#007 名前
休日に誰かと出かけるなんてこと、いつぶりだろう。
普通列車ロングシートの青い座席には、午前中の中途半端な時間であるせいか人は全然乗っていない。一車両ほぼ貸切みたいな状態だった。横目で隣に座る深沢くんを見る。いつもの少しテンションの高い様子が一切見ることができず、じっと窓の外を眺めていた。
かれこれ三十分くらいは電車に揺られていたような気がするけれど、あたりはもう田舎というか自然豊かというべき光景が広がっていて、このままいったら一時間に一本いやそれ以上に少ない電車しか通らない場所へと行ってしまいそうだ。
「ねぇ」
どうにも無言というのが落ち着かなくなってくる頃で、耐え難くなったために僕は声をひそめて呼びかける。
「深沢くんはなんで今日僕を呼んだの」
「なんとなく、かもな」
深沢くんは、背中を猫背にしながらズボンの両ポケットに手を入れて力なくそういった。小さく左右に体を揺さぶられながら僕は彼の言葉を待ってみる。
「おれ、読んだんだよ。湯村燐の『黎明の天使』」
「僕も。ねぇ、どうだった?」
「どう、か……」
深沢くんはそういうと、すっかり黙り込んでしまう。ほどなくして、スマートフォンをボディバックから取り出した。しかし、彼はそれを開こうとはせず、ただそこにぶら下がっている汚れて色がくすんでしまったイルカのマスコットキーホルダを見ているようだった。多分元々はもっと蛍光色らしい明るい色であったのだろうが、すっかり古くなってしまっていて所々がほつれそうになっている。
「これさ、妹とお揃いで持ってたキーホルダーなんだよ」
「妹?」
「そう、双子のな」
よく考えてみれば彼が家族の話をするのは初めてかもしれない。深沢くん自身の話はよく聞くが、家族の話は初めて聞いた。
「最近じゃあ結果ばっかだし、あいつおれのこと馬鹿にしてくっしでまぁ、ずっと一緒にいるとかはないんだけどさ」
深沢くんは、そのイルカのマスコットを手に乗せながらじっとそれを見続けた。
「……なんで忘れてたんだろうな」
それは、僕に向けられた言葉ではなかった。自問自答して、でもその答えは出ないから続きの言葉が出てこないでいるんだと思う。
「ユノも、セナも、大切な友達だったのに」
「深沢くん?」
彼は、力なくスマートフォンを持っていた手を下ろすと、大きなため息をついて、天井を見た。ところどころにある吊り広告では、電車を使っての移動を推進するようなポスターがゆらめいている。
「おれはたぶん、湯村燐を知っている。ずーっと昔に、おれは彼と出会っていた」
懐かしむように目を静かに伏せる。
「そしてたぶん、おれは天使のこともよーく知っている」
さも当然のようにそう呟く彼の思考から僕の想像力がだんだんと引き剥がされてしまうような感じがして、鳥肌が立った。
「ずっと昔、『午前0時の0番ホームには、極楽行の列車がくる』、そういう都市伝説があったんだよ」
深沢くんは、そうしてぽつぽつと語り始める。
僕は、それを黙って聞いていることしかできなかった。
「でもそれは実際に存在していて、決して都市伝説なんかじゃなかった。『黎明の天使』は、もちろん設定を改変してるんだろうっていうところもあるけど、あの天使の姿だけは、全て事実だ。本当におれも見た天使の姿だったんだ」
すう、と息を吸い、心の中に溜まっていた澱を綺麗に吐き出すように続ける。
「今でも、天使のトランペットの音色は鮮明に思い出される。時には彼に手を繋いでもらって、色々な場所を散歩したっけ。おれと妹は、親に見捨てられた子どもだったからそういう大人の温もりを欲していたから、彼に無理をいってしまっていたのかもしれない。それでも、おれたちにとって、本当は忘れたくない大好きな人だった」
僕は、深沢くんをじっと見つめる。いつもの彼からは想像できないほどの虚無感が漂っていて、どうにも触れにくさや恐ろしさまでも感じてしまう。
「なあ、れーちゃん。天使、なんてお前は見たことがないだろ?」
見たことなんてあるわけないだろ。僕は首を横に振った。
「おれ、あの小説を読んで思った。あぁ、これは水無月瀬那という天使が存在していた事実を残していくために書かれたものなんだって」
がこん、と電車が一揺れしてだんだんとその速度が収まっていく。深沢くんは、深呼吸をしてその後にその場に立ち上がった。
「行こうぜ。その天使の墓に」
