#009 黎明
「単刀直入にいいます。彼の残した手紙、どこへやったんですか」
僕が電話口でそう言った時、向こうにいるその人のひゅっと、息を呑む音が聞こえた。そして、小さな呻き声が聞こえてくる。なぜか、僕はひどく冷静だった。
「遺書だなんて、こんなふうに送ってきた割に便箋がまさか切り取られたものだなんて、思っていたよりも大胆な方だったんですね」
いつもなら、こんな皮肉がすらすら出ることなんてないのに、僕はあらゆる感情を通り越して無になってしまっているみたいな気分だった。
「僕は、別に真実を知ってしまったからといって、あなたをどうこうしようというつもりはないです。今のところは」
歯を震わせているような音が聞こえてくる。あう、あう、といったような言葉にならない音が漏れ出している。でも、僕はそれでもなぜか心が動じることはなかった。
「もしも聞かれたら、僕はあなただっていうかもしれません。でも聞かれなければ、特別誰かに告げ口をしたりもしないです」
なんでだろう。本当は今にだって、胸ぐらを掴んでやりたいって思うはずなのに、どうしてこんなに僕は落ち着いていられるんだろう。
「あなたがどうやって事実を警察や関係者に隠したのかも興味ないです。聞きたいとも思いませんから、話さなくて結構です。そしてあなたの言い訳も。必要ありません。僕が求めるのはただ一つ、彼の手紙の行方です。僕はただ、彼の真意が知りたいだけだ」
電話口から、聞き取れるか取れないかくらいのか細い声で「捨てた」と言うのが聞こえる。ひどく震えた声だった。きっと、よりにもよってその場から遠く離れたところにいる僕に知られるとはつゆほども思っていなかったんだろう。あからさまな動揺が聞いてとれた。
「……そうですか、わかりました。それなら、もう結構です。ただ、最後に一つだけ」
僕は、とくん、と心臓が動き始める音を感じ、それに酔いながら思考に全てを委ねて言葉を紡ぐ。
「彼は、ずっと家族のことを話していました。あなたには、苦労をかけた分も返していきたいんだ、と。そのために取った彼の行動が、あなたには反抗に見えてしまったんですね」
途端、耳をつんざくほどの怒号が飛んでくる。だってあの子があのクソ男とこっそり連絡をとってあっていたんだもの! 私は悪くない! と小刻みに震えて、涙ぐんだ声で叫んでいる。
「いつだって、あなたのことを思っていただろうに。だからきっと彼は、抵抗しなかったんですね。きっと、苦しくて仕方がなかっただろうに、それでも必死に抵抗しないということを選んだんでしょうね」
防衛本能が働いて引き剥がしたいと体が願ったとしてもなお、人を愛するその心だけで抵抗をしない選択をしたのだと思うと、ずきり、と心が痛むような気がした。
「……手紙が隠されていたその場所を、もう一度探ってみてください。そこになければ、部屋中をあさってでもそれを探してください。たぶん、僕の言葉を証明するものがあるはずですから」
僕は、それだけを言い捨てて、電話を切った。
切る直前に、泣きながらごめんなさいと謝る声が聞こえたような気がしたが、それは僕が聞く言葉ではない。あの人がその後どんな選択を取るとしても、僕にはそれを知る由はない。
一人床にへたり込みながら、昔のことを思い出す。
高校時代、僕が図書部の仕事をしていた日のある昼休みに真は、目が合うなり突然両手のひらを合わせながら頭を下げた。
「昨日も休んじゃってごめん!」
「別にいいよ、俺だって変わってもらうことあるし、お互い様じゃん」
「ありがとう黎明……ふぁ」
「眠そうだね」
「いやあ、バイトがそれなりに大変でさぁっ……!?」
真は、そこまで言いかけて急に両手で口を押さえた。
「……バイト?」
「あっ、い、いやっ!」
「うちの学校、バイトは土日のみじゃ」
そこまで言いかけて、今度は僕の口を塞ぐ。そして左右をキョロキョロと見回したのちに困り顔で人差し指を口の前で立てた。僕がそのままで一回縦に頷けば、ほっとしたように肩の力を抜いた。そうして、僕の隣の空いている席に座って、ため息をつく。
「もしかして、お金に困ってるの?」
「いや、そういうわけではないんだけどさ」
平日の放課後にもアルバイトをしていたことがバレてしまったことにたいして、どうしても罰がわるいらしく、彼はいい淀む。
「バレたら、怒られるかもしれないけど、僕は別にいいと思うよ。真、成績優秀だし。絶対誰にも言わない」
「はぁ……口を滑らせた相手が黎明で本当に良かった!」
どろりと溶けるようにだらしなく椅子に座りながら、真は、そのとき言っていたのだ。
