第七話 薄氷の轍 後編

 原君と池田さん、そして木下さんは、通りの向こうの端から断末魔にも似たような叫び声を上げながら、こちらへと迫って来た。凶悪犯を取り逃がした刑事か、それとも、終電ギリギリの飲み会帰りか。はたまた、本当に猪の大群にでも追われているのか。師走の静寂を打ち破り、あれよあれよという間にこちらを捕えると、息も絶え絶えにその場へと倒れ込んだ。

 膝を着き、顔面を蒼白し、大きく肩を揺らすその姿はまさしく、間一髪、命からがら追ってを振り切った登山客のようであった。風を切り、草木を掻き分け、死に物狂いでここまで何をしに来たのか。その顔を見れば、言うまでもなかった。

 ユキエさんの落とした「いかづち」は、彼らをここまで走らせた。自分は見届けた。しかと、見届けた。三人は、呼吸を惜しんで謝罪を口にした。


「だせぇ奴は、自分たちの方だったっすっ」


 見境の無い猿のように騒ぎ立て、せせら笑っていた原君のその毒はもう完全に抜け切っていた。迷える子羊となった池田さんと木下さん。彼女らも、真っ直ぐこちらを見つめると深く頷いていた。


「そんなことないよ」

 ユキエさんは迷わず言った。


「誰にだって、だせぇ、自分がいる。でも、貴方たちはこうして駆け付けてくれたじゃない?だから、ここに、だせぇ奴なんか、一人もいない。だせぇ奴は死んだの」


 皆の視線が注がれる。ロータリーの街灯が一際強く、ユキエさんを包んだ。


「ありがとう、来てくれて。本当にありがとう。何て言ったら良いか……よかった、本当によかった、本当にありがとう」


「ねっ?セキヤくん」


 純心さを取り戻した彼らを今更、憎む気になどなれなかった。虐げられていたことなど忘れた。もはやもう、そんなこと問題ではない。師走を切り裂く全力疾走。今はただ、彼らを称えたい気持ちで溢れていた。

 おもむろに三人に手を添えた。そうして立ち上がらせると、自分は意を決して言葉を振り絞った。


「ごっ、ごご、ごご、ごっ、ごっはっ、んー、でもっ、たたっ、たっ、たっ、食べっ、にっ、にっ、にっ……」


「行きっ、まっせんっかぁ!!」 


なにかの告白だろうか。脈絡も順序もまるで無視した物言いだったけれども、胸を衝いて出たのはそんな言葉だった。

 これでようやく、正真正銘、同じ釜の飯を食える仲間になれたような気がする。今更、馬鹿みたいに自分はそんなことを思った。


「おっ、おれっ、奢るっす!」

 原君が答えた。


「なに、一人でカッコつけてんのよっ。二人の分は私にお任せください。何でも好きなもの食べて下さいね」


「なっ、ぬーっ」


 池田さんも。


「いやっ、えっと、えっと、私が、ここは私が、皆さんの分、全額、お支払いします!」


「なっ、なぬーっ」「なっ、なぬーっ」


 木下さん。


「ふふふっ、決まりだね」 


 再び、車座が形成されようとしていた。自分はそこに居てもいい。その輪は小さくて、温かくて、そして、思いやりに満ちたものだった。


 申し出を断る者は、誰もいなかった。



 「いかづち」に導かれし者たち。なんかドラクエっぽい。

 パーティー、一行は国道沿いのファミリーレストランへと移動した。そうしてようやく、そこで、自分はひと息つけることとなった。安寧が訪れる。ひと息ついでに、ふと、メンバーをドラクエに例えてみた。ユキエさんはもちろん勇者だろう。原君と池田さんはわかりやすかった。戦士に武道家だ。木下さんは、うん、賢者だろう。自分は、自分はなんだろうか。うむうむ、うむうむ、スライムだろうか。考えた末は最弱のモンスターであった。しかも敵である。しかし、そんな青い塊にも生きる道は存在した。今や時が経てばドラクエも、魔物を仲間に迎え入れる時代となった。まだ、やり直せる。例外なんてない。今日、これからを大切に生きよう。

 砂糖、クリーム増しホットコーヒーの一口目が五臓六腑に沁み渡った。


 原君はどこへ行っても猿山の猿のように、キャッキャキャッキャと、なにかしらを前に飛び跳ねている。会場では田中さんと自分の間で、そして、今度は池田さんと皿に残り少ないポテトフライの奪い合いを始めていた。よほど独り占めが過ぎるようだ。バナナならぬ、ポテト争奪戦。食い意地の汚い小学生のようなその姿に耐えきれず、思わず吹いてしまう。


