第六話 薄氷の轍 前編
在来線を乗り継ぐこと、一時間半弱、その日、自分は、とある地方都市へとやって来た。ホームに降り立つと、年の瀬の構内には、帰省と思われる若者や家族連れの姿が目立っていた。身の丈ほどの大きさのリュックサックを背負った小さな女の子が、父親と仲良く手を繋いで歩いている。微笑ましい。辺りに、背広姿は見当たらなかった。先を急く人間もいない。駅特有の、あの、鉄っぽい、匂いがしない。随分と久しぶりの遠出だった。師走の晩日は思いほか、穏やかだった。
改札を出て、地図を頼りに数百メートル先の総合百貨店へを目指した。八階にある特別催事展示場。そこで、ユキエさんが待っている。
作家「K」の新刊を記念して行なわれる、出版イベントに行かないかと誘われたのは、一週間ほど前のことだった。事務所が主催する、所謂、ファンの集いというものである。
このような、公の場に参加をするのは初めての経験だった。気の置ける仲間同士、意見を交わし、交流を深める、話しも弾むことだろう。到底、自分などが足を踏み入れてはならない場所であった。案山子で、しかも、にわかものである。よくよく考えてみたら合コンと然程、たいして変わらないではないか。悪夢、再び。厭なフレーズだ。
今こうして、ここでエレベーターを待っているのだって、正直、嵐の真っ只中に飛び込もうとするのと何ら変わりはしなかった。動悸も冷や汗も、いつものようにして激しく止まない。でも、どうしてか、なぜか、自分は怖気づいてはいなかった。無謀を重々承知のうえで、飛び込み台の際から、自ら、渦の中に身を投げ入れる覚悟でいた。
坂の下のバス停で、ユキエさんと顔馴染みになってからというもの、彼女はいつだって自分に人並みに接してくれた。今回もそう、こちらのコンプレックスなどおはじきでも彈くかのように、ユキエさんは、さも、軽々と声を掛けてきたのだ。
何か問題でも、と言わんばかりの顔をする彼女に、思わず赤面し、返答に窮した。もちろん嬉しかったけれど、それよりも不安の勝る方が大きかった。自分にそこは務まらない。迷惑を掛けるに違いない。悲しいけれど、それは自他共に認める、周知の事実であった。
自分は人より劣るから、と伝え、その申し出を断った。
こういうことには、自分は慣れていた。
一人、期待してのちに場違いだと気付かされるのは、とても辛く、惨めなことだった。
しかし、それを聞いたユキエさんは、納得するどころか、「君は劣っていない!」と猛然と怒り出した。それこそ、嵐のようであった。
「自分自身を粗末になんて、簡単に言ってくれるな」
彼女は本気で自分のことを叱った。その目は少し潤んでいるようにも見えた。これまで、周囲の人間に笑われることはあっても、そのように戒められることなんてなかった。鼻口を膨らまし、暴風雨を撒き散らすユキエさんは心底おそろしかったけれど、彼女の言わんとすることがこの胸には十二分に伝わってきた。その心根は鉄をも溶かすのだろう。
ユキエさんは口癖のように「大丈夫、大丈夫」と言う。
「大丈夫」「大丈夫だよ」「きっと大丈夫だから」
「君は大丈夫」
その「大丈夫」に根拠はないと思う。気休めだとも思う。けれど、その言葉に、やはり迷いはなかった。
幾多の「大丈夫」の先に、知らずと自分は強く背中を押されていたのかもしれない。
その「大丈夫」を自分も信じてみてもよいでしょうか。自ずと、そんな気持ちになっていた。
「セキヤくーん。こっち、こっちー」
エレベーターを降りると、ひときわ大きな声が飛んできた。チェスターコートが飛び跳ねている。
「早くっ、早くっ、もう直ぐ、第二部が始まるよー」
「はっ、ははっ、はっいー!」