「俺の家、いろいろあってまあ母子家庭ってやつなんだけど、色々大変みたいでさ……。なんか、俺がいるせいで母親が自由になれないんじゃないかって思うとずっと心苦しいんだ」
僕は、このことを聞いていて彼があまりにもいい奴すぎると逆に心配になった。
「父親のほうにも、まぁ、助けてほしいって相談したりはしてるんだけど。でも、それだって微々たるものだし」
どうして僕は、彼のこの時の笑顔を忘れていたんだろう。
彼はそう思うくらいに、夢と希望と、決意に満ちた本心からの最上の笑顔を作っていた。
「いつか、母親に全てを返してあげて、もう俺は一人でも大丈夫なんだ! って、楽にさせてやりたいんだ」
そう、強く、強く……言い放って。
彼にとってその言葉は、反抗の決意だったのかもしれない。守られる側から、守る側になるための、彼の人生に対する反抗の決意——。
ある時に教えてもらった本を読んで俺は、感銘を受けました。お前にもおすすめしてたっけ。西原先生に教えてもらった本なので、もしかするともう読んでいるかもしれません。その感銘の具体的が何かというと、表現をするのが難しい。でもなんとなく俺は、誰にだって運命に抗う権利があるんだなって思って、そしたら俺の中には何にだってなれるし、何だってできるような気分になりました。それから俺は、湯村燐、という人が憧れになったんです。
湯村燐、彼が俺の生きがいといっても決して過言ではありません。
彼がこの世から亡くなったのなら、俺にはもう生きる意味がありません。
ごめんなさい。どうか許して。
そして、なんて情けないんだってまたあの時みたいに笑ってください。生きる意味がないっていうと、少しどころでなくオーバーだってきっとお前は怒るんだろうな。でもそうやって時折、俺を現実に戻してください。理想ばかりを追って先走ってしまう俺を引き止めてください。連絡待ってます。俺がカッコつけて手紙を送ったんだなってことには、どうか見ないふりをしてください。あの時と同じように。
それは、ツルミヤさんの言葉であるはずなのに、なんでか対馬真の言葉のようだった。言葉の言い回しまでまるで彼が書いているみたいに表現されていたあの原稿用紙は、ツルミヤさんが考えた対馬真の物語だった。彼がどういう人で、僕とどう言う関係で、僕のことをどう思っていて、どんな過去を持っていて……ツルミヤさんが考える限りの対馬真の物語がそこには記されていた。偶然が信じられなくなるくらいに全てを的確に言い当てるツルミヤさんはあまりにも人間離れしている。僕は、自分がちっぽけな存在なんだと認識して悔しくなった。
あれはたぶん、遺書なんかじゃなかった。あんな簡潔な文だけを残して死ぬなんてなんて勝手なやつなんだと思っていた僕がきっと愚かだった。封筒に対して便箋の大きさが小さいことにも、その便箋に上下切り取られた形跡があることも、不自然な折り目がついていることも。
ツルミヤさんと出会わなければ、きっと僕はそのことに気づかないで、ましてや真実をしることもなく、どうして勝手に死んだんだろうって悩み続けていたと思う。
もちろん、真実から目を背けたいって思わないと言ったら嘘になる。彼が死んだことはすごく辛いし、なんで抵抗しなかったんだって、どうして死を選んだんだよって言いたくなる。けど、それ以上に僕は今は憑き物が落ちたみたいにすっきりとした気持ちだった。
……『黎明の天使』が選んだ最後は、幸福ではなく、反抗だったのかもしれない。あるいは、復讐だったのかもしれない。そうして、そういう運命の元に生まれたからという言い訳をしないことに意味があったんじゃないかって思う。自分の道は自分で切り開く。天に、運命に左右されるものではない。きっとそれが「反抗」ってことなんだろうな。
眠れない夜を過ごした。
色々なことを考えていた。
ふと、ベッドから起き上がって机に向かい、真新しいノートを取り出して開いた。シャープペンシルを手に取って、自分の考えていたことを全て書いた。書いて書いて、書きまくった。腕が、手首が、中指がだんだんと痛みを訴えていたが、気づかないふりをした。書き続けた。
やがて、夜明けがやってくる。
ようやく我に帰って、寝ようか、と思った時に、右腕が動かなくなってしまっていることに気がつく。正確にいうと、動きはするがかなりぎこちない。自分の汚い字を眺める。しばらく眺めていて、僕はそれを持ち上げる。そして両手で引きちぎった。手を離してやれば、バラバラと頁が足下に降り注いでいく。窓から差し込む朝日は、何も無くなった机上を照らし何かを待っているようである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます