第16話 20年前の"ありがとう"

 「今の私たちには必要なことかもしれないね」

 数日前に妻から別居して距離を置こうという話が出た時、僕はすぐにその提案を受け入れた。別に妻と距離を置きたいと望んでいたわけではない。妻がそう思っているのなら、それに抗うことをしない方が関係が上手くいくと理屈で考えたからだ。幸か不幸か、僕たち夫婦に子供はいない。お互いの気持ち以外で、僕たちが離れ離れになれない理由はなかった。

 同意はしたものの、妻の気持ちが分からない上に一人ぼっちの生活となってしまうと仕事に行くのも辛くなってきた。科学館の化学フロアでの仕事に身が入らない。近々ニホニウムの展示を完成させなくてはならないのに。         どうしてこんなことになったのだろう。いつも思う。妻の心はもう僕から離れているのかもしれない。僕はまた独りになるのかもしれない。

 職場からアパートに帰る道中、小学校の児童たちが遊んでいる姿が見えた。ジャングルジムで鬼ごっこをしている者もいれば、サッカーに夢中になっている者もいる。僕はどこか彼らを羨ましい気持ちで見ていた。あの子たちは何も知らないのに。

 アパートに着いていつものようにポストの中を確認する。中ににハガキが一枚だけ入っていた。何かと思って部屋に戻って差出人を見てみる。               「僕だ」

差出人欄には僕の名前が書いてあった。ハガキの裏面にはクレヨンで書かれた似顔絵と共にこう書かれていた。

"20年後の僕、お元気ですか?僕は今理科が大好きです。これからも続けたいと思います。ありがとう。"

ボールペンで書かれた字が震えていた。

変わったことをしたものだ、普通20歳じゃないか。

僕は涙を流していた。

"ありがとう"

何もないようで全部が詰まっている。僕は帰りに見た児童達にそんなことを感じていたのかもしれない。

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