ユキエさんは、今日も元気である。
くだんの、「Kの」ことはユキエさんに教えてもらった。トレンチコートのポケットから、ふと頭を覗かせる文庫本に目が止まったのが、はじまりだった。
「暇があったら、読んでみてね」
そう言って手渡された文庫本に、気がつけば自分は夢中になっていた。早朝の公園のベンチで、週末の図書室で、そうして、Kの作品群を日がな読み漁った。
人生作家、Kの、その作品性は人間の「性」と「再生」をテーマにして絡めたものが主だったが、その中身はどれも少々、独特のものであった。
ヤクザに憧れた人道活動家。怪しげな新興宗教団体で悟りを開く場末の借金風俗嬢。幼い息子の死から立ち直れず、互いを憎み、不倫沼に堕ちる一組の夫婦。妻とのセックスレスの末にたどり着いた女装倶楽部で尊厳を取り戻そうとする男。
少々どころか、かなりアングラ的かもしれない。けれど、そこに自分は惹かれたのである。
作者は、一貫して、作品を美化するようなことは行なわなかった。その正当性を主張したり、世間一般が好むような脚色は、一切打たない。Kにとって、作品の見栄えとか、正当性みたいなものは、どうでも良かったのかもしれない。苦悩に踠く姿を、ありのままにさらけ出し、刻々と書き連ねた。そして、その醜さの中に生まれた輝きを逃さなかった。その一点に、胸の中がたまらなく熱くなった。痺れてしまった。心をわしづかみにされた。もしかしたら、Kという人物は、「生きづらさ」を知る側の人間なのではないだろうか。
Kという人物に関する情報は、男性ということ以外、その素性は殆どが明らかにされていなかった。生い立ちを記すような参献なども不出のままだったけれど、自分はどこか、Kの作品に対し、妙な親近感を覚えていた。のめり込む、一端になっているのかもしれない。
そうして、この度、発売された長編小説が「薄氷の轍」という作品であった。カルト的なセックスを通じて一組の男女が「生」と向き合うという内容のものだ。
両親の離婚、育児放棄、壮絶ないじめ。悲壮な過去を経て、心に深い傷を負った青年のタスクは、「自傷サークル」で自分と似たような境遇を持つキョウコと出会う。社会不適合者もの同士の二人は次第に惹かれ合い、タスクはキョウコとの肉体を貪り合うその瞬間、初めて自分たちのコンプレックが精算されていくことを知る。セックスにのめり込んでいくタスクとキョウコ。そうして、やがて、二人は性と暴力が混ざり合う異常な世界を築き、そこで生きることへの実感を得るようになる。
作中では、幾度となく「性」の描写が描かれていたが、それを、猥褻だとは、一度として思わなかった。それぞれの、言葉では言い表せない苦しみをセックスという形を借りて懸命に吐き出そうとするキョウコと、一心に受け止め氷解させようとするタスク。とても切実で、そして美しかった。
タスクの腰にまたがり、キョウコは腕を震わし、その首に手をかける。目に涙を浮かべ微笑み返すタスク。二人にとって互いの存在は憎むべき過去であり、そして同時にかけがえのない拠り所だった。忘れられないシーンのうちの一つだ。
心身ともに深い依存で結ばれたタスクとキョウコ。そのものがたりも最期を迎える。盲目的な世界に全てを捧げ、繋がり、自分たちを信じてきたキョウコだったが、故にそれが仮初めの、永遠には成り得ないものなのだと、ついに悟る。
「外の世界で生きて欲しい」
曇りのない望みをキョウコはタスクに託し、そして自らの死を選択する。
多くを語らず、そっと願いを受け入れるタスク。そして二人は最後、今までにない穏やかなセックスをしてそれぞれに別れを告げる。二人のものがたりはこうして幕を閉じた。
