第5話

 失敗だ。俺の頭に「逃走」の二文字がひらめいた。

 目撃者がいるのでは、プロの犯行はなりたたない。

 しかし――

「抵抗してすみません。でも、最後に息子に、意気地なしの父親の姿を見せるわけにはいかないんです。私は戦ったことにしてください」

 正雄自身がそうささやいた。

 その言葉をきくと俺は気を取り直し、芝居がかった調子で少年に凄んだ。

「静かにしろ。でないと、親父が死ぬぞ」

 篤志が自分の口を両手で覆った。

 俺は正雄の襟首をつかんでたたせ、一発顔面を殴り飛ばした。

 二メートルほど吹っ飛んだ正雄は、驚くべき反応で起きあがった。酔っ払いのようよろめきながら、がくがくする膝で俺に歩み寄ってくる。

「篤志、黙って逃げなさい。ここはお父さんがくいとめる」

 鼻と口から血を噴き出しながら言う。額も切ったのか、正雄の顔全体が赤く染まっていく。

 俺の背後で、篤志は口を覆ったまま、声にならない悲鳴をあげている。

 血に染まった顔で泣きながら、俺だけにきこえる声で正雄が訴える。

「すみません。あの子には、自殺じゃないと思っていてほしい。せめて父親は精一杯生きたってことにしてやってください」

 小さくうなずいて、俺は足元を蹴飛ばしてやった。ふたたび正雄は悲鳴とともに地面に転がった。手応えでわかる。脛の骨は折れたはずだ。

 うめき声をあげながら正雄はごろごろと転がる。人が精一杯生きる姿、というのはどうしてこんなにも昆虫の幼生に似ているのだろう。

 とどめの刺し時だけが問題だな、と俺は冷静に考えていた。

 篤志にとって、目の前で父親を殺されるのは、相当の精神的ダメージになるだろう。逃げるのを待ってやりたいが、息子はさっきから腰を抜かしていて逃げる気配がない。

 もうひとつ懸念がある。

 篤志が逃げないとすると、目撃者としてこの子も始末しなければならなくなる。

 それが俺の心にひっかかった。今まで人を殺すことに、なんの呵責もなかった俺の心に、なぜか小さくひっかかるのだ。

 いや、親子仲良くブルーシートの下で永遠の眠りにつくのも悪くないかもしれない。篤志だってそのほうが寂しくないだろう。急いでそう考え直した。

「ひっ……ひっ……」

 正雄は苦しそうな息をしていた。両目はもう焦点を結んでいない。

 全身の痛みに耐えられないのか、それとも倒れた拍子に肋骨でもやったのか。内臓は潰していないはずだが、出血性のショック症状だろうか。

 それでもうつ伏せになると、爪を立てるようにしてアスファルトにはいつくばり、俺の靴をつかんだ。新品のスニーカーに赤い手形がつく。

「頼む。む、息子だけは……」

 絞り出すような声で訴えた。

 俺は少し感動した。重傷なのになかなかの演技だ。

「ふん。雑魚が。残念だったな」

 俺の方もちょっと悪者になりきって言ってみた。

「これでおしまいだ」

 その声とともに、正雄の首を思い切り蹴った。頸椎があっけなく折れる感触があった。

 正雄の身体が痙攣し、やがて、がくりと脱力した。

 これでもう痛くもないし、苦しくもないだろう。

 よく頑張ったな。父親でさえなかったら、もっと楽に死ねたのにな、とやや同情めいた気持ちがわいた。

 やはり背後の少年は立ちすくんでいて、動く気配がない。これは俺にもしょうがない。親子そろって昇天コースだな、と俺は思った。

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