第24話 上書き

ないことの証明はあることの証明より難しい。ましてや頭に血が上った状態でどれだけ言葉を尽くしてもカルロは絶対に聞き入れないだろう。


(それよりもここから逃げ出すことが先決だな)

まだ視界がチカチカして万全でない状態で剣を使わずに逃げることも難易度は高いが、やらなければ死か拷問が待っている。


争いが起こっていることは既に教会内に伝わっているだろう。一刻も早くここから逃げ出さなければ、加勢する者が増える可能性もあり不利になるのはユーリのほうだ。そもそもミュスタに派遣された祓魔士がカルロだけとは限らない。


(とりあえず目くらまし、ちょっと危険だけど毒を撒くか)

後遺症が残らない痺れ薬と同じ効力を持つ毒薬を携帯していた。

「っ!」

ぞわりと悪寒が走って、奇しくもカルロと同じタイミングで剣を構える。



「遅いから迎えに来たよ。寄り道にしては随分なところにいるね。まあ僕たちが初めて出会った場所と言えなくもないけれども」

あまりいい思い出ではないだろうに、と独り言ちるナギにユーリは判断に迷った。この場からナギを追い出すのか、それともカルロとともに攻撃するのか。


「…何だ、こいつ……」

蒼白な顔には明らかに恐怖の感情が浮かんでいる。力を抑えているにも関わらずナギの魔力を感じ取れるのはカルロだからだろう。


(カルロじゃ無理だ)

完全に魔王の気配に圧倒されているし、この状態で勝ち目はない。

「逃げろ、早く!」

カルロを庇うように間に割って入ったユーリはナギと対峙するが、それが失敗だった。


「ねえ、それ何?」

冷ややかな声とその視線はユーリの首元に向けられている。自分では確認できなかったが、恐らく首を絞められた痕が残っているのだろう。不機嫌そうな気配を纏ったナギにユーリも後退りたくなるのを堪えた。


「………お前には関係ない」

「他の男の痕を残されるなんて不快でたまらないんだよ。君が庇っているのはそれかな?」

何かが引きちぎられる嫌な音がして、絶叫が響く。カルロの右膝から下がえぐり取られたようになくなっていた。痛みに痙攣するカルロの周囲が血に染まっていく。


「正直に話すなら楽に殺してあげよう」

「やめろ!人を殺さないと言っただろう!」

「手出しを控えると言ったんだ。僕の所有物に手を出されて許されるとでも?」

淡々とした口調は命を奪うことに何の躊躇いもないことをはっきりと伝えてくる。自分を殺そうとした相手を庇うなど、正直自分でもどうかしているとは思う。だがカルロが死ねばクラウドはきっと悲しむ。


(だからカルロのためじゃなく、これはクラウドのためだ)

「……この痕が不快だというなら上書きすればいい。だからそいつには手を出すな」



転移した場所は宿ではなく、礼拝堂だった。先ほどの場所からほんの僅かしか離れていないことに不審に思ったが、祭壇の上に下ろされたユーリの首に冷たい手がかかり、すぐにそれどころではなくなった。


「僕の聖女さまは本当に健気でかわいい…」

陶然とした声と熱のこもった瞳はどこか酷薄さを帯びていて、頸部への圧迫はじわじわと強くなっていく。

辛うじて浅い呼吸を許されているものの、いつ力を込められるか分かったものではない。怯えれば相手の思うつぼだと分かっているが、つい先ほど死の恐怖を味わったばかりだ。身体が反応してしまうのは無理もなかった。


「僕の所有物になるのなら、許してあげてもいいよ」

ユーリの内心を見透かしたような言葉に、苛立ったユーリは首に添えられたナギの手を掴み、思い切り力を込めた。


「ぐっ…!!」

そうなれば呼吸が出来ず、当然苦しい。だが上書きしろと言ったのは自分だ。嫌なことはさっさと終わらせてしまいたい、そう思ったからこその行動だったがナギはそれを許さなかった。


ユーリの両手を頭の上で拘束すると、片手で首を絞めたまま唇を塞いだ。ユーリが嫌がる行為だと知っているから質が悪い。息苦しさで生理的な涙が溢れ、考えがまとまらなくなったころようやく解放された。


激しく咳き込むユーリの背中を撫でながら、ナギはまるで愛しい恋人のように優しく抱き寄せる。その苦痛の原因をもたらしたのがナギ自身であるにもかかわらず、壊れ物を扱うかのように丁寧な仕草。