凄まじい二人だった。その関係も決断も世間からすれば到底、容認できるものではないだろう。それでもタスクとキョウコが燃やしたその日々はとても純粋で貴いものだと思った。幸か不幸かではない。孤独だった二人にとって、そのいっときこそが「本物」だったのだ。
目に見えてわからなくても、例え酷くいびつだとしても、はじめて彼らは愛される喜びを分かち合えたのだと思った。
最終の頁、キョウコの亡き骸を抱き寄せるタスクは「行ってきます」と微笑んでいた。
大嵐が去った瓦礫の荒野に咲く一輪の花のように、そのシーンは儚くて悲しくて、けれども眩しいくらいに鮮烈だった。
一度だけ、ユキエさんに、その感想を伝えたことがあった。植物園前のベンチに腰掛けて、ひたすら時間を要した。大抵の人が一やニで言えることが、自分は倍、いや、十かかるのだ。途中、自分の方から耐えきれなくなり、話を切ろうと思った。彼女が「続けて」と言うので、喋り終えると、真冬にもかかわらず額には大粒の汗が吹き出していた。
ユキエさんは目を丸くし、ぽかん、と口を開けている。
「つつつっ、つたっ、伝わっ、わ、わり、ままっ、したか……」
彼女は何も言わず、自分の右肩を拳で小突いた。そうして、ぶんぶん、ぶんぶん、ぶんぶん、ぶんぶん、と何度も頷いていた。
ここに誘われたのは、それから数日してのことだ。
「あの退廃的なコミニティーで、マイノリティに、しかも、刹那的にしか人間活動を継続できなかった二人は、間違いなく、現代社会のヒエラルキーの犠牲者だと思うんだよね」
「さすがー、田中さん」
「でね、僕が、キョウコの死にコミットメントするのは、ずばり、クリティカルな弱者非生存主義、及び、イデオロギーへの提言で、きっと、Kも同様のメッセージを含ませているに違いないんだよ」
「わぁー、すごい、田中さん」
「で、君はどう思う」
「セ、キ、ヤ、君」
「はっ、ははは、ははは、はっ、ははぁ」
「ごめん、ごめん。僕のインプレッション、難しかった?」
「はっはっ、はははは、はっい……」
「ほれほれ、セキヤ青年が困ってるじゃないか」
「ははん、佐々木さんはわかりますよね」
「わからん、あんたの話は、まるで、ちんぷんかんぷんじゃ」
「田坂ちゃんと、鈴木ちゃんは?」
「わかる、わかるー」
「洗練されてるー」
「だよねー、Kを語り合うんだったら、この位のインテリジェンシーは持ち合わせていないとさー、なっ、セ、キ、ヤ、君」
「……はっ、ははははははっ、は、はい……」
完全に馬鹿にされていた。
ファンの集い、後半戦は、十数名程で車座を囲んでの交流会形式で行なわれた。そして、そのグループ座談会で、自分はなぜか、この、田中さんという信用金庫職員の恰好の標的にされていた。自己紹介を詰まらせる自分に、終始、悪代官のような笑みを浮かべていた。
このような逆風はいつものことだが、特に田中さんに限っては、その優越感が透けて見えた。難解な言語をたたみかけ、マウントを取りたがる。ユーモアの抜け切ったルー大柴だ。口から出るは大柴だが、その顔立ちは中世的で非常に端正だった。彼が喋ると女性陣は大いに沸いた。彼自身、絶対、それを自覚していてやっているに違いない。女子大生の二人は勧んで、その増長を手伝っていた。自分には、彼の言っていることがさっぱりわからなかった。いろいろな意味でだ。気持ちを伝えることよりも、知識をひけらかすことの方が重要なのだろうか。
言葉も碌に扱えない自分にとって、それは羨ましいであろうことのはずなのに、どこか寂しいことのように思えて仕方なかった。
「ははは、で、フジタさんはどうなの?もちろん、フジタさんも、そう思うよね」
