02 «異界»

 単純に思考放棄というにはやや語弊があるため、思考阻害とでも訂しておこう。

 実際、この怪奇現象に驚くのは束の間の出来事だった。だが、追って全身を襲った猛烈な倦怠感に、思考の大部分が飲み込まれてしまったのは、紛れもない真実である。これが思考の続行を妨げた原因に、他ならなかった。


 前日にどんな行動を取れば、こんなにも疲れが骨身に応えるのか。体調不良と心身疲労が幾重にも折り重なった消耗感は、酷く壮絶なものである。

 身体は重い上に、節々は痛む。【未知の場所に迷い込む】だなんてゲリライベントさえ生じていなければ、凄まじい睡魔に抗いもしなかったであろう。有りていに言ってしまえば、大手を振って眠りに身を委ねていた可能性すら大いにある。

 そう。異色の情景を無視して、事実解明を一擲いってきする余地すらあったのだ。


 そんな中、辛うじて意識を繋ぎ止めていられた要因とは一体何だったのか、という議題が浮上する。だがその議題には、そこに確固たる理由があったからとしか答えようがない。

 心の奥底に「何故こんな事態に陥っているのか?」と、自らに迫った謎を解き明かさんとする、強固な意志があったからなのだ。「どうせレム睡眠が見せる壮大な夢だ。そうに決まっている」と、漫然と断定できたなら、今より何倍も楽だっただろうに。分かっていながらそうしなかったのは、揺るぎない意地が根底にあるからこそ。


 無論、一概に夢だと楽観視するには無理もあった。残念なことに、知能やら知識やらが既に発達し過ぎてしまっている、という条理的論点が大きく寄与するからだ。更に、夢にしてはやけに写実性が高い世界。これを呑気に「夢ではなかろうか?」と考察する選択肢は、一般的な人間ならまず取らないだろう。


 では、【一時的に知的活動を中断してなお、未だに解明を諦める気になれないのは何故か?】——この問を端的に紐解くのなら。それは、大方元来の負けず嫌いな性分とやらが、遺憾なく発揮されているからだと言えよう。

 表面上、摩訶不思議な境遇に狼狽ろうばいしつつも、その実謎解きを楽しんでいたと言って差し支えないほどに。それほどまでに、胸の鼓動は昂っていたのだ。この事実こそ正に、解答の根拠を担保している。そう言えるレベルに値するであろう。


 無意識の内に自力でここに辿り着いたか、はたまた就寝中第三者の手によりここに運び込まれたか。あらゆる仮説を想定するものの、抑々そもそも覚えていないのだから、生憎そのどれもが定かではない。

 しかしどう転ぶにせよ、これが【個人では決して推し量ることのできない難題】であることに相違はなかった。今、こうして目の前に突き付けられている現実のみが、ここまでで知り得た唯一の収穫なのだから。


 くして、どれほどの間休憩と称して呆けていたか詳らかでない。夢ではないと告げる痛覚と、目覚めてから徐々に増幅する朝の空腹感が、状況が現実そのものだと訴える中で。ただぼうっと虚空に視線を彷徨さまよわせていると、杉綾模様をした床材一面に満遍なく塵埃が溜まっている点、そこにふと目がまった。


 ことの発端に見渡した時こそ、きちんと片付いているように見えた部屋ではあるものの。よくよく目を凝らせば、なるほどそうでもないらしい。

 シトラス系のフレグランスの奥にかび臭さはないが、確かに室内の空気全体が埃っぽさを帯びている。単なるモデルルームと看做みなすには、清掃が行き届いていない。それに加えて、ローテーブルで乱雑に散らばる大量の書類を見るに当たり、生活感ぜろとも言い難い。家主が長期間に渡りここを不在にしているとの予測は、極めて容易であった。


 ところが何か妙だった。とは明言できない。しかし、異様な違和感が確かにそこにはあったのである。

 不審感を覚え、もう一度辺りを一望するも、やはりその得体は知れず。冥々のうち、他人の居住区域に迷い込む。——なんて、常軌を逸した体験を現在進行形で味わっているにもかかわらず。胸の内では更に形容し難い新たな疑念が、徐々に渦巻いていった。


「ええと。……大量轢死事件に関する任務報告書、……発生地帯:第一師管区レゴリス/第三都市ルスティカ。……該当変異体……討伐、完了?」


 胸中の疑団を拭い去るように、散乱する書類の一部に目を向けると、そこには意味深な報告書が転がっていた。磨き上げた黒曜石のように黒い硝子天板を持つ長方形をしたローテーブルと、毛足の長い檳榔子黒びんろうじぐろの絨毯。——それらの上に、まばらに散らばる書類を取り上げるべく、ベッドから立ち上がる訳ではない。ただ横着して、その場で視界に入る文字だけを拾い上げ声にしてみたが、中に記載された事件とやらに思い当たる節はなかった。


「今、何時なんだろう?」


 それにしても薄暗い部屋だ。元より家主が不在であるため、照明が全て消えていようが、カーテンが閉じていようが、当然と言えば当然なのだろうが。流石に室内のどこにも時刻を表示する機器が一切ないのは、不便極まりない。光源さえ差し込まぬ部屋の中で、時間の予測を付けるなど、無理に等しいことだ。

