杏の血脈のクオ・ヴァディス
七種 智弥
序章:混沌に帰す者
File 01〈昼中に堕つ白烏〉
01 «覚醒»
訳が分からない出来事とは、存外唐突に訪れるものだな、と。
冷静な思考が働く一方で、僕は現実逃避宜しくぼうっと辺りを見渡していた。
整然と並ぶは、レザーカウチソファ、ローテーブル、ブックシェルフ。そして、今し方自身が寝そべっていたチェストベッド。
室内に配置されたどれもが、高品質の素材で
シックな雰囲気が漂う様は、どことなく見覚えがあった。まるで家具屋の広告誌に掲載された写真のように、美しく洗練されている。
妙な扇状を模した間取りに対してさえも、何故だか疑問は浮かばなかった。「この造りすらも洒落たデザインの一環なのだろう」と。適当な理由が、問を上塗りしたからである。
朝露を
自室のそれと比較して、爽やかさに充満された部屋の中で。夜の帳を映した湖面のように、滑らかで冷たい絹製のシーツに指先を滑らせながら、僕はただ薄ぼんやりとしていた。薄ぼんやりしつつ、色々考えてしまう程度には、理想的な空間。そんな光景が、今正しく眼前に広がっている。
「……どこだ、ここは?」
垢抜けたモダンインテリアに囲まれて、僕はただ一人佇んでいた。そしてそれと同時に、つい三十分ほど前にぽつりと零した目覚めの第一声が、これである。
寝起き早々、
一見、周囲から白眼視されても無理のない言動を取っている——この事実については我ながら重々承知している。しかし、状況的に見て仕方ないことでもあった。こんな面妖な言葉が前触れもなく口をついて出てしまうのも、仕方のないことだったのである。
何せ僕は、この大部屋の住人でも、招かれた客人でもない。
秒針の音は
あまりの静けさは、
大仰な物言い故、「無縁と一蹴するには、少しく大袈裟では?」と洗礼を受けてしまうかもしれない。しかし、
自他共に認める無類の本好き——それこそが僕だった。そんな己が哲学書の頁を捲る時ですら、傍らでは常に兄なり妹なりの家族が賑やかにしていた。だからこそ、異様なまでに静かな空間とは、実質無縁なのだ。
それを抜きにしたとて、やはり無縁だと言わざるを得ない。何しろ自宅近隣が観光地だという理由で、窓の外はいつも人々の行き交う雑踏の音がしていたのだから。彼ら兄妹が不在だったとしても、こんな状態で静けさを嗜むなどできるはずもあるまい。
果たして、その個人的理由も要因の一つとして含まれるのだろうか。人が住むのに至極適切な形をしていながら、図書館よりもしんとした部屋の、底気味悪いこと。度を越えた人為的沈黙が支配する場とは、どうにも居心地が良くないものらしい。
朝陽が窓を叩く刻限にも拘らず、全ての光を遮蔽するダマスク柄の分厚い
「夢、じゃないんだもんなあ」
頬を抓る——夢の仮説検証においてありがちな行為は既に実践済みだ。
痛覚の有無を
そして結論から言うと、脳は
だが、その性急過ぎる論結にも、妥当性は確かにあった。基本夢から目覚めた時、人間は初めてそれが夢だと主観的に認識できる。従って、夢の中で現在起きていることが夢かどうか判別しようと事実を掘り下げる行為は、ある意味で全く能がない。これは明晰夢だと認識できぬまま夢から覚めぬのであれば、現実と判断し行動する方が最も実用的だろう。安直な
が、しかし——。
「だったら何なんだ、この状況は」
つまりそれは、今目の当たりにしている未知を現実として受容したということ。藪から棒に展開された非日常を、有り得ないと
眼前に横たわる、幽玄で
だが、全ては現実なのだと、夢見心地の大脳を叩き起こす。すると夢幻と真実の境界は融解され、部屋の存在の事実と、僕が実際部屋に居る事実が、烙印として
幼少期から好んでいた読書で培った自慢の推察力も予測力も、今回ばかりは流石に及ぶべくもない。混乱すら免れない局面に乾いた笑いすら出てしまうほど、このイレギュラーには完全なお手上げだった。
せめて、起きる前の記憶でもあったら良かったんだけど……と内心独り
選択の余地もなく、役に立たぬ空想に見切りを付け、僕は次に必要となる思考に着手し始めた。
現場の位置特定や事態の前後関係について、一応五分程度の黙考はしてみた。だが、
初手から詰みとは、甚だ可笑しな話ではある。しかし、答えを導くことが到底敵わぬと察するまで、そう多くの時間は掛からなかった。
その後の流れは、ただ性懲りもなく
表面的に見れば現実逃避にも見える小休止の中。訳が分からない出来事とは、存外唐突に訪れるものだなと。胸の内でそう苦笑しながら——。
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