第26話 贖罪

魔物の気配に剣を構えたユーリはそれを目にして僅かに顔をしかめた。

イノシシのような魔物に追いかけられている少年が必死の形相でユーリのほうに走ってくる。人と関わりたくないユーリだが、見殺しにするわけにはいかない。

覚悟を決めて剣を握り締めてユーリは駆け出した。


「ありがとうございます!お姉さんがいなかったら、俺……」

レイと名乗った少年は興奮した様子でユーリに輝かんばかりの瞳を向けている。その純粋な瞳がまぶしくてユーリは目を逸らして言った。

「早く帰れ。いつまでもこんなところにいると、また襲われるぞ」


幸いなことにナギはこの場にいなかった。地道に山菜や薬草を摘む作業を見ているのにも飽きたのだろう。気づけば姿を消していた。

必要以上にきつい口調で告げたのは早々に立ち去らせるためだったが、レイが悲しそうな顔をしたのはユーリの言葉のせいではなかった。


「薬草が、妹の治療に必要で、俺は兄ちゃんだから―」

病気の妹のために魔物が出る森に薬草を取りに来たのだと告げるレイに、ユーリはため息をつく。

「それでお前が死んだら元も子もないだろう。この中から探してなければ、諦めて帰れ」

自分の摘んだ薬草の山を指し示すと、レイは真剣な表情で目当てのものを探し始める。


「あった!!お姉さん、本当にこれ俺がもらっていいの?」

「いいよ、君が対価を払うならね」

了承の言葉を口にする前に、涼やかな声に邪魔をされた。


「レイ、対価などいらない。さっさと帰れ」

「魔物から守ってもらった上に貴重な薬草までもらって礼の言葉だけで済ませるの?ユーリが寛容だとは知っているけどね」

そんなやり取りをされてレイは帰るに帰れないようだ。妹想いの優しい少年がその言葉を発するまでに時間はかからなかった。


「あの、良ければうちに来てください。大したお礼はできないけど精一杯おもてなしします!」

「いらん、帰れ」

「ユーリが行かないのなら、僕だけでも行こうかな?」

間髪入れずに返事をするユーリの言葉にナギの言葉が重なる。


笑顔の中には圧がありナギは本当にそうするつもりなのだと察した。気まぐれなナギを自由にさせても何も起こらないかもしれない。むしろユーリがいるほうが無用なトラブルに巻き込まれる危険が減り、安全なのかもしれない。

それでもユーリが一緒に行くことを選択したのは、自分の手が届くのに伸ばさなかったことを後悔することが嫌だったからだ。


ユーリの不安に反して、レイの家族は温かく迎えてくれた。レイの両親と祖父からは何度も感謝の言葉を告げられ、心づくしの料理が机の上に並んでいる。レイの妹の容態も落ち着いたと聞けば悪い気持ちはしない。

それなのに嫌な予感がするのは、この場所が幸せに満ちているからだろう。


幸福を不幸へとを簡単に覆せる存在がユーリの隣にはいる。にこやかな笑みを浮かべ、優しそうな顔をしたナギは子供に対価を強要したことなどなかったかのように振舞っている。一人で森に行き魔物に襲われかけたことで叱責を受けそうになったところを、上手にとりなしたことからレイもまたナギに好感を抱いているようだ。

かつて両親と過ごした記憶がよぎり、早くここから離れたいとユーリは願った。


それなのにユーリはナギとともに提供された部屋の一室にいた。押しの強い父親と素直に感謝を告げるナギの前にユーリの声はなかったことにされた。

「今日ぐらいゆっくりベッドで休めばいいよ」

そのベッドですら一つしかない。大きめのベッドは二人で眠れるほどの広さはあるが、冗談ではない。


魔王が何を企んでいようとも、ユーリにできることは一つだけだ。静かな決意を胸に窓の外に目を向ければ、眩いほどに明るい月光にユーリは目を細めた。



朝食を摂り温かい見送りの言葉を掛けられて森の中を歩く。完全に家が見えなくなってからユーリはようやく言葉を発した。


「何をするつもりだ」

断定的な口調にナギは微笑む。

「魔物の暴走は僕の指示ではないよ」

含みを持たせたナギの言葉にユーリは足を止める。


質問の答えは期待していなかった。ナギの気まぐれなのか、明確な意思があっての行動なのかを知るために探りをいれただけのこと。素直に答えるナギの目的は分からなくてもこれから起こることを知ったユーリに選択肢はない。