 依然として、僕は窓際に面したベッドの上に座り込んでいた。


 そんな中、ただ何となしに、優雅で古典的なダマスク柄のドレープカーテンのプリーツに右手を伸ばす。「静寂しか聞こえぬこんな一間でも、この厚い覆いを取り去れば更なる向こう側には見知った景色が広がっているのではないか?」なんて。もしかしたら、心のどこかでそんな淡い期待を抱いていたのかもしれない。

 真相を確かめるように。僕は気の向くまま、勢い良くくだんのカーテンを開放した。


 途端に窓から入り込む、目映いの光。照明の消えた薄暗い屋内で慣らされた視覚には、いささか毒が強過ぎたらしい。唐突に降り注ぐ燦爛さんらんたる黄金を遮るべく、僕は咄嗟に手をかざし、縮まる瞳孔を保護する。

 時間経過と共に、やがて視界は日差しに順応していく。瞼をゆっくりと開けた、瞳の前方に広がっていた光景は——。


「なん、だ……これ、は……?」


 辺り一面の、白。壁があるでもなく、ただ真っ白な地面が坦々と続いている。人や建物の影すらない、純白の日差しだけが駆け抜ける非現実的世界。

 こんな場所知らない。こんな場所見たこともない。ここに来て突然肥大化した異常性に、当然の如く呆気に取られてしまった。激しい旱魃かんばつ立所たちどころに口の中が乾き、埃混じりの空気を吸う度、膨大な不安感と微少な恐怖感が苦い感覚となって広がっていく。


 しょぱなから感じたただならぬ静けさを、【】と表現したのは、強ち間違いではなかったらしい。一体何のためにこの場所が存在しているのか、到底理解には及ばぬ。だが、徹底的な隔離を知らしめるよう取り囲む無色無音の世界は、文字通り隔離施設と呼ぶに相応しい。


 誰の思惑とも知れない展開に驚きを隠せない。しかしそれ以上に、己がそこに紛れ込むこと自体、嫌に作為的ですらあった。


 果てさて、一体ここはどこなのか。「皆目見当も付かぬ」という当初の認識を超え、事態はいよいよここが現実なのかどうか訝しむレベルにまで到達した。

 この状況が、夢とうつつのどちらであるか——この点に関する議論については、既に決着が付いている。故に、この場で定義する現実とは、【ここに至るまでに僕が生きてきた時間軸・地軸・世界軸】を意味する。

 つまりそれは、今現在直面している光景と、記憶上に残る景色を、それぞれ鑑みる必要性がある、ということだ。これらの比較検討から、時間遡行・空間移動・並行世界のたぐいを怪しまなければならない問題が提起される。

 最も最悪なパターンは異世界転移だろう。これが該当してしまった場合、僕が保有している知識や常識は皆役立たずとなり、圧倒的危機的状況に陥るのだから。様々な可能性を視野に入れれば入れるほど、疑心暗鬼にならざるを得なくなるのは、仕方ないことだろう。


 我ながら、馬鹿げた発想だとは思う。がしかし、これを「荒唐無稽」「くだらぬ問題だ」などと、一緒くたに否定し切るほどの確証もない。


 まずはこの隔離区域が現実的に存在し得るものなのか、探りを入れなくては。状況把握すらままならぬ危機から、脱しなくてはならない。

 可能なら、タイムリープ説やパラレルワールド説、そして異世界転移説を棄却し、迷子説を採択したいところではある。しかしそのためには、まず裏付けに相当する物的証拠を発見するしか、進む道はなさそうだ。


 手始めに、この私室から抜け出せないか試してみる。唯一屋外へと連絡する手段のありそうな扉へ向け、緩やかなペースで身を進めることにした。

 高めの床板と分厚いマットレスで嵩増しされたチェストベッドから足を下ろし、淡い樫木かしのきが敷き詰められた床へと立ち上がる。埃の溜まったヘリンボーンのフローリングを壁伝いにひたひたと歩く度、足跡が付着していく。真新しい雪原を駆ける時のような愉楽はなく、むしろ足の裏にまとわり付く砂っぽい塵芥ちりあくたに僅かな不快感を覚えた。

 そんな些末なことに、目を瞑る。そうしてしまえば、残るのは胸裏の大半を占める執念だけ。それは、現状を把握するために「あまねく証拠を掴みたい」という、ただ只管ひたすらの執念。


 純白の異界に囲まれた牢獄の中で、遂に扉の前に辿り着く。しかし、そこにあったのは、浸水・危険物質を含む空気の漏洩・外的攻撃などを跳ね除ける、重厚な金属でできた頑丈な扉。そして、絶対的隔絶を誓うそこに設計された錠が、僕の行く手を阻むように鉄扉てっぴを固く閉ざしていた。

 僕の手中に、それを開く鍵はまだない。それでも、「檻から抜け出したい」と。その一心で藻掻き続けるこの身体は、必死にハンドルを回して押し引きする。


 結局、堅牢に施錠された扉は微動だにせず、無機質な金属の冷たさだけが、指先を通じ心臓の熱を奪うだけだった。向こう側を夢見た奇跡は、泡沫うたかたに消えたのである。今の僕は、さながら白い鳥籠の中でただ虚しく羽ばたくことしか許されない、哀れな囚われの飼鳥のよう。


 やはりここから抜け出すためには、何かしらのキーアイテムを見付ける以外ないのだと。止むなく開かずの扉への執着を捨て、僕は背後に広がる箱庭へそっと視線を戻した。

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