「うん、えーっ、と、要するに、田中さんが言いたかったのって、タスクとキョウコは、可哀想で、弱い人間ってこと?」
「はっ?」
「わたしは、二人を弱いだなんて思わないし、Kも、そんなこと思って書いていないと思うんだけどなー」
「へっ?」
「ごめんなさい、失礼ですけど、田中さんのは、上辺だけで、論点がズレてると思います」
「なっ、なっ、なにー!?」
「はははははっ、よくぞ言った、フジタ女子」
「ねっ、セキヤくん」
ぶんぶんっ。
途端に、ユキエさんが、田中さんの鼻柱を圧し折った。場が唖然とする中、そうして、彼女は立ち上がった。
「せっかく皆んなで集まったんだから、お互いに心に思うままに感想を言い合いましょう」
「この場は、皆さん、一人一人のものです」
更に静まり返る。
「……あのっ」
「はいっ、池田さん」
「私も喋ってもいいですか?」
「もちろんです。ぜひぜひ聞かせてください」
「ねっ、田中さん」
「ぐっ、ぐぬぅ」
もしかしたら、ユキエさんは、ジャンヌ、ダルクの生まれ変わりなのかもしれない。
佐々木のおじいさんは、このような交流会には何度も参加しているらしい。ユキエさんとは古くからの知り合いで、まだ出始めのKのことを彼女に勧めたのはおじいさんだったという。主婦の諸田さんは夫婦揃ってのファンだそうだ。はるばる秋田からやって来た奥山さんは、自作のエッセイ文集を持参しており、声をふるわしながら発表していた。
健全を取り戻した座談会は、いよいよ、いっそう熱を帯び始めていた。
原君が、未だに「キョウコ、ロス」だという旨の発言をすると、一斉にして場が、同調ムードへと移り変わったのには驚いた。「キョウコは死ぬべきだったのか」そんな論争まで引き起こったのだから、この人たちの作品への愛情は計り知れない。
Kは、巻末にあとがきを残さないことで有名だったが、その空白に今こうして、それぞれが思いを巡らし、そして共有し、胸のうちを記している。Kにとって、あとがきなんていうものは、却って無用だったのかもしれない。そう思えるくらい、作品は作者の手を離れ、皆の元へと渡っているように思えた。深読みし過ぎだろうか。
むきになったり、得意げにしてみせたり、運動会で一等を獲ったときのような顔を並べている。
ユキエさんの言う通りであった。今日という日は、誰もが、語り部の長なのだ。高座を見上げれば、そこには余すことのないスポットライトが降り注いでいた。取り残されているとは思わなかった。それどころか、感激していた。喋るって素敵なことだと思う。うん、とても素晴らしいことなんだ。自分は一生懸命、皆の話に耳を傾けた。
「遠慮なんか、しなくていいんだからね」
不意に、耳元で、ユキエさんにそう囁かれた。
「この前、わたしに聞かせてくれた時みたいに、思ったことを喋れば、それでいいんだよ」
「ででででっ、でっ、でで、で、でもっ」
「大丈夫、君は大丈夫」
そのとき、はじめて、自分に、「喋る」という選択肢が生まれた。
頭の中は、ただ、ただ真っ白だった。その判断が正しいかどうか、考えるまでもなかった。選択を誤ればどうなるか、身に染みて良く理解している。それなのに、そのはずなのに、金魚のように、口だけが勝手にパクパクと動いていた。
自分は「喋る」気でいるらしい。
この場の、熱に浮かされたのだろうか、金魚口はその逸る気持ちの表れだった。そうして、その妙な様子に、どうやら、佐々木のおじいさんはなにやら勘付いたようだ。
「セキヤ青年、君の感想をどうぞ」
おじいさんは察している。胸を撫で下ろすポーズを見せると、皆の視線をこちらに集めさせた。もう後戻りできない。気持ちの準備も疎かに、自分に出番がまわってきた。