わざわざ魔物と戦わせることで何が起こるのか、知りたくもなかったユーリはただ方向転換して駆け出した。


森の外れには集落というには小規模だが、レイの住む家の周辺には数軒の家が点在していた。

最初に気づいたのは薪用の枝を拾い集めていた少女だった。森に近すぎないようにと言い含められていたが、たくさんの小枝に加えて大きめの枝を見つけて夢中になっていた少女は気づけば森に足を踏み入れていたのだ。


自分の頭上に影が差したため、太陽が雲に隠れてしまったのだと思った。少女が最後に目にしたものは、大きく開かれた口から覗く鋭い牙。無意識に上げた少女の絶叫はすぐに止まったが、人々は異変に気付くには十分だった。


その声はユーリにも届いていて、罪悪感に胸がちくりと痛む。全てが自分のせいだと思うこともまた傲慢だとは思っていたが、ナギの行動を止められない自分のせいだと思うことは止められない。

魔王を制御する力がないのなら、出来る範囲で人の命を救う。生きるための手段がいつの間にか贖罪になっていることにユーリは気づいていない。

ただ目の前の敵を殺し、命を救うことで自分の存在を許される、無意識にそんな風に考えていた。


(一体これで何匹目だ…)

内心で毒づきながら殺到する魔物の群れで剣を振るう。目の前の魔物に対抗するだけで精一杯のユーリの耳には悲鳴や怒声が聞こえてくる。どれだけ必死で頑張っても全てを食い止めることはできない。


「父さん?!くそっ、やめろー!!」

すぐそばで聞こえてきた声は昨日あった少年のもので、魔物の攻撃をよけつつ目を走らせれば地面に倒れた父親を庇うように両手を広げたレイの姿があった。


「氷の刃よ、敵を貫け!」

残り少ない聖力を振り絞って術を展開すると、魔物はあっけなく倒れる。鋭い痛みがふくらはぎに走って、魔物の生死を確認することもできないままユーリは足元の魔物に向かって剣を振り下ろす。


魔物がようやく姿を消した頃には満身創痍の状態だった。強張った手から剣を引き剥がして地面に座り込むユーリの前にレイが近づいてきた。


「お姉さん、ごめんなさい。これぐらいしかないけど」

手渡された水と乾パンを喉に流し込むと、身体に沁み込むように少しだけ落ち着いた。怪我人も多いが、手当てを受け互いに気遣う様子に安堵する。


恐らく近くで様子を見ているだろうナギの存在が浮かんで、重い身体を無理やり起こす。気遣うような表情のレイに一つ頷いて、無言でその場を後にしようとした時のことだった。


「お前、誰だ?余所者だな」

混乱の最中で気にするどころではなかったユーリの存在が、その一言で人々の視線を集めた。小規模な集落ほど排他的で疑い深い。

ひそひそと囁く声にはユーリを怪しみ、警戒する言葉が混じっている。


「違う!お姉さんは――っ!」

反論しようとしたレイの口を彼の祖父が塞いでいた。


(仕方ないことだ)

今の彼らに反論してもあまり意味がなく、不用意に余所者を庇って生活が成り立たなくなる可能性を考えれば、余計な口出しをしないほうが賢明だ。そう理解することと心に痛みを感じることは別だとしても、ユーリは早々にこの場を立ち去るべく歩きだす。


「魔物を引き寄せたのはあいつなんじゃないか?」

誰かがこぼした一言はすぐさま周囲に伝播して、ユーリは敵意に満ちた視線に晒された。

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