「え、あ、ちょっと……!」
そうして彼は乗降車口へと向かい、開くのボタンを押して降りてしまう。僕も、彼に置いていかれないように急いで向かい、そのホームに降りた。汽笛が聞こえて、瞬く間に電車は過ぎていってしまう。
「おれたちが生まれるよりちょっと前くらいにこのあたりで原因不明の大火事があったらしい。立地がよくなかったんだろう。周辺の住民が、森の中から激しい煙が立ち上がっているなんて通報をしてもらうのも、それから現場に向かうのも遅かった。水無月家は全焼し、そこで暮らしていた一家四人が死亡する大事件だったそうだ」
雑草で生い茂ったとても人が通るとは思えないその道を、深沢くんはあゆみ止めることなく、ずんずんと先に向かっていく。僕はとてもついていくのが精一杯で、彼が踏んだ道を辿るようにしていくことしかできなかった。
ようやく森を抜けて、少し開けたところに出る。深沢くんは、さらにもう少し進み、そこで静かに膝をついた。
「……やっぱり、ここだったんだな」
「なにが?」
僕がそう聞くと、こっちへ来いと手招きをされたので大人しく側による。
そこには、すっかり年げつを感じさせるほど風化の始まっている革製の高級そうなトランクケースが置いてあった。ところどころ剥がれてしまっていて、本体となる部分が見えているようなくらいだった。
しかし、それよりも目を引いたのは、そのトランクケースに刻まれた文字だ。ところどころ掠れて読めなくなっているが、端っこに目立たないように添えられていた言葉に僕は目を疑う。
May Angel of the Daybreak Rest In Peace!
——黎明の天使よ、安らかにお眠りください!
カッターナイフか、あるいはもっと硬いもので、歪に英文が彫られている。これは……。
「『黎明の天使』で見た……!」
深沢くんは、大きく一回頷いたあと、すっかり錆びついてしまった鍵を力ずくで開けようと試し始めた。しかし、金属製の頑丈な鍵。その上錆びついているとなれば開けるのは容易ではない。
「たぶん、開けないよ」
僕はそう声をかけたが、全く聞く耳を持ってもらえず、しまいには鍵部分を目掛けてそれを蹴った。しかし、それでもそのトランクケースは開いてくれない。
「ああくそっ! これさえ開いてくれたんならおれはきっと……!」
深沢くんは、静かにそのトランクに拳を振り落として、そしてうずくまった。
「セナは実在してた人なんだって、信じられんのに……!」
僕は、彼に何か声をかけることはできなかった。彼に向けてかける言葉でいいものが見つからなかったからだ。
帰りの電車を待っている間に、彼の話を聞いていた。
「れーちゃんの名前も変わった名前だなって思うけどさ。おれは自分の名前が嫌いで、昔はそれで泣きじゃくったこともあったくらいだよ」
「僕は、綺麗でいい名前だなって思ったけど」
深沢くんは、僕の言葉に信じられないとでも言いたげなほどに不機嫌な顔をする。
「おれの名前、
声色からは、悲しさとかそう言った感情を見せないけれど、きっとこれまでにはたくさんの苦難に出会ってきたんだと思うと、なんだか胸が締め付けられるようだった。
「そういう意味では、天使——セナは俺たちを可愛がってくれた親代わりであり、兄代わりでもあったんだよな。父親というものを知らないからなんとも言えないけど」
「そっか」
「ユノもそうだった。子ども心に、黒髪じゃない人っていうのに興味を持って近づいたわけだが、ユノはいつだって人とは違う目でものを眺めて、寄り添って、見抜いてくれる。セナが、解放されたってんならきっとユノのおかげだ」
深沢くんの姿はすっかり夕日に照らされていて、眩しそうだった。日差しを遮るように手をかざしながらじっとその先をみようと視線を向けている。
「湯村燐……いや、湯野凛太郎は多分死んでなんかない」
「え?」
「だってそうだろ? ユノがいなかったら、誰が天使を覚えてるんだよ。ずっと仲良くしてもらっていたはずのおれだって忘れてしまっていたのに」
でも、確かに湯村燐は亡くなっていて、それは真の遺書で書かれたことだ。正直、彼が生きているか死んでいるかなんて作品が出るか出ないかだけでしか僕たち一般市民にはわからないわけだけれど。それなのに深沢くんからは突然死んでないと言われるものだからどういうことかわからずに僕は首を傾げるしかない。
