それは現実に

「ご馳走様でした」


 知らぬ間に根付いた仏教徒ならではの手を合わせてお礼を呟けば、アイは小首を傾げて疑問を顔にぶら下げた。風習を詳らかにするとなれば、それ相応の知見が必要となり、間違った見識を衒学的に披露するのは憚られた。そして何より、面倒だ。


「出ようか」


 有耶無耶にしようと席から立ち上がれば、怪訝な目付きを生んでしまい、対応が如何に下手を打ったかを物語る。ただ、アイが銀貨らしきものを長机に置いたのを見て、後ろ髪を引かれるようなもどかしさに立ち往生するより、颯爽と出入り口の扉を開いた。


「あっ、そうだ。実際にアレを見てみましょうか?」


 アイは突飛にそう言って、俺の背中を押した。まるで教室から廊下に押し出されて放課後を仲睦まじく過ごそうとする男女の営みが頭をよぎり、そぞろに頬が緩む。


「アレって?」


 言葉は必要なかった。身体が宙に浮かび上がり、立ち泳ぎを許容する足が地に着かない浮遊感は、鳩尾に拳ほどの空気を送り込み、内臓が持ち上がった。


「おぉ!」


 町民の歓声を足の裏に感じながら、辺りの景色が見下ろせるほどの高度になると、未だかつてない震えを催し、高所恐怖症だったことを初めて知った。


 筆塗りしたかのような茶褐色の地面が折り重なる先で、山脈や青々とした森林が並び立つ中、覗き込むのに苦労する霧深い特異な景色があり、アイはそこを指差した。


「あそこにいるんだ。アレは」


 アイが「アレ」と呼んで睨み付ける横で、俺はひたすらその正体を看破しようと励めば、霧の中に動く影のようなものを捉えた。それはまさに、バエルが敵役に選んで無謀にも挑もうとする存在であり、食物連鎖の頂点に立つ存在だと言って過言ではなかった。


「バエルさんも難儀なことを考える」


 あまりに逸脱した義憤は、往々にして偽善者と囃し立てられ、追随者を寄せ付けない孤高な立場に追いやられがちだ。逆風にさらされる異世界の中でそれはより色濃く、もはや高尚とも言うべき英雄的思想となり、神の恩恵を押頂くような心持ちを生む。


「バエル様は頼られてしまったから」


 異世界を牛耳る力すら持っているかもしれないバエルにとって、他人の声など羽虫にも等しいはずだ。にべもなく振り払い、己が道を行けばいい。だがバエルは、異世界を救おうと立ち上がり、その勇猛果敢な姿勢でもって、俺とベレトを巻き込もうとしている。


「自分一人で完結しない願望は、傍迷惑なだけだな」


「……」


 ゆくりなく吐いてしまった苦言にアイは苦虫を噛み潰し、今にも歯軋りを立てて怒り出しそうな握り拳を見るに、俺は異世界に住む一人の人間としての危機感が欠けていると口に出さずに言われているような気がした。


「寒いな」


 俺がそう言うと、アイは慌てて荷下ろしをするように降下していき、豆粒に見えていた町の景色が立体的に立ち上がり始める。今いる場所から地続きにある問題と相対し、右も左も分からないまま、「はい」か「いいえ」の二者択一を状況に合わせて使いこなす今までの道程が、如何に無節操で無鉄砲であったかを思い知る。


「城に戻って魔術の使い方を学びましょう」

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