皐月文書

20:鰤と真鰯

(2023/05/13・Prologue)



 夕方、人通りのない住宅街を歩いていたら黒猫に出会した。

 しなやかな身体をした美人な黒猫だ。首輪をしていなかったので野良猫だと思われる。が、耳は綺麗な三角型。地域猫とやらは片方の耳にそれと判る切れ目のようなものが施されていると聞いた。ので、黒猫は保護猫ではないと推測される。

 黒猫は道の真ん中を陣取り座っていた。まるで置物のように微動だにしない。ただじっと、偶然にも眼があった私と視線を交叉させている。なんとなく居心地悪く感じた私は眼を逸らした。その直前、黒猫の瞳が青色なことを発見した。ビー玉の如き透明な淡い青。純粋に綺麗だと思った。

 眼を明後日の方向へ向ける私に何を思ったのか、猫はぽてぽてと近寄ってきた。そして脚に身体を擦り付けて鳴いた。「にゃぁん」とか「にゃー」といった可愛らしいものじゃない。ニャンちゅうばりの濁音。最大限に良く言うならハスキー。シンプルに悪く言えば、酒で焼け爛れた声でニャアニャアと鳴く。

 その声は想像以上に響いた。いくら人通りがないとは言え、生垣の向こうに建つ家には人が暮らしている。軒並み留守にしている可能性は否定できない。けれど、遮光カーテンの隙間から漏れるオレンジが可能性を否定する。私は怯えた。猫の声に、ではない。今にもカーテンがシャッと開き「うるせぇ!」と怒鳴られることに。

 幸い、誰にも怒鳴られなかった。どのカーテンも微動だにせず、なんの声だと隙間から覗かれもしなかったらしい。あたたかい光の揺らめきさえなく、猫のダミ声以外は一切の変化がない。まるで、私と猫だけが生きる住宅街みたいだった。

 私は怯えた。ここはどこだ、と反射的に考えた。

 見渡し、見慣れた住宅街であることを確認する。しかし、別の世界……否、星へ降り立ったみたいに余所余所しい。私の両手は無意識に二の腕を摩った。まったく寒くはなかった。が、知らぬ間に震えていた。摩っても摩っても治まる気配がなかった。

 足許の猫が、額を私の向こう脛に押し付ける。こちらを見ろ、とでも言うように。

 仕方なく見下ろす。ぞっとするほど美しい碧が私を射抜いている。軽く開いた両脚の間を八の字に歩き、止まって、再び「ニャァン」と鳴く。そして唐突にくるっと背を向けて歩き出した。どこへ行くにだろう? くねくねと動く身体を眺めていたら、振り返って鳴かれた。

「何故ついてこない、この鈍間」

 幻覚が聞こえた。仕方なく駆け足で距離を詰め、大人しく猫の背を追う。


 灯はあるが不自然なほど静謐な夜の住宅街を抜け、繁華街を歩き、波止場へ出る。

 五月の海風は存外冷たかった。けれど不快ではなく、寧ろ心地良かった。パソコンやスマホの使い過ぎで熱を持った脳味噌が冷やされる。潮と、どこから来たのか判らぬ重苦しい空気を肺いっぱい吸い込む。ことさら意識して、ゆっくりと吐き出す。深呼吸を繰り返すに連れて思考がクリアになる。

 口許が緩み、笑みを形作っていることに気が付いた。

「やば、恥ずかし」と思い、きゅっと唇を引き締める。黒猫の存在を思い出して足許へ眼を遣る。


 黒猫は姿を消していた。

 いつの間に居なくなったのだろう。まったく気付かなかった。周囲を見渡す。あるのは眠るように停泊する船舶。穏やかな黒い海。濃紺の空に瞬く星々。細く裂いたような白い月。闇に溶けそうで溶けない建物。

 あれはなんだろう。誘われるように建物へ近付く。夜に塗り潰されていた姿が少しずつ明らかとなる。それは魚市場だった。船舶と同じく眠りについた魚市場。あと数時間もすれば眼を覚まし、寝起き特有の気怠さを脱して活気に満ち溢れるのだろう。

 眼を瞑り、その情景を頭に思い浮かべる。

 もう一度深く潮の香りを吸い、吐き出して、目蓋を押し上げる。



 眼前に茶色の木目が広がっている。自分が住んでいる部屋の天井だと直ぐに判った。上体を起こす。全体重を受け止めてくれるベッドも、軽くて暖かい薄手の毛布も、低反発の枕もすべて、私のものだ。寝る前となんら変わらない。

 けれど、私の中の何かは変化していた。取り敢えず、今日の夕飯は魚にしよう。焼き物か煮物か、刺身でもいい。新鮮な魚を求めるついでに近所の猫カフェをリサーチしよう。本当は飼いたいけれど、夢に釣られた衝動で命を扱うわけにはいかないから。もしかしたら、あのダミ声の黒猫が居る猫カフェがあるかも。

 そんな期待を胸にベッドを降り、窓際へ歩く。薄っすらと明るいカーテンを両手で摑んで開く。

 新しい一日の始まりだ。



(終)

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