杏の血脈のクオ・ヴァディス

七種 智弥

序章:混沌に帰す者

File 01〈昼中に堕つ白烏〉

01 «覚醒»

 訳が分からない出来事とは、存外唐突に訪れるものだな、と。

 冷静な思考が働く一方で、僕は現実逃避宜しくぼうっと辺りを見渡していた。


 整然と並ぶは、レザーカウチソファ、ローテーブル、ブックシェルフ。そして、今し方自身が寝そべっていたチェストベッド。

 室内に配置されたどれもが、高品質の素材であつらえられた一級品の家具だ。黒一色で統一された数々の調度品は、至る箇所に銀色のアクセントを際立たせている。


 シックな雰囲気が漂う様は、どことなく見覚えがあった。まるで家具屋の広告誌に掲載された写真のように、美しく洗練されている。

 妙な扇状を模した間取りに対してさえも、何故だか疑問は浮かばなかった。「この造りすらも洒落たデザインの一環なのだろう」と。適当な理由が、問を上塗りしたからである。


 朝露をまとった清涼感ある柑橘の息吹が、鼻孔を擽る。やや苦味のある上品で瑞々しい香りから推察するに、グレープフルーツとベルガモットとオレンジ辺り……だろうか。根源を求めて視線を泳がせると、円熟した薫煙を嫋々じょうじょう揺曳ようえいさせる筒状の黒い芳香器が、ベッドのヘッドボードに鎮座しているのを見付けた。

 自室のそれと比較して、爽やかさに充満された部屋の中で。夜の帳を映した湖面のように、滑らかで冷たい絹製のシーツに指先を滑らせながら、僕はただ薄ぼんやりとしていた。薄ぼんやりしつつ、色々考えてしまう程度には、理想的な空間。そんな光景が、今正しく眼前に広がっている。


「……どこだ、ここは?」


 垢抜けたモダンインテリアに囲まれて、僕はただ一人佇んでいた。そしてそれと同時に、つい三十分ほど前にぽつりと零した目覚めの第一声が、これである。

 寝起き早々、御頭おつむの調子でも心配されそうな発言に違いない。しかしその言葉は、誰の鼓膜も震わせることはなく、孤独の静寂しじまに溶けて消えた。


 一見、周囲から白眼視されても無理のない言動を取っている——この事実については我ながら重々承知している。しかし、状況的に見て仕方ないことでもあった。こんな面妖な言葉が前触れもなく口をついて出てしまうのも、仕方のないことだったのである。


 何せ僕は、この大部屋の住人でも、招かれた客人でもない。むしろ、現状に至った経緯いきさつを知らずして、起床直後ここに迷い込んでいたのだから——。


 秒針の音はおろか、小鳥のさえずりや車両の走行音さえ届かぬ閑散とした空間。固唾を飲めば、ごくりと喉の奥から発せられる音色が耳朶を打った。

 あまりの静けさは、さながら人気のない片田舎に建てられた図書館を彷彿とさせる。そしてそれは、喧騒に溢れた都会に生きる身と、兎角無縁の世界だった。


 大仰な物言い故、「無縁と一蹴するには、少しく大袈裟では?」と洗礼を受けてしまうかもしれない。しかし、所縁ゆかりがないのは事実なのである。

 自他共に認める無類の本好き——それこそが僕だった。そんな己が哲学書の頁を捲る時ですら、傍らでは常に兄なり妹なりの家族が賑やかにしていた。だからこそ、異様なまでに静かな空間とは、実質無縁なのだ。

 それを抜きにしたとて、やはり無縁だと言わざるを得ない。何しろ自宅近隣が観光地だという理由で、窓の外はいつも人々の行き交う雑踏の音がしていたのだから。彼ら兄妹が不在だったとしても、こんな状態で静けさを嗜むなどできるはずもあるまい。


 果たして、その個人的理由も要因の一つとして含まれるのだろうか。人が住むのに至極適切な形をしていながら、図書館よりもしんとした部屋の、底気味悪いこと。度を越えた人為的沈黙が支配する場とは、どうにも居心地が良くないものらしい。

