終演後の楽屋は関係者でごった返していた。

　会話中のスエツグさんに声をかけると、向こうから握手をしてきた。

「よおっ、来てくれたんか。ライブよかったろ」

「はい！　最高でした」

「うそつけ。どうせ寝落ちしたんだろ」と肩に手を回された。いつものスパイシーなムスクがぷんと匂った。

「彼女？」とシノダさんを見た。彼女は緊張気味の面持ちでぺこりと頭を下げた。

「バイトの同僚です」

「そうか。来てくれてありがとうね。じゃあ、また連絡するわ」ともう一度握手し、談笑の輪に戻った。

「ずいぶんと親しいんですね」

「付き合いだしてもう三年くらいになるかなぁ」

「希少な古着を率先して紹介してたって言ってましたっけ」

「そうそう、それでたまに食事をするようになって」

「才能を認めてくれているのかしら」

「どうだろうね」

　何度かデモテープを聴いてもらったことはあるが、反応はうすかった。ライブや食事に誘われることはあっても、コウイチさんや他のメンバーに紹介はされなかった。だからこそ、マネージャーのヤマモトさんとコネクションをもてたことは、大きな進展だった。

「よおーっす！　新曲書いてきた？」

　とヤマモトさんがにこにこ顔で近づいてきた。

「はい！　持ってきました！」

　と音源を渡した。

　ヤマモトさんは五十代前半、髪を染めてないせいで白髪が目立つが、足繁く美容室に通っているのか、常に短髪でしかもおしゃれだった。小太り体系だが、背広も靴もいかにも高級そうだ。

「どんな大御所アーティストを前にしても物怖じしたことはない。いずれはレコード会社の社長にのし上がるつもりだ」

　確かにその言葉通りの大物感があった。

「じゃあ、あとで新曲の感想を送るから」

「よろしくお願いします！」

「葬儀屋の子？」

　シノダさんをチラ見して、声をひそめた。

「ええ」

「かなり蝋人形度高めだね」

　と耳打ちした。

「葬儀屋は屍体慣れしてますから」

　と冗談で返した。

「事務所のひとですか？」

　ヤマモトさんが立ち去ると、シノダさんが話しかけてきた。

「ベンズのマネージャーだよ」

　さっきのやりとりを聞かれただろうか。不安になって、「ちょっと変わり者でね」と言い添えた。

「変なひとの近くには変なひとが集まりますもんね」

　と彼女はそっぽを向いた。

「一人でギターを弾いている変人には誰も近づかないみたいよ」と楽屋の隅でアコギを爪弾く孤独なギタリストを指した。

「しっ！　この曲です」

　と彼女は指を立て、微かに聞こえてくる旋律にしばし耳を澄ませた。

「今日のライブでやらなかったのが残念だったけど、ここで聞くとはね…」

　シノダさんは頰を赤くしていた。メロだけでここまで感情が揺さぶられるものかと、ぼくは白けた。

「いまが絶好のチャンスなんじゃないの？」

「でも、まだ弾きたりないんじゃないんですか」

「大丈夫だよ。ファンに声をかけられて、うぜえと思うミュージシャンはいないから」

「じゃあ、行きます？」

「ぼくはいいよ。ここで待ってる」

　以前、ライブ後の楽屋で、ぼくの顔がツムグに似ているとスエツグさんに揶揄われたことがある。周囲の人間が笑った瞬間、コウイチさんは中身の入ったビール缶をゴミ箱に叩きつけた。ぶしゅーと泡を吹く音が、沈黙の空間をしばし支配した。尋常じゃない空気を感じながら、このバンドの中核が誰なのかを改めて思い知らされた。

「おつかれさまです！」

　彼女の一声で、周囲の空気が一瞬で変わった。何人かがチラチラと横目で見た。やはり、触らぬ神にたたりなし的な扱いを受けているのだ。もっとも、コウイチさんはいたって落ち着いた様子だった。シノダさんが定型文みたいな賛辞を送ると、コウイチさんはアコギを脇に置き、彼女の手をとった。