「そそそっ、あっ、そそっ、その、あっ、あの、ええええ、ええええ、えとっ」
落ち着けっ、落ち着け。
「ええっ、えと、タタタッ、タタタタ、タスクッ、と、とっ、キョイ、キョっ、キキキッ、キキ、キョウコが……」
「タスタスタス、タスタスタスタッ、タスクとキョーッコッがぁ」
「ふふ、ふふふふっ、二人が、もっ、もっ、もっ、もももも、もやっ、もやっ、燃やした日々は、んっんんっ、んっ、んんんん、んん」
「んんん、んんんんんんんんんっ」
「ぐふっ、ぐふふっ、ぶはぁー」
原君が、思わず吹いた。
「セキヤ青年、大丈夫かい」
縦に、ぶんぶん。
「落ち着くまで、時間を取ろうか」
横に、ぶんぶん、ぶんぶん。
「しゃ、しゃ、しゃしゃしゃ、喋りますっ」
「焦らなくともよいよ」
「しゃしゃ、しゃ、しゃ、喋らせて、くくく、くっ、くっださぁいっ」
既に、目の前には見慣れた光景が広がっていた。果たしてこの中に、本気で自分の話に耳を傾けようとしてくれる相手は、何人といるのだろうか。考えていることは誰も大体わかる。それは渦となり、そこに、やがて自分は呑み込まれるかもしれない。
それでも聞いて欲しい。喋ることをやめられなかった。伝えたい気持ちであふれていた。
「キョウコは死ぬべきだったのか」二人の物語を悲劇で終わらせたくはない。胸に宿す、この思いは、誰にも負けていないつもりだった。
足が震えている。声もだ。喉が痙攣し、何度も何度も咳き込んだ。
折れない、折れないぞ、絶対に。ユキエさんが、「大丈夫」だと言ってくれたんだ。その言葉が全てだった。そう思って自分は、口を開き続けた。
ここにいる皆それぞれが、この作品に、惜しみない愛情を注いでいた。そう、自分もそこに参加したっていい。ここは、そういう者の集う居場所なのだ。同じ釜の飯を食う仲間たちなのだ。今日の肉じゃが、味が染みてますね。お味噌汁の具は、大根に限りますよね。ごはん、おかわりしましょうか。
諦めなければ届くかもしれない。もしかしたら、思いもよらないことが起こるかもしれない。あらぬ希望が胸を熱くさせた。
やがて、その声は裏返り始めた。掬えるほどだと解っている。それでも、いい、僅かでいい、届いて欲しい。
ここで、自分は変われるかもしれない。
「ストップ、ストップ、ストーップ」
「えっ?」
「はっ、腹がよじれるぅ、ひゃひゃひゃぁぁ、もう勘弁してー」
「えっ?」
「ねぇ?ひっ、ひっ、ひっ、ひー、わざと笑かしにきてるでしょ、君」
「へっ?」
最悪である。田中さんであった。
「ひー、ひー、ひっ、ひっ、ふっ、ふっ、二人が生きた証だって?貴くて、美しいだって?」
「!!」
「ひひひっ、ひー、君の、その調子で、そんなメランコリックなこと言われてもっ、ふふふ、ふふふふふっ、もはや、ギャグなんですけど」
「そそっ、そそ、そそ、そっ、そなっ、こっこっ、こここっ、ここここ、こと、ないでっす」
「ひー、ひー、ひっ、ひゃあっ、はっはっははぁ、いやいやいや、そんなことあるってー、ふふふふ」
「なっ、ななななっ、なっ、ないですっ」
「ひゃっ、ひゃ、ひー、ねぇ、君、ひゃ、一つ言っていい?」
「……」
「君さぁ」
「はっきり言って、相当、"痛い"奴だよ」
「へっっ?!」
「ねぇ、皆んなも、絶対そう思うでしょ?」
ひー、ひっひっひっひっ、ひっひっ、ひー。
途端に、どん底に突き落とされた。
悪代官が息を吹き返した。彼は、あれよあれよという間に場を扇動した。集団心理が働いたときほど、人間はいかに残酷で恐ろしい生き物かということを、自分はよく知っていた。
飯が冷めてしまう。目を擦って見ると、誰も箸なんかつけちゃいなかった。テーブルクロスごと、床にぶち撒けられた気分だった。
