EverLasting World - End

辻野深由

序 - A Happy New -

 大晦日の寒空に瞬く無数の星辰を見上げ、ロックは紫煙混じりの溜息をこぼした。

 永遠の冬を抱え込んだ都心の外れにある霊園の入口に人影などあるはずもない。

 あたり一帯は不気味なまでに静まりかえって、ロックの足音以外にはなにも聞こえてこない。

 身も凍るような冷気に煙草の煙を燻らせながら、ちかちかと点滅する街灯の明かりを頼りに霊園へと踏み入った。


「相変わらずここは冷え込むな」


 淡く積もった雪は真新しい。それが、一層人気ひとけのなさを際立たせている。新雪をゆったり踏みしめながら目的の場所に辿り着くと、ロックは吸いかけの煙草を携帯ケースにぐしゃりと強引に詰め込んで、喉の奥を搾ったような声で墓標に語りかけた。


「……よお」


 実妹イヴは、この極寒を吸い込んだかのように冷たく鎮座していた。

 降り積もった雪を払い、悴んだ手で黒曜石の墓標を撫でてやる。


「元気にしてたか? 俺はなんとかまっとうにやってるよ。この一ヶ月は本当に面白みがなかった。久々に原宿を散策してみたんだが……だめだ」


 言って、力なく首を振った。

 そっか、と残念がるイヴの声が耳元で聞こえるような気がした。


「店はどこも閉店休業。路地どころか表通りまで派手に荒らされちまってて、とてもじゃないが商売をやっていけそうな場所はなかった。随分前はまだ活気もあったんだが、いよいよ末期だな」


 雑多で騒がしい場所が好きだったイヴの、お気に入りだった。

 ありとあらゆる服飾が揃う華美で瀟洒な意匠が施された店並び。その面影がとうに消えて久しい原宿の旧竹下通りは、いまとなっては人影もまばらな廃墟が連なる一帯だ。人は住んでいるが、渋谷のごたついた雰囲気も新宿の整然としすぎる空気も嫌いな変わり者と物好きが集う場所であることだけは昔から変わっていない


 けれど、あの雑多な面影をなくしてしまったのは原宿だけではない。

 新宿も、渋谷も、代々木も、かつての賑やかさは欠片もないくなってしまった。

いまはもう、どこもかしこも荒れ果て、朽ちてしまった。


「もしかすると、ずっと昔に似たような話をしてやったかもしれねぇな。まぁ、なんだ、飽きずに聞いてくれよ」


 凍てつく寒さのただなかで、ロックは新しい煙草を吹かして他愛もない土産話に興じる。


 イヴが亡くなったのは一年前。クリスマスイヴの夜だった。

 鮮血で染まったブラウンのニットと血染められた純白のフレアスカート姿は、助かりようがない絶望を彩るには充分だった。身体中を銃弾に蹂躙され、あらゆる尊厳を踏みにじられ、見るに堪えない姿で息絶えた実妹の亡骸を前に、ロックはこの世のすべてを恨んだ。

 あの日から、イヴを見放した神とやらが嫌いになった。

 この胸を締め付ける深い悲しみも絶望も、いまだに色褪せてはくれない。


「久しぶりに渋谷のブルワリーでワインを買ってきたんだ。飲ませてやるよ」


 ロックはボトルを空け、薄緑の発酵酒を静かに垂らしていく。黒曜石に張り付いていた雪がぱちぱちと弾けながら緩慢に溶けていく。

 イヴは葡萄や林檎といった果物が好物だった。果物を備えると霊園を寝床にする烏たちに持って行かれることを覚えてからは、ジュースや果実酒を備えるようにしている。


「本当なら、お前と酒盛りをしてみたかったんだけどな……」


 空になったボトルを置いて、墓標にもたれかかり、夜空を見上げた。

 雲一つない、澄み切った紺碧。そこに散らばる無数の星々。宵闇に溶けていく灰煙が、その途方もない彼我の距離を突きつけてくる。


「……お前が生きようとした世界は、窮屈で、退屈で、代わり映えもなくて、つまらない」


 ――私のぶんまで、生きて。


 死の間際にイヴが放った懇願のろいは、いまもロックをクソったれな現世に縛り続ける。おかげで、生きている価値など微塵もない世界にあって、ずっと死に損なったままだ。


「俺もそっちに行きてぇな……」


 ここに来る前に一杯引っ掛けてしまったせいで、心の箍が緩んでいるの自覚してなお、叶わぬ願いを口にするのが止められない。


「まぁ、どうあがいたって死にきれないんだけどよ……」


 いくら死んでも、この世界の理たる永遠がロックを現世に縫い止めてしまう。

 それが、ロックの生きる世界だった。


 死んでも死んでも、どれだけの死を積み重ねても、死にきれない。

 ある日突如として、無限に繰り返される永遠の十二月という時の牢獄に、人類は囚われてしまった。それはきっと、栄華と繁栄のため、人間は天使の甘言に溺れ、神の権能という禁忌に手を伸ばしたからだ。これはその罰なのだと、誰かが言った。


 もはや世界を元に戻す術はない。

 誰も、永遠の十二月から逃れることはできない。


 狂った世界から倫理はとうに失われて久しい。突きつけられる現実から逃れるように、宗教にのめり込む老若男女は日を追うごとに増えていく。永劫に続く輪廻からの解脱を夢見た宗教集団が、毎日のように祝詞を唱えては集団自殺していく。永遠の死こそが救済なのだと信じて疑わない。法を遵守する者は少数となり、誰も死を怖れず、殺しを厭わなくなった。

