想う随に

色葉

 

 窓の外では、白い雪が降っている。

 眼下に流れる渓流と、それを挟んで向かい側に建つ荒れはてた旅館の廃墟。何もかもがあのころのまま。風景自身雪に閉ざされ、凍りついたかのように、変わっていなかった。

 ここへ来るのは、今回で二度目だ。季節はどちらも冬。変わらないように感じるのは、きっとそのせいなのだろう。

 試みに、以前来たときと同じく窓を開け、少し身を乗り出してみる。吹き込んでくる風は刺すように寒い。けれど構わず、私は右手を雪に晒した。掌へ降りるその結晶は、触れたと思えばすぐ、幻のように融け去ってしまう。次の結晶も、その次の結晶も、そのまた次のも。

 不毛だ。いくら美しかろうと、触れてすぐ消えてしまうものにかかずらっているなんて、とても不毛なことだ。

 噛み締めるように頭を振って掌を内へと引き戻す。

 風の寒さに耐えかねて、窓を閉めようと立ち上がると、ふと赤い勾欄の橋が目に入った。

 今はもう、そこから手を振る彼女はいない。結局、私は一人なのだ。いくらここが変わっていないように見えても、あのときと同じことをしてみても、過ぎ去った時が元に戻ろうはずもない。私だけが、過去の一時にしがみついて、変化を拒み、自分だけの優しい時間という幻想へ引き籠っていようとした。そのつけを払うときが今、来ようとしている。それだけのことなのだ。

 私には、思い人がいた。

 張り詰めた弓のような人だった。きりきりと、軋む音の聞こえそうな危うさを持つその人を、私は見守っていたかった。

 けれど、彼女は私を置いて行ってしまった。

 からからと、音を立てながら窓を閉める。

 墨を流したかのような空の斑は、雲の海を水母みたいに揺蕩うて。出来ることならばその群れに紛れ、どこまでも遠くへ、窮まることなく逃れて行きたかった。

 消えたかったのだ。誰も、私を知らない場所へ。どこか、通りすがりの稀人でいられるところへ。

 だというのに私は、結局、こんなところで過ぎ去った日々にすがりながら、掴み損ねた風船を眺めて泣き拗ねる子供のような、感傷へ浸っている。所詮どう悲劇的にいい繕ったところで、私に姿をくらまし新天地へ逃れるほどの度胸もなく、だから不幸な自分を演出して、それに酔っていたいだけなのかもしれない。私は無様で、最低だった。

 一つ溜め息を吐く。そうだ、つまり私はその程度の人間なのだ。

 ならばもう少しだけ。思い出という薬に酔わせてもらおうと席を立ち、宿を出で、降りしきる雪の中、川沿いの小道へと向かった。

 あのころの彼女とともに歩んだその道は、雪で覆われ、足跡の一つも見られなかった。さほど広くもない上この天気ならば、なるほど、誰も通りそうにない。

 ぎしぎしと、音を立てて雪を踏みしめる。あのときもこうして二人、無言で足を進めていた。そんなことに気付いて、ふと自嘲的な笑いがこみ上げてくる。

 そばにいようと、どれだけ言葉を交わそうと、私たちはずっと、そうだったのだ。

 上っ面を撫でるような会話で、理解しあっていると、思い込んでいたのだ。

 理解しあえない、上辺だけの交感を交わして、その場限りの安心を得るなんてことは、何も話さないでいるのとどう違おうか。

 降り積もった雪が地面を覆うように、万の言の葉で脆く弱い二人の関係を隠してみようと、時間が経てば、白日の下に晒される。きっと分かっていて、見ないようにしていた。少なくとも、私は。

 上流にさかのぼる道は軽い傾斜になっていて、振り向くと、下手には旅館の棟々が軒を連ねていた。

 一人分の足跡が、私の元まで続いている。今は、言葉が絶えただけでなく、彼女の姿も傍らにはない。

 彼女は、自殺を図った。

 私は彼女の苦悩を受け止めきることが出来ず、また彼女も多くを語ろうとはしなかった。きっと、私には聞くべき資格がなかったのだと思う。だから、彼女は語らなかったのだ。私のようなくだらない人間に話しても、どうしようも出来ないと見透かしていたのだろう。