涙目になる山瀬さん。女子大生は遠慮がなかった。原君もだ。辻さんに至っては、今にもあごが外れそうだ。諸田さんと奥山さんは顔を伏せているが、その肩は、やじろべえのように揺れていた。一人、木下さんだけが目を釣り上げている。彼女にとって、ここは聖域だった。
「そんなんで、よく喋る気になったな」
「やばいっ、やばいってー、さむー」
「必死過ぎて、ふふふっ、逆に、引く」
「もうこれ以上、この場を汚さないで欲しい」
「見苦しい、もう、聞いてられない」
そうして、誰かが言った。
「なにしに来たの」
なるほど、そういうことであったか。
自分は"痛い奴"以外の何者でもないらしい。
「タスタスっ、タタタタッ、タスっと、キキキキッ、キョキョっ、タスキョっ、タスっキョっ、タスっキョキョキョっ、げほっ、げほっ」
なにをとち狂ったのか、周囲の反応を受けて尚、自分は、針の飛んだレコードプレイヤーのように再生を繰り返していた。
汚す、だなんて、そんなつもりは毛頭なかった。むしろ、その逆だった。どこまでも、どこまでも、一途だった。手の平を返された訳ではない。しかし、一人で勝手に裏切られた気になって、半分、自暴自棄になっていた。
「セキヤ君さぁ、今日ここに来るよりも、病院にでも行った方が良かったんじゃない」
「なんて事を言うんだっ、田中氏っ!!」
「爺さんは、黙ってな」
「タスキョっ、キョキョキョっ、んんんーっ」
「ああっ、あれっ?こここっ、こっ、こんなっ、こんなっ、なと、こんなっはっずじゃ」
「ぎゃははは、まぁだ、喋ってるよ、ふはは」
「こっこっこんっなっ、あっ、あっ、あれっ?あれっ?えっ?あっあっれ?れっ、ああぁぁ」
その醜態を周囲の人間は大いに面白がった。ここにきて、めげない開き直りのおめでたい奴だと思われたらしい。特異な自分はすでに天然記念物と化していた。メグロやライチョウと並ぶ希少な存在だ。鳴けば崇められるだろうか。ちっとも嬉しくない。差し詰め、今回に限って言えば、自分は"痛い奴"だった分、その反響は特に大きかった。
再び、悪代官がいやらしい笑みを浮かべた。私服を肥やす為であったら、手段などは問わない。
ドラマの再現VTRのように大袈裟に自分の真似事をして見せると、加えて、そこに追従する者まで現れた。増殖する自分役。これは、何の見せしめのつもりだ。
よもや、場は逸脱し、収まりもつかなくなった。本来の主旨など、誰もが忘れてしまっていた。
「ふふー、二人がー、ももー、もやもやもやもやもやもや、もやもやっ燃やした日々はー」
「ぎゃはははははー」
「じゅじゅじゅ、じゅん、じゅんーすいでー」
「 ほっほっほー、ほほほほほほほほ、宝石のようなー」
「かかかー、かか、かっ、かかか輝きをー」
「はなはなはな、ななななー、はなはなっ、放っていたー」
「だせぇ」
「ぐふっ、ふひゃ、ふひゃはははー」
嘲笑は尽きなかった。
言いようも堪えようもない気持ちが胸に込み上げた。坂の下のバス停から、一歩再び足を踏み出してはみたけれど、ひとたび、そこから外れてしまえば、自分はただのイキった片田舎のヴィジュアル系と一緒だった。痛い、さむい、ダサい、の三拍子が揃う、手の差し伸べようもない、永久不変の醜い存在だったのだ。
「タっ、タタタタタタタタっ、タスクとぉぉ」
「はーっ、はっはーっ、ははははーっ」
「もう帰れよ、お前」
みじめという言葉を散々、言ってきたけれど、吃音ものまねショーは、このうえなく惨めなものだった。ダイナマイトによって爆破されるビルの発破工事のように、自分のものは今、彼らによってそのボタンを押された。
発破開始!ズドォォォォォォォォーン!!