「ありがとう。もっといい音楽を作れるように努力します」

　ぴょこんと、かわいらしい会釈をした。

「これからもずっと応援してます！」

　シノダさんは、湯気立つほどにほおを上気させていた。

　うんうんと言った感じでコウイチさんは再びアコギを爪弾いた。やけにやさしげなメロディーだった。神から子羊へのメッセージだろうか。

『神は子羊のもう一声を待っている』

　ベンズの歌詞にそんな一節があったが、そういう意味だったかと合点した。

　あと一歩神に近づくチャンスを逃した彼女だったが、顔つきは晴れ晴れとしていた。興奮が落ち着いても、その余韻は残る。ある程度の基準を満たす相手なら一晩くらいならいいかと思うかもしれない。何気にラブホテル街方面に向かっていることに彼女は気づいているだろうか。

「電話鳴ってますよ」

　確認すると、電話は切れていた。が、すぐにメールが着信した。

「返信だけしていい？」

「どうぞ」

＜今夜の蝋人形ちゃん、どうにかならない？　Yamamoto＞

　

＜どうにかしますので、どうにでもしてください（笑）＞　→送信

「お待たせ」と歩き出そうとすると、「ちょっと待ってください」と彼女に呼び止められた。

「なに？」

「わたしを二万円で買ってくれませんか」

　とピースサインをした。

「あ、でも、ホテル代を入れたら二万五千円くらいかも。お泊まりがいいならそれでもオーケーです。その辺はおまかせします」

「あ、そういうこと？」

　おどろきで、すっとぼけた声になった。

「驚きました？」

　と彼女は言った。

「いや、バイト代が入ったばかりだし、別に構わないけど」

「女の人をお金で買ったことは？」

「ないね」と嘘をついた。

「誰とでも寝るわけじゃないです」

　彼女は声をひそめた。

「ライターになるにはたくさんのライブに通わなきゃいけないって前に言いましたよね。貧乏学生にとっては出費がキツイんです。ていうか、どん引きましたよね…」

「そんなことはない」とぼくは答えた。

　そんなことはない。女から誘われたのが初めてだから、おいおい、こんなに簡単でいいのかと思っただけだ。

「じゃあ、宿泊コースで」

　と財布を開けようとすると、

「こんな街中でやめてくださいよ！」

　あわてた様子で言われた。

「ていうか、交渉成立ですか？」

「お願いします」

　と先ほどのコウイチ風の礼をすると、

「こちらこそよろしくお願いします」

　と彼女はうやうやしく頭を下げた。

「おれは絶対に君らのバンドをデビューさせる。だから、君の覚悟も見せてほしい」

　惜しみない先行投資をした商品にデビュー直後にケツをまくられ、あわや会社をクビになりかけたエピソードを語った後、ヤマモトさんは自らの特殊性癖（リアルラブドールマニア）を打ち明けた。ぼくらが期限切れ間近の年齢であることにも触れ、こう説明した。

「この世界の成功者たちには秘密があるんだ。彼らは皆、悪魔に魂を売った人々だ。嘘じゃないぜ？　その代わり、彼らは莫大な資産と張り巡らされた防衛システムを得る。分水嶺を越えられなかった連中は、ただ与えられたものを消費する。人の道に反する行為を恐れる連中が越えられない一線を、君は越えられる。長いことこの業界にいれば、そういうやつは見分けがつく」

　それ以来、片手では利かない数の獲物をヤマモトさんに貢いできた。手口としては、女をホテルに連れ込み、睡眠薬を飲ませる。ヤマモトさんが済ませたあと、起きた彼女らにやさしくフォローする。彼女らは昏睡状態でレイプされたことは覚えていない。

　メンバーに相談しようか迷ったこともあったが、どうせ即座に関係を切れと言われるに決まっている。棚から牡丹餅的なチャンスを指をくわえて待っているようなやつらには決して超えられない一線を、ぼくはすでに踏み超えてしまったのだ。

　もしも、走る電車から飛び降りなければならないほどのリスクを感じたら？　

　そのときはそのときだ。