第1話 翔吾の溜息

 六月上旬の昼下がり。

 巳澄みすみ翔吾しょうごはフロントデスク兼レジカウンターの内側で椅子に座り、地方紙を読んでいた。


 ここは、並ヶ谷なみがやという街にある宿屋の一階。

 宿の名前は巳澄屋。翔吾の祖父が始めた宿であり、今は翔吾が主人の役目を務めていた。


 三階建てのこぢんまりとした宿で、ここ一階はフロント兼売店となっている。

 売店では食料品と、それからちょっとした生活用品なんかを販売していた。


 巳澄翔吾は今年で35歳になる。身長は167センチであり、男性の平均身長からすると、あまり高くはない。

 眉目びもく秀麗しゅうれいとまではいかないが、優しげな顔立ちはハッキリとしており、愛嬌があった。


 パラパラと地方紙をめくっていた翔吾は、不意にその手を止めた。


「ん?」


 隅に掲載されている記事が、翔吾の意識をグッと引き寄せたのだ。

 その記事には見慣れた名詞が登場していた。


 並ヶ谷、それから良並よなみさん

「良並山」は巳澄屋のすぐ近くにある、標高の低い山のことだ。


 記事を読んだ翔吾は、思いきり眉をひそめた。


「なんだ? 物騒だなあ」


 記事によると、良並山で男女の遺体が発見されたらしい。

 警察は心中事件と考えており、女の方が無理心中を図ったものと見られているようだ。


 翔吾は憂鬱な気分になった。

 巳澄屋は良並山のふもとに位置しているのだ。山を登りに行く人が、売店だけを利用しにくることも多い。

 良並山に物騒なイメージがついてしまえば、売上に悪い影響が出るだろう。


 翔吾は地方紙を畳み、溜息をついた。

 ふと顔を上げると、巳澄屋に近づいてくる男の姿がガラスドア越しに見えた。

 男はドアの前で足を止めると、翔吾が中から見ていることに気がつき、フッと笑みを浮かべた。


 ガラスドアがガラリと開かれる。

 翔吾は椅子から立ち上がり、入ってきた男に声をかけた。


たちばなさん、こんにちは」

「どうも、お邪魔するよ」


 橘は右手を軽く挙げて挨拶すると、売店に並ぶ陳列棚を物色し始めた。

 他に客もいないので、翔吾はカウンターから橘の姿をぼんやりと観察した。


 橘は細身でひょろりとしている。いつも丸メガネをかけていて、目つきはやや鋭い。

 年齢不詳で、30代にも40代にも見える。

 翔吾は橘のことを自分より年上だと考えているが、実際のところはよく分からない。


 そして彼は、巳澄屋のいわゆる「常連客」だ。


 売店に買い物をしにくることが多いが、なぜか宿に泊まることもある。

 この街に住んでいる橘が、何故わざわざ巳澄屋に宿泊するのか。それは謎だったが、翔吾は特に気に留めてはいなかった。


「これを頼む」


 橘はそう言って、缶コーヒーをカウンターの上に置いた。


「はい、ありがとうございます」


 会計を済ませると、橘は何か言いたげな様子で翔吾を見た。


「・・・どうかしたんですか?」


 翔吾に尋ねられると、橘はカウンターの後方にある階段をスッと指し示した。階段を上がった先の二階と三階は、宿泊用のフロアとなっている。


「宿の方はどうだい? 忙しいのかい?」


 翔吾は肩をすくめた。


「残念ながら、暇ですよ。今は三部屋しか埋まっていません」


 巳澄屋の部屋数は全部で六つだった。半分しか埋まっていないというのは決して嬉しい状況ではないのだが、橘はそれを聞いて何故か満足げに頷いた。


「うん、つまり部屋は空いているということだな」

「? お泊まりになるんですか?」


 橘は首を横に振った。


「いいや、俺が泊まるわけじゃない」

「はあ、それじゃあ、どなたかお知り合いが泊まる予定で?」

「うん、それに近いな」


 橘は丸メガネの奥に並ぶ目を細めて、カウンターの方に少し身を乗り出した。


「言ってしまうけど、今日は君に頼みたいことがあって来たんだ」


 なんとなく悪い予感がする。翔吾は反射的に胃の辺りをおさえた。


「・・・なんでしょうか」


 橘は缶コーヒーを手でいじりながら、なんてことないように言った。


「預かってほしい奴がいるんだ。そいつを、この宿に住まわせてやってほしい」

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