(6)Two Worlds
香助は、後頭部を傾けた。視界は天井で遮られている。緩慢に視線を巡らせると壁面で丸時計が時を刻んでいた。コツコツ、コツコツ。
ぽっかりと空いた隙間に答えを放した。
「退屈だったから」
呟いてから、目の端で美月を窺う。
彼女は、次の言葉を待ってくれていた。それが少しだけ嬉しかった。
背を屈め、膝の間で手を組み合わせた。
「まあ、そんな気持ちもあったんだと思う。退屈で、息苦しくて……どうしようもなかったから、違う空気が吸いたかった」
朝起きて。飯食って。学校へ行って。また眠って。
そんな毎日をずっと繰り返していたら、あるとき不意に……足元が崩れるみたいに、からだに力が入らなくなった。
いつまでこれは続くのだろう?
明日も変わらないのは確実だった。
なら一か月後は? 一年後は? 十年後は?
辿り着く先に何がある?
「一度でもそんな虚しさがもたげると……もう駄目だった。箱詰めの電車ん中が、窮屈で、怠くて、狂いそうだった。へらへらしてるやつらが全部クソに見えてきて……まともに相手すんのが馬鹿らしくなった」
どうしてこいつらは笑っていられるのだろう?
どうして逃げ出したいと思わないのだろう?
この苦しみが俺だけのものであるはずがない。
みんなもがいているはずなのだ。生き苦しくて仕方がないはずなのだ。
なのに、どうして我慢する? どうして平気なふりをする?
親父も。おふくろも。教師も。学校の奴らも。何が楽しくて生きてるんだ?
「答えはすぐに見つかったさ。何てことはない。抜け出す方法がないだけだ。どれだけ不安に襲われても、辿り着く先に何もなくても、目を逸らすことしかできないんだ。俺だって同じだ。すぐに諦めた。でも嘘にすがりたくはなかった」
平穏な日常なんて虚仮にしか見えなかったし、引き続き世界は最悪だった。
「だからさ、君がぶっ壊してくれたらせいせいするって……そんな気持ちもあったんだと思う。最初はね」
「最初は?」
美月が、軽く先を促す。
「今は、違う?」
「どうかな。なくなったと言えるほど心境の変化があったわけじゃない。今でも、そんな未来は刺激的だ。でも……」
彼女は首を傾けた。些細な仕草に従って黒髪がさらりと頬を撫でた。艶めく絹糸は柔そうな腕、そして指に絡んでいた。その肌に透けて浮かぶ、青い、血液の筋。
いつか血の海で喘いでいた彼女の姿を、忘れてはいない。
「……俺たちが被害者なら、君だってそうだろ」
自然に言葉が滑り出た。
彼女の冷たい手を掴み、握り締める。
そう、世界は最悪だった。
平穏な日常なんて欺瞞だった。
薄っぺらな擬態を剥がせば、在るのは虚無と苦悩だけじゃない。
略奪と搾取、そして呻きが在った。
無害を装う連中の胃袋だって、大量の消費で満たされている。
何も特別なことなんてない。初めから世界はそうなのだ。
生きるために他者を殺し、生き残るために他者を殺す。
だったら怪物は誰だ?
「誰もが誰かの怪物なんだ」
見つめ返してくる彼女に告げた。
「なら俺は、自分が死なせたくないものを死なせないようにする。それだけだよ」
その宣言は、確かに、僅かな間、息苦しい世界に留まっていた。
やがて言葉の残滓に重なるものがあった。歌だ。待合所のモニターに歌う少女が映し出されていた。ニュースが終わり、別の番組が流れているらしい。誰が、どうして歌っているかは分からない。寂しくて、物哀しい曲だった。淡々と奏でられるピアノの調べ。憂いを帯びた美しい歌声。儚い音色はヴィオラに煽られ、次第に感情の色を強めていく。
「……私は、恐らく、元々この海域には存在しない生き物だ」
歌の終わりに、美月は言った。
「この近海で放卵すれば海は汚染される。魚を主食とするこの土地の人間は多大な影響を受けるだろう。君の同胞は大勢死ぬ。君の家族も、三幸来も無事ではいられないかも知れない。それでも私に協力するのか?」
真面目腐った貌で訊いてくる。
どうにも可笑しさが込み上げてきた。
「今さら訊くことじゃないだろ?」
その答えを、彼女は静かに受け入れてくれた。
握られた手を持ち上げ、柔らかく微笑んだ。
「君は狂っている」
心の底から嬉しそうで、魅力的な笑みだった。
不意を突かれた香助に、彼女は得意そうな貌をした。
「どうだ? 私の擬態もだいぶサマになってきただろう?」
使いどころ間違えてるよ。
顏を逸らして頬を掻くと、彼女は「その通りだな」とまた笑った。
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