だからこそ薄暗い礼拝堂の様子を遠目から窺っていた祓魔士には、ナギがユーリの首を絞めていることは分からなかった。ただ神聖な祭壇の上で激しい口づけを交わしているようにしか見えなかったのだ。


視線が消えた窓の向こうを見て、ナギは満足そうに微笑んだ。



喉の痛みと苦しさに生理的な涙がこぼれ落ちる。激しく咳き込みながらも息を整えていると、無遠慮に目じりを舐められた。


(ああ、涙も体液か…)

納得しつつもこの状況に慣れてきた自分に嫌気が差す。唾液や涙に比べれば血を与えるほうが精神的にはずっと楽な気がした。


「じゃあ行こうか?もうここには用はないよね」

にこにこと嬉しそうな表情のナギに同意するのは悔しかったが、これ以上教会に、そしてミュスタにとどまり続けるわけにはいかない。

カルロのことはきっと教会関係者が何とかしてくれるだろう。

宿に荷物を取りに行きたかったが、他の祓魔士に出くわせば面倒なことになる。


「ああ、君の荷物は僕が保管しているから心配しなくていいよ」

ユーリの思考を呼んだかのように答えるナギに、不信感が増す。まるでこの状況を予測していたかのような周到さだ。


それでもユーリは何も言わずに、ただ足を動かして教会を後にした。たとえこの状況がナギによって仕組まれたことだとしても、自分にはどうすることもできないからだ。

じわじわと真綿で首を絞められるかのように追い詰められていく。


(無力感と絶望を与えるための行動なら成功しているな)

1年間の猶予が与えられたからと言って、それが生易しいものではないことは分かっていたことだ。それでも心が削られていくような出来事に平然としていられるわけではなかった。

心無い言葉も仲間であるはずの祓魔士や聖女に攻撃されることも、ユーリが望んだことではない。


「ねえ、次はどこに行きたい?王都でも行ってみる?」

「…ぉっ…!」

掠れた声にぐっと言葉を切った。


(最悪だ…)

首を何度も圧迫されたせいで声帯を痛めたのだ。祓魔士や聖女にとって声が出ないことは致命傷ともいえる。何故なら女神の力を借り受けて術を行使する上で詠唱は不可欠だからだ。祈りを言葉にすることで女神はその願いを聞き届けてくれる。


「大丈夫、僕が護ってあげるから」

その優しげな言葉も愛しむようなその表情もただの演技と分かっている。

頼ることなどできないのに、身体も心も疲れ切っていた。無意識に握りしめたコインの冷たさだけが、ユーリを辛うじてとどまらせていた。




「カルロとユーリがこちらにいると伺いましたが?」

深夜遅くの訪問にもかかわらず、クラウドは遠慮することなくミュスタの教会を訪れていた。ようやくユーリの所在が判明してほとんど休むことなく駆けつけたのだ。

最初に付いてきた供の半数は付いてこれずに、後から到着することになっている。


カルロとユーリの相性が悪いことは知っていたが、どちらもクラウドにとっては大事な存在だ。それを互いに知っているから多少諍いが起こったとしても、最終的にはクラウドのために最善と思われる行動を取っていてくれた。だから大丈夫だと思うのに、嫌な胸騒ぎが止まず深夜に教会に押しかけることになったのだ。


初老の司祭は怯えたようにクラウドから目を逸らす。何か予期せぬことが起こったのは明白で、詳細を訊ねるため口を開きかけた時、扉を叩く音が聞こえた。

室内に入ってきたのは一人の聖女だった。


「私の力不足で申し訳ございません」

涙ながらに語る少女の態度にどことなく違和感を覚えたが、続く言葉にそれどころではなくなった。

「カルロ様はお亡くなりになる直前まで、クラウド様のことを案じておられました」


(カルロが……死んだ?)

警戒心が強く、祓魔士としても才能に秀でたカルロが簡単に命を落とすなど信じられなかった。だが司祭の沈痛な表情を浮かべており、聖女が嘘を吐く必要もないだろう。


「…何があったのですか?」

カルロの死を現実のものと受け止めたクラウドは、己の為すべきことを冷静に判断していた。意趣返しをするつもりはないが、カルロを殺せる危険な存在を野放しにしておくわけにはいかない。


「あの方が、ユーリ様が魔物に魅入られてしまい、止めようとしたカルロ様を……ううっ」

聖女がたまりかねたように嗚咽を漏らす。一方クラウドはただ信じられない思いでその言葉を胸の内で繰り返していた。

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