第2話 橘の頼み事
「? それって・・・どういうことでしょうか」
「そのままの意味だよ。俺の友人をここに住まわせてやってほしい。家賃──つまり宿泊費は俺が払う」
「はあ、そういうことなら構いませんが」
住まわせるという言い方は不自然だが、要は友人をここに宿泊させたいということなのだろう。
払うものを払ってくれるのなら、翔吾に不満はない。むしろ、ありがたいくらいだ。
翔吾はカウンターの下から宿泊台帳を取り出した。
「宿泊の期間は? いつからいつまでの予定でしょうか」
「明日連れてくる。いつまでっていうのは・・・まだ分からん。とりあえず、一週間分の宿泊費を払っておこう」
翔吾は
「分からないって・・・」
「いいじゃないか、部屋は余ってるようだし。そうだ、宿に泊めている間は、友人をここの働き手として使ってくれて構わない」
「は?」
突拍子もないことを言われ、翔吾は余計に困惑した。
「もちろん給料を払う必要はない。友人もそれで構わないと言うはずだ」
「ええっと・・・」
翔吾は無意識のうちに、宿泊台帳の表紙を指でトントンと叩いた。
どうにも、妙なことを頼まれている気がする。
「住まわせてやってほしい」という言い方や、決まっていない宿泊期間。それから「働き手として使ってくれて構わない」というおかしな言い分。
この会話には違和感を覚える。
最初はありがたいと思っていたが、だんだんと警戒心が込み上げてきた。
翔吾は取り
「橘さん、悪いけど──」
「俺はね、君のことを頼りになる人物だと思っている」
橘が翔吾の言葉を
「・・・」
「・・・」
沈黙が流れる。
翔吾は腹の内を探ろうと橘の鋭い目を見つめたが、彼の表情を読むことはできなかった。
橘の口角はわずかに吊り上がっている。だが果たして面白がっているのか、それとも怒っているのか。それすらも分からない。
翔吾は腕を組んだ。
頼み事を断って橘の気分を害してしまったら、大事な常連客を一人失うことになるかもしれない。
「橘は名家の息子で地主であるらしい」という噂を、近所の商店街で耳にしたことがある。
出所不明の怪しい噂であったが、そんな訳あるかいと一蹴することもできない。
橘はなんというか、底の知れない男なのだ。
彼が何を
若く未熟な経営者として、そういう人物とは仲良くしておくべきだろう。
「・・・分かりました、引き受けましょう」
「助かる。じゃあ明日の朝、ここに連れてくるから」
橘はそう言い残すと、缶コーヒー片手にさっさと
残された翔吾は椅子にどさっと腰を下ろし、額に両手を当てた。
「面倒だな・・・」
ここ最近、翔吾は身体の不調に悩まされていた。やたらと肩が凝るし、頭がよく痛むのだ。それに気だるさも感じる。
妙な頼み事を引き受けてしまったせいで、ストレスから症状が悪化するかもしれない。
「はあ・・・」
翔吾はしばし目を閉じて、気持ちを落ち着かせた。そしてぱちっと目を開けると、気を取り直して宿泊台帳を開いた。
大丈夫、結局のところ、常連客の友人を宿に泊めるというだけなのだから。
嫌な予感がするのは、きっと気のせいだ。
翔吾はペンを持ち、少し悩んでから「橘様のご友人、チェックアウト日は未定」と書き込んだ。
────────
翌日は、朝から湿度が高かった。室内にいても、なんとなく体がベタベタする。
翔吾は住居から巳澄屋に出勤し、夜勤のスタッフと交代した。
いつも通り、売店で陳列棚の整理を始める。だが、翔吾の頭の中は今日やってくる橘の「友人」のことでいっぱいだった。
朝と言っていたが、橘は一体何時頃来るつもりなのだろう。
落ち着かない気分で過ごしているうちに、ガラスドアがガラリと開いた。
時刻は午前十時。ついに橘がやってきたのだ。
「やあ、翔吾君。おはよう」
橘は機嫌よさそうに入ってきた。
「橘さん、おはようございます」
「昨日話した通り、友人を連れてきたよ」
橘はそう言って背後を振り返ったが、背後には誰もいなかった。
「おや? おいおい、何をしてるんだ」
橘は呆れた表情で再びドアを開け、巳澄屋の外に声をかけた。
巳澄屋の外には、ぼんやりと地面を見つめている男の姿があった。
翔吾と同年代くらいだろうか。
背の高い男だ。翔吾や橘よりも背が高く、均整のとれた体つきをしている。
「ほら、早くこっちに来てくれよ」
橘に声をかけられ、外の男はゆっくりと顔を上げた。
中から様子を伺っていた翔吾と、その男の目が合った。
翔吾は思わず、一歩後ろに下がってしまった。男の瞳がやけに暗く、恐ろしく見えたからである。
同時に、翔吾は男の顔立ちが整っていて美しいことに気がついた。同性から見ても、その男には人を惹きつける魅力のようなものがあった。
「彼が、俺の友人だよ。名前は・・・
橘が言ったその名前は、翔吾の記憶に一瞬で刻み込まれた。
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