第三部
夢か現か
手当たり次第に指を咥えて眺める無節操な僕の口癖は、「いいな」だった。筆舌に尽くし難い歯痒さが常について回り、腹八分目でおあずけを食らっているような飢餓感があった。複雑怪奇な心情を棚上げし、乱暴に欲求不満と一言で断じてしまうのならば、自慰行為によって自分を慰めればいい。僕からするとそれは、全くもって見当違いな筋道に違いなく、件の一件によりハッキリした。
耄碌した後期高齢者が免許の返納を怠って、歩道を乗り上げる光景は再三見てきた。だが、当事者としてそれを間近に捉え、時の運などと説明されても納得がいかなかった。家垣と車の鼻頭に挟まれ、ボンネットの上にだらりと上半身を預ける。痛みは感じず、衝撃によって麻痺した身体の不感症が、事の重大さを朧げにし、どこか他人事のように目の前の惨事を眺めていた。町中を走る救急車や警察車両のサイレンを聞いて、僕はようやく渦中の中心人物として配置されたことを自覚する。
「おい! 大丈夫か!」
山と積まれた物の中から一つを引き抜くように、鈍重な動きで車は後退していき、物と物の間に挟まる滑稽な姿勢から解放された。見知らぬ男二人から、両脇を支えられて病床に移すかのように地面へ寝かせられる。
「じきに救急車が来るから」
慰めるような震えた声は、息を引き取る前の人間に混乱を与えない為に気丈に振る舞おうと善処する姿であった。思っている以上に症状は深刻であることが伝わり、僕はそぞろへ下半身に目を向けた。丸太の受け口として不自然に凹んだ腰は、太腿にかけて辛うじて繋がっているように見え、瞬く間に汗が吹き出して止まらない。唇が青ざめるのが鏡を見ずとも分かり、くらくらと頭は左右に揺れだす。
「はぁはぁ」
息は一段と乱れ、僕は思わず男の手を握った。酷い吐き気に襲われると、寒気が上半身に現れて痙攣めいた震えをもたらす。
「! っだ」
耳すら遠くなり始め、遂に僕は意識を失った。恐らく悪夢を見ていたのだろう。目を開けたときに、舌を掴まれて引っ張られたかのようなピリピリとした痛みを覚えた。目が勝手に転がる疲労感は、長い間眠っていたことの証だろう。首を回してみると、筋が伸びるのを感じ、同じ形で長らく枕に埋まっていたことを知る。手掛かりが一つもない殺風景な部屋の様子と作務衣のような服によって、ここが病室であろうことは、簡単に答えは出た。
「あー」
声を出して身体の案配を確かめたものの、事故を省みるとお門違いな動作確認である。窓の外の景色は曇り空ばかり映しており、周囲の建物などと照らし合わせて居場所を推測することも叶わなかった。脳と直結する視覚による情報は体よく形成されがちだ。今眼前にあるはずの現実さえ、もしかしたら仮初のものかもしれない。しかし、息を吸って吐く僕という存在がいるかぎり、虚飾だと看破しようと励めば、精神疾患を疑われ夢見がちな人間として収容されるだろう。
「……」
あの事故は本当に起きた。そして今、病床の一つを埋める患者として、ここに運び込まれた。磨りガラスを一枚挟んでいるかのような曖昧とした頭の中は次第にクリアになっていき、現状を正確に認識し始めていた。僕は恐る恐る、身体に掛けられている布団を剥がしていく。
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