 イヴが必死に縋り付こうとした世界は、繰り返される歳月のなかで救いようのないほどに狂って、壊れて、穢れてしまった。

 そんな世界で生きている価値など微塵もない。地獄に縛り付けられたまま、クソッタレな生を謳歌し、大晦日にこうしてイヴの眠る場所へ土産話をもってくることだけが、ロックに残された唯一の生き甲斐だ。


「…………っ、きたか」


 唐突な酩酊感に目が眩む。幻覚に囚われたように、視界が極彩色に塗り染められはじめる。吐き気がするほどの耳鳴りと頭痛に、ロックはこめかみを押さえ、苦虫を噛み潰したような顔を浮かべた。

 どうやら巻き戻りまで一時間を切ったらしい。五感を襲う違和感はその兆候だ。さきほどまで雲一つなかった紺碧には、途方もない規模のオーロラが浮かび上がり、闇夜を切り裂いて世界を極彩色に染め上げる。

 幾度となく繰り返される世界の輪廻のはじまり。

 胸に込み上げてくる虚無感に、思わず溜息がこぼれる。

 世界はまた、繰り返すのだ。

 まったくもって、嫌になる。


「……じゃあな。またくるよ」

 ロックはやっとのことで立ち上がり、ふらつく足取りで墓地を後にする。

 墓地に隣接する自然公園では、大晦日だというのに、大々的で仰々しい会合が催されていた。いつもの光景だ。目深なフード付きのコートを羽織った白装束の連中が一心不乱に祈りを捧げている。彼らの視界に見えているのは果たしてこの世界の創世主たる神か、あるいは福音と絶望をもたらした神の使いたる天使か。いずれにせよ永劫からの解放を願う彼らにまたも救いは訪れなかったことだけは確かであり、世界はどこまでも残酷にできていることを毎度のことながら思い知らされる。


「ああ、我らが神の化身、レフィクール様。新たなる輪廻に祝福をっ!」

「次こそは必ずや、理想郷への誘いを、我らにっ!」

「新たなる輪廻の到来を祝福しよう。我らに神託のあらんことを……」


 悲痛な祈りがあちこちで谺している。祈祷する彼らの視界に揺らめくのは、天上のカーテンが織りなす極彩色と、紺碧を裂く一条の光の柱。

 そこに救いはないというのに。

 それでも彼らは信じ続けていた。次こそは。次の輪廻で必ずや、と。

 光に導かれて天へ昇った者は、永劫に輪廻するこの地獄から解脱することができる――誰かが言い出した世迷い言は、いつしか教えとなり、長い年月をかけて信仰となった。

 くだらないと一蹴していた同胞や古い付き合いの仲間が、日を追うごとにロックの前から姿を消した。宗旨替えしたのか。あるいは信仰に飲まれたのか。もしかすると、本当に輪廻から解脱したのか。そうでなければ、このクソッタレな世の中に嫌気がさしたのかもしれない。

 結局、そいつらの行方は知れないままだ。

 終わりなき一ヶ月を幾度も繰り返していれば、根も葉もない教えに救いを見出してしまうことは、なんらおかしなことではない。ましてその教えそのものが、この世界じごくからの解脱であるならば、なおさらに。

 こころや精神の強さなんて尺度で人間強度が測れるというのなら、怪しげな宗教といまだに相容れないロックはとうに人間を辞めているに等しい。それもこれもイヴが遺していった懇願のろいのせいだ。だが、そんな強靱さは、生きる上でなんの役にも立ちはしない。明日を生き抜く糧にはなり得ない。


 ロックは、ただ、死んでいないだけだ。


 気を狂わせ、宗教にのめり込み、ありもしない赦しと救いに全霊を捧げることができたのなら、どれだけ楽になれるのだろうか、と考えたことすらある。

 けれど、心の底から縋ることはできなかった。

 イヴの命すら蔑ろにした世界に、それを統べる神なんかに、救いなんてものを期待するだけ無駄だと、どこかで悟ってしまっているから。


「…………っ、ああ、くそっ」


 幻想的な光景がぐらつきだした。

 空気そのものが震撼している。

 いよいよ、やってくる。

 永久に続くエヴァーラスティング世界の終わりワールドエンドが。


 誰が名付けたか知りはしない。

 言い得て妙な永劫輪廻は、すべてを無為にかえして巻き戻る。

 生も、死も。

 願いも、呪いも。

 希望も、絶望も。


 地にひれ伏して世迷い言を宣う狂信者を尻目に、ロックは路傍のベンチに腰掛けた。

 新たな十二月を迎える場所は決まってこのベンチと決めていた。黒革ジャケットの内ポケットに忍ばせた煙草ケースから最後の一本を取りだし、ジッポーで火を点す。悴んだ両手で口へ運んで、おおきく吸い込んだ。痺れるような甘さに酔いしれながら、ぼんやりと思考するのはこれからの一ヶ月のことだった

 次はどう過ごしてやろう。久しぶりに稼業に専念してみるか。たまには善行に励むのもいいかもしれない。


「このクソッタレな世の中に祝福あれ」

 他愛のない算段をたてながら、ロックは月に向かって紫煙を吹かしつけた。

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