第9話

娘は、自分が小さい頃から苦しんできたので、人の苦しみにも敏感(びんかん)でした。不幸な人の話を聞いたり、テレビで見たりすると、胸の疼(うず)きを感じました。


いつか人の役に立ちたい、苦しんでる人を救ってあげたい、と心から願っていました。それは、熱く熱く熱く、胸奥から込(こ)み上げるような思いでした。


夜、一人、部屋で涙を流し、胸震わせながらそう思いました。


「その時には、私は自分が出来うるかぎりのことをやるだろう。ありったけの力でもって」

娘は、そう思いました。


娘は、小説も読みましたが、詩も熱心に読みました。バイロンやタゴ―ル、杜甫や西脇順三郎などなど…。


非常に多くの詩を娘は諳(そらん)じることができました。


段々(だんだん)と娘は、芸術の世界へと入りこんでいきました。絵画(かいが)や音楽作品も、娘の心をとらえて離さなくなったのです。


ですから娘の部屋の壁には、大画家達の複製が掛(か)けられ、重厚な、楽しげな、あるいは悲哀に満ちた音楽が、その窓から外へと流れました。大江健三郎やシェリ―という友人のほかに、新たにブラームスやシュ―ベルト、マネや藤田嗣治という友人が加わったのでした。娘は、芸術の世界に毎日ほとんど溺(おぼ)れるように浸(ひた)っていたのでした。


庭で椅子(いす)に座(すわ)って道路の方を見ていた娘は、ハッとしました。胸がときめきました。怖いような気持ちさえしました。


娘の眼は一人の若者に注(そそ)がれていました。それは、母性的と言っていいほど優しい眼をした若者でしたが、それと共に何か挑(いど)むようなところがありました。

彼の口元はキリリと引き締(し)まっていて、強い意思の持ち主であることを示していました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る