「セキヤさぁん、ちょっ、笑ってる場合じゃないっすよっ、ちょっ、ちょ、あぁ、俺のフライドポテトぉぉ」


「あんたのじゃないでしょっ、このっポテトバカっ、いやっ、原ポテトっ、ばかポテトっっ」


「なっ、なにー、バカポテトは、おまえの方だろー、このっ、バカポめっ」


「うるさい、原ポテト、お前なんか、原ポ、で充分だ、このっ」


「イタタタっ、ちょ、何すんだ、ちょっ、フジタさぁん、ヘルプっすっ、ヘルプ、ミーっ」


「ふふふっ、おかわりしたら?」


「はい、そうします」「はい、そうします」


 遠慮がなくて、温かい。いただきものの饅頭を巡ってやり合う、カツオとサザエのような二人に、気づけば自分は、どこか羨ましさを寄せていた。そのようにやり合えるような相手が自分にはいなかった。バカポテト改め、原ポ、そして、池ポ。なんてチャーミングな響きなんだろうか。少々、程度が悪いのが、また良い。日曜の夕方を彷彿とさせるようなこの時間がいつまでも続いてくれたら良かった。

 目の前に礒野家の食卓が再現されていた。スライドカメラ式に「ドラクエ」から「サザエさん」へと情景が切り変わる。ユキエさんはフネで、木下さんはワカメで、自分は、自分は、うーむ、また何も思い浮かばない。ふと、角度を変えてみて、今度はドラクエにサザエさんを足して割ってみる。もはや意味がわからない。それでも思いを巡らせてみる。うーん、全くなんにも出てこない。自分、何をやっているんだろう。ふと、そんなくだらないことに頭を悩ませる、素の自分に可笑しくなった。馬鹿げた遊び心を寄せるほどまた、自分は浮かれているのかもしれない。もう何かしらに例えるのは止そう。そう思って、なぜか、また笑えた。


 ドリンクバーを利用するのなんて大学生のとき以来だった。ほぼ貸切状態。皆で連れ立って並ぶと、自分はまるで、アトラクションを待つ学生グループの一員のように、その最後尾で一人、胸を躍らせていた。飲み放題に喋りたい放題、居座り続けたい放題。様々な「放題」が並ぶ。今の自分に、その「放題」は特別、意味のあるものだった。


 原君はコーラ。ずっとそれ一択だ。池田さんはジンジャーエール。ユキエさんは珈琲のブラック、大人味。彼女には黒がよく似合った。エスプレッソマシンの蒸気圧が唸りをあげる。

 木下さんはハーブティーのコーナーの前へと立っていた。

 深緑に赤茶に椿色、秋の紅葉の鮮やかな移り変わりを思わせるような色とりどりの瓶詰めを前にして、中江有里なかえゆりによく似た木下さんの横顔が、ふっ、と緩んでいた。

 木下さん、こういうのが好きなんだ。普段、嗅いだことのないエキゾチックな香りがほのかに鼻先を掠めた。ハーブティーなんて洒落たもの、自分はまったくの無知であった。意味もわからず気恥ずかしい気持ちになり、こっそり横目で彼女を見やった。小鳥のさえずる庭園で優雅に茶を啜る木下さんがそこには居た。よい。実にいい。敵意を向けるその印象しか目に入らなかったけれど、本来の彼女の姿が、そこには在った。

 木下さんには、正直、申し訳なさを抱えていた。

 彼女にだけ限って言えば、自分はむしろ逆に謝るべき立場の方の人間だった。自分と言い、田中さんと言い、まったくもって貧乏くじそのものを引かせてしまった。「場を汚さないで欲しい」その言葉を思い出して、胸が痛んだ。木下さんは、どんな心境で、あの会場を離れたのだろうか。もしかしたら、自分は彼女の時間を奪ってしまったのかもしれない。そう思うと、更に胸が締め付けられた。