「湯村燐は、亡くなったんじゃないの? 少なくとも、僕はそう聞いていたんだけど。亡くなったから、今では湯村燐が実は湯野
「……湯村燐も、湯野凛太郎も、ある意味では亡くなったさ」
「それはあまりにも矛盾しているね」
深沢くんは、僕の方を見て、くつくつと笑ってみせる。
「名前ってのはさ、それだけで存在を証明するすげえもんじゃん。湯野凛太郎は多分それをよく知っていたから、別の誰かに生まれ変わるために名前を捨てたんじゃないか?」
「つまり、どういうこと……?」
「湯野凛太郎は、別にその生身が死んだわけじゃない。あくまでも湯野凛太郎という存在を証明する名前を殺したんだ。そうして小説家としての人生を終わらせるために。……そういう
名前が消えれば、存在も消える。
逆に言えば、名前さえ残れば存在は消えない。
天使はそうして小説の中に、あるいは墓場に存在を残された。
「つまり、湯村燐が死んだってのは……事実じゃない?」
「そうなると思う。まあ、あくまでもおれの予想だけどな」
だとしたら、どうして真は……。
いいかけて止めた。急に僕の個人的な事情の話をしたってきっと深沢くんに迷惑をかけるだけだし。でも、なんで? なんで真は、湯村燐が死んだんだって思ったんだろう。僕はきっと何かが見えていない。でも、それが一体なんなのか見当もつかない。
「ユノ、元気にしてっかなぁ」
呑気にそんなことを呟いていた深沢くんの鞄から、突然大きな音が鳴りだす。メロディが、僕の携帯の目覚まし時計の音と一緒だったから多分電話かアラームだろうとは思った。
「うわ! なんだよ!」
そんな声を出しながら鞄を漁り、スマートフォンを取り出して電源ボタンを押した深沢くんは、見ていられないくらいに不機嫌そうな顔をする。あまりにも酷い顔で目も当てられなくなるくらいだ。
「……誰から?」
「妹。なんだよいきなり」
「出てあげなよ」
「わりー、ありがとな」
そう言って彼が通話ボタンを押し、それを耳元に当てようとした途端。
『何してんのよイーラ! 早く帰ってきて!!!!』
と、こちらにまで聞こえるほどの音割れした大きな声が飛び出してくる。
「ちょ、お前静かにしろよ」
『できるわけないでしょ!! 私言ったよね!? 今日はおじいちゃんとおばあちゃんの結婚記念日なんだからお祝いしようって!!』
それを聞いた途端、深沢くんはひどく驚いた顔をする。
「……やべ」
『ばかーーーーーー! 信じらんないんだけど!?』
あまりにも響くものだから、僕は苦笑した。深沢くんは頬に冷や汗を浮かべて、若干青ざめているような気がする。元気な妹さんだな。
「悪かったって、いや七時……いや、八時までには帰るから」
『許せないんだけど!! 帰りにちゃんとケーキ屋さん寄ってきてよね!!!!』
「はいはい、
『はいは一回!!』
「はい……」
彼のしおらしい声を最後に、電話は途切れてしまう。僕はとうとう耐えられなくなって吹き出してしまった。
「ちょ、笑うなよ……」
「なんか、すごいなって、思っちゃってっ」
深沢くんは、気温と羞恥心と夕陽でその顔を真っ赤に染めてしまっているその顔を手で隠した。
「あはははっ、元気な妹さんだね」
「はは……だろ? いっつもあんな感じなんだよ……」
手、焼くよな……としんみり呟くものだから、僕はそうだねと相槌を打った。僕にも妹がいるから、その気持ちはとてもよくわかる気がする。
「にしても、深沢くんって妹さんからイーラくんて呼ばれてるんだ」
「すんげーちっちゃい頃の呼び方をそのまま呼んでくんだよ。恥ずかしいったらありゃしねー」
そう言いながら髪を掻きむしる深沢くんは、バツが悪そうな顔をしている。
「まぁ、恥ずかしいのは恥ずかしいんだけど、あいつはあいつなりにおれが自分の名前好きじゃないってわかってるからそう呼ぶんだろうな」
「いい兄妹じゃん」
「ま、悪いやつではないわな」
たった数分のやり取りでもお互いがお互いのことを思いやっていていい関係性が気づけているということがわかってしまう二人だ。ちょっとやそっとのことではきれない縁の強さを感じる。
僕は、そんな二人が少しだけ羨ましく思えた。
対馬真には、そんな人がいたのだろうかって。
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