第2話 橘の頼み事

「? それって・・・どういうことでしょうか」


 翔吾しょうごは首を傾げた。


「そのままの意味だよ。俺の友人をここに住まわせてやってほしい。家賃──つまり宿泊費は俺が払う」


「はあ、そういうことなら構いませんが」


 住まわせるという言い方は不自然だが、要は友人をここに宿泊させたいということなのだろう。

 払うものを払ってくれるのなら、翔吾に不満はない。むしろ、ありがたいくらいだ。


 翔吾はカウンターの下から宿泊台帳を取り出した。


「宿泊の期間は? いつからいつまでの予定でしょうか」


 たちばなはニヤリと笑みを浮かべた。


「明日連れてくる。いつまでっていうのは・・・まだ分からん。とりあえず、一週間分の宿泊費を払っておこう」


 翔吾は怪訝けげんそうな顔をした。


「分からないって・・・」


「いいじゃないか、部屋は余ってるようだし。そうだ、宿に泊めている間は、友人をここの働き手として使ってくれて構わない」


「は?」


 突拍子もないことを言われ、翔吾は余計に困惑した。


「もちろん給料を払う必要はない。友人もそれで構わないと言うはずだ」


「ええっと・・・」


 翔吾は無意識のうちに、宿泊台帳の表紙を指でトントンと叩いた。


 どうにも、妙なことを頼まれている気がする。

「住まわせてやってほしい」という言い方や、決まっていない宿泊期間。それから「働き手として使ってくれて構わない」というおかしな言い分。


 この会話には違和感を覚える。

 最初はありがたいと思っていたが、だんだんと警戒心が込み上げてきた。


 翔吾は取りつくろったような笑みを浮かべた。


「橘さん、悪いけど──」

「俺はね、君のことを頼りになる人物だと思っている」


 橘が翔吾の言葉をさえぎり、出し抜けにそう言った。絡みつくような声で。


「・・・」

「・・・」


 沈黙が流れる。

 翔吾は腹の内を探ろうと橘の鋭い目を見つめたが、彼の表情を読むことはできなかった。

 橘の口角はわずかに吊り上がっている。だが果たして面白がっているのか、それとも怒っているのか。それすらも分からない。


 翔吾は腕を組んだ。


 頼み事を断って橘の気分を害してしまったら、大事な常連客を一人失うことになるかもしれない。


「橘は名家の息子で地主であるらしい」という噂を、近所の商店街で耳にしたことがある。

 出所不明の怪しい噂であったが、そんな訳あるかいと一蹴することもできない。

 橘はなんというか、底の知れない男なのだ。

 彼が何を生業なりわいにしているのかは知らないが、その正体が街の権力者であったとしても、翔吾は驚かない。


 若く未熟な経営者として、そういう人物とは仲良くしておくべきだろう。


「・・・分かりました、引き受けましょう」


「助かる。じゃあ明日の朝、ここに連れてくるから」


 橘はそう言い残すと、缶コーヒー片手にさっさと巳澄みすみ屋から出ていった。

 残された翔吾は椅子にどさっと腰を下ろし、額に両手を当てた。


「面倒だな・・・」


 ここ最近、翔吾は身体の不調に悩まされていた。やたらと肩が凝るし、頭がよく痛むのだ。それに気だるさも感じる。

 妙な頼み事を引き受けてしまったせいで、ストレスから症状が悪化するかもしれない。


「はあ・・・」


 翔吾はしばし目を閉じて、気持ちを落ち着かせた。そしてぱちっと目を開けると、気を取り直して宿泊台帳を開いた。


 大丈夫、結局のところ、常連客の友人を宿に泊めるというだけなのだから。

 嫌な予感がするのは、きっと気のせいだ。


 翔吾はペンを持ち、少し悩んでから「橘様のご友人、チェックアウト日は未定」と書き込んだ。


────────


 翌日は、朝から湿度が高かった。室内にいても、なんとなく体がベタベタする。


 翔吾は住居から巳澄屋に出勤し、夜勤のスタッフと交代した。

 いつも通り、売店で陳列棚の整理を始める。だが、翔吾の頭の中は今日やってくる橘の「友人」のことでいっぱいだった。

 朝と言っていたが、橘は一体何時頃来るつもりなのだろう。


 落ち着かない気分で過ごしているうちに、ガラスドアがガラリと開いた。

 時刻は午前十時。ついに橘がやってきたのだ。


「やあ、翔吾君。おはよう」


 橘は機嫌よさそうに入ってきた。


「橘さん、おはようございます」


「昨日話した通り、友人を連れてきたよ」


 橘はそう言って背後を振り返ったが、背後には誰もいなかった。


「おや? おいおい、何をしてるんだ」


 橘は呆れた表情で再びドアを開け、巳澄屋の外に声をかけた。


 巳澄屋の外には、ぼんやりと地面を見つめている男の姿があった。

 翔吾と同年代くらいだろうか。

 背の高い男だ。翔吾や橘よりも背が高く、均整のとれた体つきをしている。


「ほら、早くこっちに来てくれよ」


 橘に声をかけられ、外の男はゆっくりと顔を上げた。


 中から様子を伺っていた翔吾と、その男の目が合った。

 翔吾は思わず、一歩後ろに下がってしまった。男の瞳がやけに暗く、恐ろしく見えたからである。

 同時に、翔吾は男の顔立ちが整っていて美しいことに気がついた。同性から見ても、その男には人を惹きつける魅力のようなものがあった。


「彼が、俺の友人だよ。名前は・・・依月いつきと言う」


 橘が言ったその名前は、翔吾の記憶に一瞬で刻み込まれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る