 そんなふうに考えているときだった。不意に横から声が飛んできた。


「セキヤさんもハーブティー好きなんですか」


「えっ?あっ、いっ、いっ、はっ、ははっ、いっ、はっ、はっい……」


 思わず、言ってしまった。


「それじゃあ、一緒に選びましょう」


「……はっ……はい」


 その優しい垂れ目で微笑まれると、飲んだこともないですとは言えなかった。

 安価なファミレスのドリンクバーで、木下さんは、ハーブティーたるものの淹れ方を自分に指南してくれた。曰く、コツがあるらしく、「二回に分けると味に深みが出るの」と、彼女は丁寧に自分の分までそうしてくれた。

 生まれて初めて、カモミールティーというものを飲んだ。なんと言うか、とても崇高な味がした。ハーブティーも碌に知らない、新種のウーロン茶くらいにしか思ってなかった自分に、その味も、カップにすっと注ぎ入れてもらう瞬間も、そうして感想を尋ねられるのも、何もかもが貴かった。

 木下さん、ごめんなさい。心の中でそっと、自分は彼女に謝った。


 フライドポテトにカモミールティー。心の胃袋が満たされてゆく。隣り合って、向かい合って、テーブルを囲んで笑い合う。たったそれだけで、人生のアルバムを差し替えるかのように、自分の心が再生されてゆくのがわかった。なんの変哲もない、そんな一秒一秒が、新鮮で堪らなく愛おしかった。各々、列車やバスの時間があるだろうから、そんなに長居はできないだろうけれど、できる限りこの時間が続いて欲しい。祈りにも似た思いだった。

 喋れないことがこんな方向に転がるなんて、思いもつかなかった。自分の無力さを棚に上げて言うのもなんだけれども、却って、こうなってよかったのかもしれない。順風でなかったけれど、決して遠回りではなかった。自分は今、深く、人と関わっている。他人から見ればそれは、たかがファミレスの「ひととき」なのかもしれない。けれども自分には、そのたったのひとときが全てだった。百とき、いや、千とき、いいや、億とき、と思えるものだった。自分史に残る「ひととき」であった。


 こんなとき、思い通りに喋れたらどんなに幸せだろうか。素っ裸で極寒の夜の街を駆け抜けたって構わない。二杯目のハーブティーに口をつけながら自分はそんなことを思っていた。意気揚々と薄氷の轍を語り告げる自分を想像してみる。

「タスクとキョウコが燃やした日々は美しかった」

 そして賞賛へ。

 わるくない、実にわるくない。


 でも、もうよかった。もう、じゅうぶん自分は贅沢をさせて貰った。胸がじんわりと温まるような、この今の気持ちを持って帰れれば、自分はそれでよかった。ここでなら言える。人類みな兄弟。


 テーブルでは、再び、「キョウコ、ロス」が盛大に立ち上っていた。

 本来の趣旨であり、その熱を取り戻したユキエさんたち。その顔は、また、一段と生き生きとしている。その、伝えたさに逸る気持ちも、息づかいも、八階、特別催事展示場のものとなんら変わりはなかった。一人、ドリンクバーに立っていた自分はその光景に喜びを隠せず、心から拍手を送った。そして、人知れず嬉しい気持ちで席へと戻った。


 ドラクエとサザエさんが融合する、改め、「いかづち一家」の愉快な宴であった。そんな貴い時間もいよいよ終宴を迎えようとしている。そうして、頭の中に蛍の光が流れ出そうかとする瞬間だった。


 クライマックスは訪れた。


 "感想の続きを聞かせて欲しい"


 木下さんに、そう告げられた。 

 原君も、木下さんも、激しく頷いていた。


 この期に及んで、今更、厭がらせをするような人間ではなかった。罪滅ぼしだとしても、それは彼らなりの優しさだと思った。ここにきて、二たび、自分にチャンスが与えられようとしていた。けれど、自分はその申し出を断ろうと思った。

 伝えたい気持ちは岩をも動かす。けれど、その気遣いの上に立つ自分は、時間を割けば割くほどそうしたところで、やはりどうしたって、みじめな存在なのだ。大切な時間をもっと有意義に使って欲しい。それこそ、ユキエさんが喋った方が何よりこの場のためだった。水を差したくない。もうこれ以上、場をさらう、なまはげのような人間に自分はなりたくなかった。