この世に神様がいるのだったら、この砂塵にまみれた轟音を、どうか聞いて欲しい。掛ける言葉はあるだろうか。そんなものないだろうか。問いたい。
この苦しみに、意味はありますか。
大きな川を越えてやって来た。今だったならば、凍える真冬の橋梁の奈落へも、自ら、身を投げ入れられるような気がした。
「ひっひっひっひっ、ひーっ、ひっひっ」
コーナーサイドで真っ白な灰になろうとする明日のジョーのように、もはや全身が脱力していた。気力を振り絞ろうにも、既に、枯井戸のように底を尽きていた。
「立つんだ○○」
無理です。
本当に燃え尽きようとしていた。
持てる力で、僅かに首を捻ると、視界の片隅でユキエさんが口を真一文字に結んでいた。感情が読み取れない。ただ真っ直ぐ、正面を捉えていた。何を思っているのか。向ける顔がなかった。
心の声が胸を締めつけた。
恩に報えず、ごめんなさい。これが本当の自分の姿です。何も克服できない、臆病の成れの果てです。涙が込み上げる。
まだまだ、あなたの知らない自分がたくさんいて、自分はそういう人間で、でも変わりたくて、そう願いたくて、信じたくて、自信を持ちたくて、強くなりたくて、胸を張りたくて、変わりたくて、変わりたくて、変わりたくて。
でも、駄目だった。
自分はあなたの思うような人間ではありませんでした。
「大丈夫」だと言ってくれて、嬉しかった。
だから、ごめんなさい。
頬に落とす、その胸のうちの苦しみは、いつもそうやって、涙で垂らすことでしか、自分は他に表現することができなかった。
顔を上げているのも、もう辛かった。視線を落としかけたそのとき、隣りで、すうーっと、ユキエさんの腰が持ち上がった。両手で丸椅子を持ち上げた彼女は、天井にかざすと、そのままそれを床に叩きつけた。
「ズドォォォォォォォォーン!!!」
丸椅子が宙を舞う。
「……笑うな」
「人のぉ、言葉をぉ」
「笑うなぁぁぁぁぁぁぁ!!」
放物線を描く、その軌道を切り裂いたのは、轟く、いかづち、のようなユキエさんの一喝だった。
「いい加減にしろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
雷神と成したユキエさんは、田中さんの前へと立ちはだかると、そうして、空高く、彼の頬を渾身の力で撃ち抜いた。
ばちぃぃぃぃぃん!!!
「いっ、いっ、いったっぁぁぁい!!」
「なっ、ななっ、なっ、何するんだよぉ」
「セキヤ君の痛みを、あなたにっ、ふんっっ、わからせてあげたのっ!!」
場内が騒然とする。緊張が走る。司会の二人組が慌てて飛んでやって来た。凄みを増すユキエさんは、二発目に及びそうな勢いだった。その迫力に気落とされ、田中さんは椅子から転げ落ちた。
「ふんっ、ふんっ」
ユキエさんが猛った。脳裏に再び、ジャンヌ、ダルクが交錯する。それを勇姿と呼ぶには、いささか乱暴だろうか。鳥肌が立った。あんぐり開いた口が塞がらなかった。心臓がバクバクする。彼女はマリアの旗を掲げたのだ。
「田中さんっ」
「ひぃぃぃ」
「……聞いて」
「ひぃっ、へっ?」
出来損ないの背泳ぎを模したかのような、狼狽する田中さんを前に、そうして、ユキエさんは両膝を着いた。
「苦しいって、手を上げるのって、簡単なことではない、とても勇気が要ることなの。無視されたり、見て見ぬふりをされたりすることの方が多くて、石を投げつけられることだってある。でもね、でもね、ここでは違う。ここに居る人たちは、そうじゃない。掬ってあげられる人たちなんだって思うの。違う?」
「えっ、ええっ、ええっ……と……」
「田中さんは、ここに何をしに来たの?」
「えっ、いい、いっ、いやっ、そ、その……」
「そっ、それは……」
「あなただって、わざわざこうして、ここに集まった内の一人しゃないの?」
「え、え、……えっ」
「弱さ、ってなに?強い、って何?なにをもってそう言えるの?セキヤ君が伝えようとしたことは、私には、立派にしか聞こえなかった」
