ている男性は少なくない。姉妹がいれば尚のこと、そのての情報が入る機会も多いだろう。

 あれとは一体、何なんだ。

「まあ、もうちょっと待ってみれば?」

 と、やや高い声がホームに響く。

 声の主は黒いパーカーに、ブルージーンズを履いていた。ベリーショートの髪を、赤とピンクの中間色に染めている中性的な外見。背は、僕とほぼ変わらない。視線は右手のスマートフォンへ固定されている。奇妙なスマホカバーを付けていた。よく見ると、焼きそばだった。使い辛い上に仕舞い難くないのだろうか、と思考が関係のない方向へ飛んでいく。

「それより」

 すいっと、視線が僅かに上がる。茶色い瞳と僕の眼が、不意にぶつかった。


「やっとくるよ、あれ」


 はっとして、僕は即座に振り向いた。遠くに、ぱっくりと開いた大きな黒い口が、小さく見える。耳に届くのは未だ空調の稼働音だけだ。けれど空気の振動と、風に乗ってくる香りが、あれの接近を確かに知らせている。誰も彼もが立ち上がり、境界線へ駆け寄る。あれがくる。あれがくる!

 僕の足もまた、境界線へと急いだ。

 途中、三人へ眼を向けた。順番に、文嶋綾子、井野さん、猫村へ。

 文嶋は三ヶ月と三週間あれがこないことなど、すっかりどうでも良くなったらしい。全速力で走りながら人を押し退け押し退けられつつ、誰よりも前へ――境界線の近くへ――行こうとしている。必死の表情で。

 井野さんも、長い手足を蜘蛛のように動かしながら進んでいる。青白かった頬は紅潮し、綺麗に纏められていたポニーテールは解けていた。血走った眼と乱れた黒髪は、さながら若き山姥みたいだ。

 猫村の背は丸まっている。素晴らしい完璧なアーチを見て、僕は胸を撫で下ろす。そうだ。あれこそが猫村だ。天を穿つように垂直な猫村など猫村ではない。これで終わりかもしれないこの瞬間、真の猫村と再会できて良かった。


 最後、何の気なしにベリーショートの彼――或いは彼女――を見た。

 その人は、先ほどの場所から一歩も動いていなかった。まるで一人だけ時が止まったように立ち尽くしている。茶色の瞳は右手のスマホへ落とされている。

 声を掛けようと口を開く。しかし、言葉は出なかった。それよりも先に歓声が上がったからだ。僕は、いつの間にか止まっていた足を動かす。あれはもう、すぐそこまできている。

 遠くの黒に、きらりとあれが光る。まるで星の瞬きだ。明けの明星。太陽を導くように輝く金星。希望の星。あれを捕まえたくて、ずっと待っていたのだ。

 僕は怯えることなく人の壁へ突入する。誰よりも早くあれを手にするために。



(終)

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