「じ、じ、じっじっ、じじ、自分は……」

 そうして、首を振ろうとしたときだった。

 木下さんは言った。


「あのとき、会場でフジタさんに言われて思ったんです。きっとセキヤさんは誰よりも一生懸命、生きてきたんじゃないかって……」


「だから……」


「だから、タスクとキョウコは、"燃やした"んですよね、人生を」  


「あなたの気持ちを聞かせてください」


 思いもよらなかった。


「そのままでいい」

 そう言われた気がした。


 ユキエさんがこちらにそっと水を差し出す。そして、ゆっくりと頷いた。その顔を見れば何を言いたいのかは、言うまでもなかった。一気に飲み干した。

 もう、笑われたっていい。馬鹿にされたっていい。

 この人たちの前だったら、自分は。


 醜くてもいい。

 そう、思った。


「タタッ、タッ、タスッ、タスッ、タスクッ、クッ、クッ、ククッ、とキョキョキョコのぉ」


 大丈夫。


「タッ、タスッ、タッ、タスクと、と、キョコッ、キョキョ、キョッ、キョウコの……の」


 大丈夫、自分はやれる。


「二人で燃やした人生を、僕は信じたかった」


 あふれる気持ちが、言葉となった。


 苦しみの渦の中で踠き続けてきたけれど、その苦しみは罪ではなかった。自分が思うより、もっと、もっと、もっと、肯定的な側面だってあったんだ。認めてくれる人たちがいた。

 自分が吃音者であること。それ以前に心の弱い人間であること。そんな自分を変えたくて、今日ここまでやってきたこと。そして、変われなかったこと。それらが、今ここに、一本の道として繋がった。


 苦しみを火種に費やし、生きてきた自分だからこそ、信じられるものがあった。たかが、本一冊の感想。されど、二人と同じ延長線上に立つ自分だからこそしか伝えられないことがあった。時間にして僅か数分間、一生懸命、自分は言葉を口にした。


 そして、その口は。


 痺れなかった。



 誰しもが、平等に、自分はこうありたいと望むままに生きることのできる世界など、この世には用意されてはいない。「生きる」ということはとても残酷で、きれいごとだけで押し通れるほど、甘くはない。抗えず、辿り着く答えだってある。けれどその先に、もし、その痛みを誰かに預けることができたのならば、そこには一生分の生きた意味があるのかもしれない。その瞬間には、言葉では言い尽くせないほどの価値があるのかもしれない。不遇とか不運とか、そんなことはもう問題ではないのかもしれない。


 タスクとキョウコ。二人のその結末は哀しいものだった。酷く切なさを残した。

 でも二人は、その無節操で無骨で危う気な生き方を互いに胸を張って貫いた。それは仄暗い底のような世界で、常に死を予感しながら、憎み、苦しみ抜いた末の生き方だった。それはもしかしたら、死を前にするよりも余程、困難な生き方だったのかもしれない。

「生き憎さ」も「生き辛さ」も、言葉にするには簡単なその文字の意味を誰よりも知る二人が選んだ、その「生き方」を、どうか自分は肯定してあげたい。火花を散らすかのようなその生き方を見習いたい。

 きれいごとだけでは語り尽くせない、その決断を、どうか自分は信じたい。


 途端にテーブルへと突っ伏した。

喋ることに集中し過ぎていて、ところどころで息継ぎするのを忘れてしまっていた。窒息に悶えていると、一つ、また二つと耳に小さな拍手が起こった。そうして瞬く間にそれは、大きな響きとなって店内にあふれた。


「うそでしょ……すごい」

「セキヤさん……どういうことっすか……」


 はっ、と顔を上げた先の原君と池田さんは、互いに顔を見合わせ仰天していた。初めてライザップのCMを見たときのような興奮ぶりを見せる二人は、赤面する自分を前に、やんややんやと騒ぎ立てていた。

 木下さんは最後まで拍手を止めなかった。

「戻って来て、よかった」その一言に、自分は天を仰ぎ、ぎゅっ、と唇を噛み締めた。


「セキヤ君、泣いたっていいんだよ」


「な……泣きません」 


「良かったね」


 ぶんぶん。言葉にならなかった。


 上手く喋れるようになりたい。

 幼少の頃からずっと胸に切実に思っていた。自分は人とは違う。人より劣る。だから醜い。そんな自分が嫌で嫌で仕方がなかった。コンプレックスを抱え、抗い、苦悩し、そうしてこれまでを歩んできた。苦しまない方法を探り、迷ってばかりの人生だったけれども、ちゃんと出口はあった。自分自身を受け入れたとき、山は崩れ、そして、道は拓けた。