「はっ……」
「お願い、田中さん。耳を傾けてください。言葉と、そして、人の気持ちに」
「……ごめんなさい、叩いたりなんかして」
「……」
手を差し出された田中さんは、どんな気持ちでいるのだろう。その頬には、焼ごてのような真っ赤なユキエさんの手形が張り付いていた。
「おじいちゃん、ごめんね」
「構わんよ」
「皆さまっ、本当にっ、本当にっ、誠に申し訳ありませんでしたっ!!」
そうして、ユキエさんは、会場内に向き直ると深く深く頭を下けた。居ても立っても居られなくなった自分は、直ぐに後に続いて彼女に倣った。ユキエさんがここに自分を誘ってくれた理由が、そのときになって、なんとなくだけれども、わかったような気がした。
「セキヤ君、帰ろう」
「えっ?ええっ、いっ、ええっ、あっ……」
「もう、帰ろう」
ユキエさんは小さく頷くと、それ以上はもう何も言わなかった。その目を見たら、自分はもう潮時なのだとわかった。「よく頑張ったよ」と、そう言われたようにも思えた。勝手にそう思った。
「……は……い……」
そうして、二人で会場を後にした。
地上へと降りると、既にもう日が落ちていた。高層ビルの直ぐ頭上を、冬の大三角形が射し、月夜がアスファルトに影を落とし始めていた。年の瀬の駅前通りは、人の気配も乏しく、閑散としていた。無駄に点滅を繰り返す電光観光案内板。今年の役目を終えた暖簾の赤提灯が、カラカラと風に吹かれて鳴いていた。ロータリーでは、タクシー運転手がスポーツ新聞片手に欠伸ばかりしている。ここで、大声で叫べば、改札を通り超して、一番ホームをも突き抜けそうな気がした。
自動販売機で缶コーヒーを、二人で黙ってそれに口をつけた。背伸びしをて、ブラックの方にしてみたけれど、慣れないことはするものじゃない。苦いのはだめだった。
ユキエさんに「ごめんなさい」と、声に出そうとしたけれども、寸でのところで憚った。そんなことを言ったら、ユキエさんはきっと悲しむだろう。心優しい人なのだ。もう、困らせたくはなかった。
つい先ほどの車座の賑わいが随分と懐かしく感じられた。八階、特別催事展示場の熱は、再び活気を取り戻したのだろうか。そうであって欲しい。
精一杯、頑張ったのだからと、自分に言い聞かせた。頑張ったじゃないか。そうだ、下を向く必要なんてない。胸を張って帰ればいい。頑張った。自分は頑張ったんだ。
だから、自分は。自分、は。自分……は。
「んっくっ、ぐっ、ぐぅぅ、ぐっ、んぐぅっ」
「セキヤ、君?」
「ぼっ、ぼっ、ぼぼぼっ、僕ぁぁっっ」
胸にあふれた。
「ぐっやじぃぃでっっすっ!!」
「……セ、キヤ、君……」
こんな形で、帰りたくなかった。痛かろうとダサかろうと、例え、失敗しようと、何を言われようと、最後、ユキエさんに「ありがとう」と言えれば、自分はそれでよかった。叶えるだけが全てではなかった。
無線を受けたタクシーが、エンジン音を吐き出すようにして、ロータリーを飛び出して行った。取り残されると、いよいよ、促された気になった。降り立つ際には感じることのなかった年の瀬の物哀しさが、今、意味をもって夜の帷に降りていた。
そろそろ、快速の時刻である。これにて幕引きだ。合コン、のときもそうであったが、改め、途中退席と言わせては貰えないだろうか。もう笑えないだろうか、調子が良すぎるだろうか、どうか、滑稽だと言ってくれ。
遠路遥々、ここまでやって来た。さよなら地方都市。さよなら八階。さよなら「薄氷の轍」
さようなら。
「ぉぉぉぉおーい」
「?!」
「ぉおぉぉいっ、ちょっとぉぉぉぉ」
「えっ!」
「ぉぉー、ちょっと待ってぇぇぇ」
「セ、キ、ヤ、さぁぁぁぁん!!」
師走の晩日は思いのほか、長かった。
(続く)
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