 せきとした中、唯一身動みじろぐ己から生じる衣擦れの音だけが、緩やかに波及していく。身にまとう衣服は、何の変哲もないいつもの気慣れたカットソーとデニム。だと言うのに、その摩擦音は、社会から隔絶されたように不気味に静まり返るこの一帯において、己以外の者が存在しないことを殊更ことさら誇張した。


 朝陽が窓を叩く刻限にも拘らず、全ての光を遮蔽するダマスク柄の分厚い窓帷そうい。扇子を象る部屋の隅に立ち塞がる、外界との接触を一切遮断した鈍重な扉。それらが、この世に存在するあらゆる音色を徹底的に拒絶し、僕の存在を際立たせる孤独な檻として機能する。


「夢、じゃないんだもんなあ」


 頬を抓る——夢の仮説検証においてありがちな行為は既に実践済みだ。

 痛覚の有無をもって夢かうつつか判断を下す、これほど簡易な方法はない。当然、こんな方法で信頼性の高い証左が得られるとは言い難い。が、他に検証の手立てがない以上、そこに頼らざるを得ないのもまた事実。ただ、判断基準の一例として試す価値は十分にあったと言えよう。


 そして結論から言うと、脳はれっきとした痛覚を訴えた訳だ。これにより、今遭遇している事象と実際の出来事をイコールで結び付ける——何とも短絡的結論が導かれた。

 だが、その性急過ぎる論結にも、妥当性は確かにあった。基本夢から目覚めた時、人間は初めてそれが夢だと主観的に認識できる。従って、夢の中で現在起きていることが夢かどうか判別しようと事実を掘り下げる行為は、ある意味で全く能がない。これは明晰夢だと認識できぬまま夢から覚めぬのであれば、現実と判断し行動する方が最も実用的だろう。安直な判定ジャッジが妥当と言える所以ゆえんはここにあった。

 が、しかし——。


「だったら何なんだ、この状況は」


 つまりそれは、今目の当たりにしている未知を現実として受容したということ。藪から棒に展開された非日常を、有り得ないと峻拒しゅんきょするだけの術を失くした——ということに他ならない。


 眼前に横たわる、幽玄で縹渺ひょうびょうとした見慣れない異景は、確かに白昼夢のようだった。象篏ぞうがん細工の緻密な意匠が施された濡羽色ぬればいろの家具には、その縁をなぞるように薄鈍うすにびの装飾が走り、珠玉をちりばめた瀟洒しょうしゃな趣が室内全土に行き渡る。いつもより断然寝心地の良い豪奢な天鵞絨ビロードの寝床は、一度身を預ければ重力から解放され水底へ沈むように浮遊する。嗅ぎ慣れない清々しい柑橘の芳香も、覚醒の残滓を拭い去り微睡まどろみへといざなう。

 だが、全ては現実なのだと、夢見心地の大脳を叩き起こす。すると夢幻と真実の境界は融解され、部屋の存在の事実と、僕が実際部屋に居る事実が、烙印として現身うつしみに刻まれた。


 幼少期から好んでいた読書で培った自慢の推察力も予測力も、今回ばかりは流石に及ぶべくもない。混乱すら免れない局面に乾いた笑いすら出てしまうほど、このイレギュラーには完全なお手上げだった。


 せめて、起きる前の記憶でもあったら良かったんだけど……と内心独りちる。れど、毛ほども覚えていないものに思いを馳せても仕方がない。

 選択の余地もなく、役に立たぬ空想に見切りを付け、僕は次に必要となる思考に着手し始めた。


 現場の位置特定や事態の前後関係について、一応五分程度の黙考はしてみた。だが、抑々そもそも現地ここに行き着いた過程そのものに繋がる記憶】が綺麗さっぱり抜け落ちている。——所謂いわゆる詰みに、ほどなくしてち当たる。

 初手から詰みとは、甚だ可笑しな話ではある。しかし、答えを導くことが到底敵わぬと察するまで、そう多くの時間は掛からなかった。


 その後の流れは、ただ性懲りもなく只管ひたすら解のない堂々巡りで悩み尽くした、というもの。結果的に、こうして休憩がてら虚空を眺めることに及んだ訳である。

 表面的に見れば現実逃避にも見える小休止の中。訳が分からない出来事とは、存外唐突に訪れるものだなと。胸の内でそう苦笑しながら——。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る