 もう、何も恐れる必要なんてない。他者も、そして、自分自身にも。


 変わらなくていい。

 それが進むべき道だった。



 程なくして、宴はお開きとなった。

 会計を巡って伝票の奪い合いとなったが、最後は、半ば強引に自分が鷲掴みにした。財布の中身、全部使ったって構わない。あの、合コンのとき叶わなかったこの気持ち。どうか受け取って欲しい。それが自分に示せる、せめてもの感謝の気持ちだった。


 名残惜しかったけれど、改札口で再会を誓い、連絡先を交換し、そうして、そこで解散となった。木下さんの乗るバスを見送りながら、自分はどこまでも手を振った。心を揺さぶられた彼女の言葉が、今も胸に、じんっ、と余韻を残している。夜の街に消えゆくテールランプを追いかけていると再び涙が込み上げた。

 原君と池田さんとは、ホーム一本挟んだ向かいで互いに手を振り合った。

「二人とも本当にかっこよかったですよー!」池田さんが叫んだので、こちらも負けじと、「こちらこそ、ありがとう!!」と、お腹に力を入れて、精一杯、返した。原君は嬉しそうに飛び跳ねていた。最後まで猿であった。

 あのとき、彼ら「いかづち組」三人の、勇気ある帰還がなければ、今頃、自分はどのような気持ちで帰路に就いていただろうか。これからも、生まれ変わった自分を見て欲しい。とそんな思いと共に、ふと、夜空を見上げると、頭上には無数の星たちがひしめいていた。その中に再び、冬の大三角を探すと、シリウス、プロキオン、ベテルギウスが、まるで、自分のことを祝福してくれるかのようにきらめいていた。その三角形を自分はしっかりと目に焼き付けた。

 あなたたちのお陰です。ありがとう、原君、池田さん、木下さん。


 そして、最も感謝を伝えなければならない相手が、今、自分の隣りにいる。

 心のわだかまりが解けた今、これでようやく清々しい気持ちで言える。なんてそのつもりでいたのに、却って、面と向かってお礼ができると思ったら、逆に妙な緊張が押し寄せたてきた。告白するわけでもあるまいのに。再び、自分は言葉を詰まらせた。


「あっ、あっ、あのっ、きょ、今日は、あっ、あっ、ありがとうございましたっ。いっ、いやっ、あのっ、それは、でっ、ですね、今日のことだけではなくてっ」


 思わぬ返事が返ってきた。


「それは、こっちの台詞だよ」


「えっ?」


「ふふふ、なんでもない、思った通りだった」


 まるで、こうなることがわかっていたかのような口ぶりだった。


「ねぇ、セキヤ君」


「はっ、はっはい」


「喋れるって、素敵なことだよね?」


 ぶんぶん。


「でもね、君は、最初っから素敵だったよ。傘を差し出してくれた、あのときから、ずっと」


「えっっ」


「喋れたって、喋れなくたって、セキヤ君」



「君は、"君だよ"」



「なぁんてね、ふふふ」


 自分もいつか、彼女のような人間になれるだろうか。拾ったボールを優しくそっと胸に返すように、自分も、誰かに何かを、「渡せる」ような人間になれるだろうか。 

 最後の最後で、ユキエさんのその言葉が心の奥底にまで沁み入った。

 もうダメだった。涙腺が言うことを聞かない。

 涙があふれた。 


 坂の下で、「あなたのことが、きっと、よくわかった気がします」と言われたそのときから、とうに自分は踠きの渦を脱していたのかもしれない。その言葉に込められた意味は、海より遥かに深かった。差し出されたハンカチで涙を拭いながら、自分はまた一からやり直したいと思った。


 例え、明日、この口が元通りになったとしても、そうして、再び、渦の中に呑み込まれたとしても、自分を見失いそうになったときは、北風の吹き抜ける、この八番線ホームで彼女に言われた言葉を思い出そうと思う。大切なのは、これからをどう生きるかだ。

 坂の下で出会ってくれて、ありがとう。とうの初めから自分は掬われていたのだ。



 快速の到着を告げるアナウンスが鳴り響く。



「ふふふ、それじゃあ、帰ろうか」


「んぐっ、んぐぅぅ、んぐっ、ぐぅぅぅ」


「あぁっいぃぃぃ」


 自分も精一杯、"燃やそう"と思う。この人生を。


 師走の晩日は思いのほか、奇跡に満ちていた。

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団子坂の下で 久宿 キュー @bachikyu

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