ヘルカート通りの魔犬 9
無防備に倒れた青年を白い瞳が見つめている。
ノーマン・ヘイミッシュはぼんやりとした印象を与えるが、華奢かと言われると全くそんなことはない。
いつもコートを着ているから分かりにくいが元軍人で鍛錬を怠っていないから筋肉質だし、運動神経も良い。喧嘩を好んでいるわけではないが、弱いわけがない。危ないスラムを歩いても危なくはない男だ。
頭だって良い方ということはエルティールが良く知っている。
≪アンロウ≫の事件を解決する時、エルティールが隣にいれば探偵役は彼だ。
魅力的な雄であると、彼女は知っている。
そんな男は今、自分の下敷きになっている。
そして彼女は思うのだ。
――――――ほんの少し力を入れたら、自分は彼を殺せるだろうな。
なんて。
彼は人間で、自分はバケモノで。
腕を押さえつけている前足に力を入れれば彼の腕は潰れるだろう。
大きな口を少し開いて閉じれば首は裂けるだろう。頭だってもげるかもしれない。
息を吸う様に。
バケモノである自分は彼を殺せる。
これはただの事実。
その事実を踏まえて、彼に傅いてるのが自分だ。
それはなんというか―――――興奮する。
「くぅ」
「ん、はは」
ぺろりと顔を舐める。
無防備に、無邪気に彼は笑っている。
はたから見れば巨大な犬に食われる寸前だというのに。
全く危機感がない。
そんな様子を見るたびに体の中心が熱を持つ。
彼は初めて出会った時からそうだった。
1年半前のことだ。
≪アンロウ≫に目覚めたばかりで、喋れもせず、黒犬になって何も分らなかったエルティールは震えていた。
世界がひっくり返った、では足りない。
何もかも変貌してしまった。
世界がではなく自分が。
震えて、怯えて。
地獄に落ちたと思った。
自分だけが地獄にいると思った。
そんな自分を彼は拾ってくれたのだ。
その時のノーマンは、自分が≪アンロウ≫ということも気づいていなかった。
ただの何気ない気まぐれ。
その気まぐれに彼女は救われた。
異能の使い方を学び、ノーマンの相棒として≪アンロウ≫事件解決をするようになった。
別に、自分以外の≪アンロウ≫はどうでもいい。
どうでもよくない≪アンロウ≫は3人ほどいるが、それは置いておいて。
「ノーマン様」
「うん?」
ぺろりと最後に一舐めして顔を上げた時、彼女は姿を人間のそれに戻していた。
黒ではなく金の髪が体を伝って零れ落ちる。
顔は目と鼻の先。
白く輝く瞳が薄いブルーの瞳を捕らえる。
豊かな双丘がふにゅりと彼の胸板で柔らかく潰れ、呼吸と共に僅かに、けれど確かにその感触を伝えていた。変わらず両肩に置かれた両腕は白く肉感的に伸びている。長い髪が天然のドレスとなり透き通るような背中を覆い、マシュマロのような大きいお尻に散っていた。
その手だって、力を入れれば彼の肩を砕くことが可能だ。
『
巨体や僅かに光る眼、大量の肉を好む趣向はそうだし、目隠しをしていても嗅覚が視覚の代理にできるし、『
このまま、彼を殺すことなんて簡単なのに。
「ふふっ」
「? 楽しそうだね」
「えぇ……はい、とても」
体が揺れる。
潰れた胸が弾む。
「ノーマン様、恐ろしくはありませんか?」
「ある意味では恐ろしい。君の体は凶器だね」
「あら」
「そっちの体も犬の体も、柔らかいし、すべすべだ。全く男にとってそれの方がよっぽど凶器だよ。主に理性とかに対してね」
「――――うふふ」
この人は、エルティールを恐れない。
人間の皮をかぶった自分も。
バケモノのまま、ありのままの自分。
エルティール・シリウスフレイムをありのままに受け入れてくれる。
傍において、お世話をすることを許してくれる。
自分が少し気まぐれを起こせば死んでしまうのに。
殺してくださいと言わんばかりに無防備だ。
「―――ん」
ぺろりと、首筋を舐める。
ぴくりと、彼の体が震えた。
舌に感じる汗と肌の味。
その下の血はどんな味がするのだろう。
気になるけれど、知りたくない。
彼は自分を人間として扱ってくれるのだから。
味わうのは血でなくていい。
「それでは、ノーマン様」
「うん?」
首筋から耳元へ唇を動かす。
ぷるんとした唇から熱い息が漏れた。
地獄であろうと焼き尽くすような熱を込めて。
ありったけの忠誠と獣性を秘めながら囁くのだ。
「ブラッシングの次はシャワーをお願いします。シャワールームは狭いので、こちらの姿で――ね?」
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