 私にはともに生きてほしいと伝える機会も、でなければともに死にたいと願い出る機会すらないまま、彼女はその行為に至った。私は、置いて行かれてしまった。

 道はうねり、川を渡す橋の袂まで歩んできた。

 無骨な石橋も雪に白く染め抜かれ、多少なりとも優しげな装いを見せている。私は欄干へ手をつき、下流を見渡した。遠くに、宿をとっている温泉街が眺められた。

 遠い風景は、得てして孤独感を煽るものだけれど、この寂しさは、決してそのためだけではないはずだ。

 彼女はたった一度だけ、私に心中を吐露したことがある。この橋の上でのことだった。

 もちろんそれは、酷く断片的で、わけも分からぬうちになされたのだったから、それで彼女を理解したといえるものでもなかったし、また、彼女も意図して、私を頼って打ち明けてくれたのでもなかったのだろう。けれど、思い返せばあの頃から、いや、ともすればもっと昔から、彼女の脳裏には、自殺という手段が燻り続けていたのではないだろうか。漠然とだけれど、そんな風に感じられる。

 呆けながら考えていると、だんだんと疲れがこみ上げてきた。雪の登り坂を歩いていたからだろう。行儀はあまりよろしくないが、少し地べたに腰を下ろさせてもらう。冷たい雪の感触がこそばゆい。

 結局のところ、彼女の自殺は未遂に終わった。加えて、彼女は以前よりも明るくなり、張り詰めた危うさも、見違えるように和らいでいった。

だというのに、か。いや、だからこそ、というべきか。私は、割り切れぬ感情を持て余しながら、ともにいられたと想うことの出来た在りし日に、心を遊ばせるしか方法がなかったのだろう。

 私には彼女の苦悩をともに背負う資格はなかった。彼女の傍らにある資格はなかった。彼女に、必要とされていなかった。頭でも、心でも、どうしようもないほどに理解し切れているそのことが、なんとしても許せなかったのだ。だから私は、目をそらした。けれどそれも、もう限界。

 背中を倒して、雪の上に仰向けになる。空には一面の雲。その彼方から舞い落ちてくる淡い白雪は、次々と肌に触れ、ひやりとした感触だけを残して頬を伝って行った。

 私は身勝手だ。

 一人で勘違いして、分かり合えている、なんて思い込んで、その夢から覚まされたかと思えば、裏切られたとすら感じている。最低で、屑で、どうしようもない。

 やめだ。もうやめよう。

 こんな風に気取っていても、仕方がない。それこそ上っ面だけで自虐を重ねてみても、奥底では自分自身を正当化し続けている。だからこそ私は、どうしようもないのだ。最低であり続けるしかないのだ。ならばもう、やめだ。屑なら屑らしく、無様に、糞のような言葉を吐き散らして終わろう。

 私は彼女が好きだった。その危うさの理由を一緒に背負っていきたかった。でも彼女は一人で死を選ぼうとした。許せなかった。情けなかった。ともに行こうとしてくれなかった彼女を恨んだ。ともに行く資格を得られなかった自分を憎んだ。

 そして彼女は立ち直り、何らかの答えを得たのだろう。けれどやはり私は部外者だった。辛かった。置いていかれたと、手前勝手な恨み言を心の中で燻らせ続けた。彼女のことを思えば喜ぶべきことだったのに、うじうじと拗ねることしか出来なかった。無様だった。

 今、私は彼女との思い出を振り返りながら、こんな場所まで来て女々しくぐずっている。結局、なんてことはない。大層なことをいったって、美しいように語ってみたって、ただ構ってほしくて母親にすがる幼子と、私のなにが違おうか。私は、子供だ。大きな童だ。何遍好きだと唱えたところで、相手のことなど考える余裕すらなく、自分の気持ちだけを大事に、大切に守ろうとしている私の言葉をなど、誰が信用すると言うのだ。

 もう、私は、疲れてしまった。肯定と否定を繰り返すばかりで、一歩たりとも前に踏み出せぬ、意気地なしの自分にほとほと愛想が尽きてしまった。

 だから終わろう。もう休もう。後は瞼を閉じるだけだ。

 これで、開放されるのだ。

 舞台の幕が下りるように、だんだんと空が狭まって行き、ついに、私はその目を閉じた。

 随想は、ここで途切れてしまった。

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想う随に 色葉 @suzumarubase

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