ヘルカート通りの魔犬 8
「義憤だったんだよね、彼女のモチベーションは」
ブラシをかけながらノーマンはそんなことを言う。
「くぁ?」
欠伸しながら答えたエルの姿は人ではなく、黒犬のものだった。
ノーマンの下宿、リビングに巨体を伸ばし寛いでいた。
普段外で纏う黒のレインコートは外され、彼は彼女の漆黒の毛並みにブラシを通していた。
毛づくろいだ。
仕事の後はノーマンが自ら彼女にブラッシングするのが二人の習慣になっていた。
彼女の毛は独特な光沢があり、滑らかな手触り。
ブラシを丁寧にゆっくりと動かしながらノーマンは言葉を紡ぐ。
「ジャクリーン・ハーレイは兄に売られて違法の売春宿で働かされていた。今18で働き始めたのは12だった……6年間。どんな青春を過ごしたかは想像したくないね」
「わふ」
「全くだ。どうせ碌でもない。大事なのは6年間彼女はあの宿で過ごし、生き延びたっていうこと。6年間、兄に売られ続けて、誰とも知らない金持ちの餌になり続けた」
欲望の為に働かされて、欲望に晒される。
彼女は6年間ただの道具だった。
誰かの醜い欲を満たす為だけの馬車車。
「わん?」
「いいや、それだけじゃない。あの売春宿、子供がいただろう? 勿論子供だけじゃないけど、その中でも彼女は年長者でベテランなわけだ。きっと見て来たんだろうね――――6年の間、使い捨てられた子供たちを」
違法の売春宿。
年齢も問わないというが、この場合は幼い子供が商品になるという話。おまけに欠損している子もいたし、ジャクリーン自身傷だらけだ。働きながら死んでしまったり、精神的に壊れてしまう子供もいただろう。
「あそこらへんは治安が良くない。ホームレスは勿論、孤児だっている。あの手の店で働かされるのはそういう類かジャクリーンみたいに売られた子だ。共感することもあっただろうし、その子たちや自分を苦しめる男というものを恨んでいたんだろうね」
「くぅん?」
「ホームレスも同じさ」
ブラシを動かし、耳の裏を撫でる。
ピコピコと耳が揺れた。
「売春宿で壊れた商品をどうするか? 簡単だ、捨てるんだよ。どこに? 適当に路地裏に転がせばいい。勝手にホームレスが拾ってくれる。最初の3人もそうやって自分たちの欲を満たしていた」
それ自体は左程珍しい話ではない。
治安の悪い地域やスラムでは女の子が歩くのは自殺行為にも等しい。ノーマンだってエルティールが『
ホームレスの生活環境は『廃棄王』から貰ったメモから解った。
あの3人が性生活には満たされていたことが。
違法の売春宿で用済みになった商品を再回収していたのだろう。
ホームレスとは別に物を持たないわけではない。
家がないだけだ。
「当然彼女はそれを知っていた、怯えていただろう。次は自分の番かもって。だけど」
だけど。
彼女は≪アンロウ≫になった。
人から、皆から外れたバケモノに。
「≪アンロウ≫になった彼女はすぐに自分の異常さに気づいた。そしてわりと頭が良かった。或いは客の貴族から学んでいたのかもね。ただ兄を殺すだけでは何も変わらない。彼女は自分がいた売春宿と自分たちを弄んだ男たちを恨んでいた。それ以上に―――許せなかった。だから、殺して、殺し続けた」
どうして?
許せないから。
義憤。
正しいことをするべきだという憤り。
許せないから殺す。
それが彼女の
「後は単純な話。ホームレスを3人殺して、自分を売った兄を殺して、自分を買い続けた貴族を殺した」
「わふ」
「個人的な恨みより義憤が強いと思ったのはお貴族様をバラバラにしたあたりからかな。恨みだけだったら兄もバラバラにしてただろうし。兄は社会的に見たら子悪党だけど、あの売春宿を運営していたのは概ね貴族の後押しによるものだしね」
バラバラ殺人は異能を使ってたからと思ったけれど。
単純な話。
人をバラバラする理由。
―――――許せないから。
殺すだけでは飽き足らないから。
「もっと詳しく言えば見せしめだね」
「わん?」
「ホームレスや労働者を殺しただけじゃ大した問題にならない。でも貴族が死ねば大事になる。実際なったし、売春宿も明るみに出た。刑事さんが調査したから『上』ももみ消しきれないだろう。結果的に彼女は目的を達成した。義憤―――あの売春宿を潰したいってね」
「くーん?」
「そうだね。狙ったのが五人か一人か誰も狙っていないってのは言葉遊びでもなくただの事実さ。目的のために5人を殺した。個人的な恨みで一人を殺した。或いは別に5人じゃなくてもよかったんだ」
警察によって存在が明るみに出たのなら、商品は被害者になって保護されると彼女は踏んだ。
多分、もし明るみにでなかったのなら連続殺人事件のカウントが5から増えただろう。
あそこにはあの宿に通っていた貴族の名前もある。
偽名を使っていた者もいただろうが、調べれば解ったはずだ。
それが彼女の正体。
心を、体を切り刻まれた少女
男の醜い欲望が生んだ地獄。
そこそこの恨みとありったけの義憤に駆られて。
正義が下るまで―――何度でも。
振り下ろされる正しさの爪。
正しいからって何をしたって良いとは思わないけれど。
『
みんなから外れて――――そのまま、外れたきり。
地獄が生み、地獄を生む切り裂き魔。
最も、そんなバケモノに牙を剥いたのは地獄のハウンドだというのだから皮肉な話だ。
「とまぁ、解決編はこんな感じで終わりかな。細かいところのミスや勘違いはあるだろうけど俺は探偵でもないし」
「わふ」
「ははは、そうでしょ? 暇つぶしにはなった。さて、ブラッシングはこのくらいかな」
「くぅん」
寝そべっていたエルティールが体を起こす。
ふるふると体を震わした後、床に座ったノーマンの周りをくるりと一周し、
「わっ……ははは、くすぐったいよ、エル」
「わふっ」
ぺろり。
ぺろぺろ。
ざらりとした大きな赤い舌がノーマンの顔を舐め回す。
くすぐったさに彼は思わず笑ってしまう。
黒妖犬の姿の彼女の口はノーマンの頭がすっぽり収まるほどに大きく、少しでも牙が掠めたら首を裂いてしまうだろう。
けれどノーマンは気にしなかった。
笑いながら彼女を受け入れている。
「くぅーん」
「おっと」
大きな前足で、エルティールはノーマンを押し倒した。
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