第7話 波立たぬリング

「お前のパパは、殺してやるからな」


ロープにもたれながら、視線をそらしていても、家族の風景は目に入ってきてしまう

視界の隅に、坊やの笑顔をとらえながら、軽くシャドウする

「落ち着いていけよ、焦るな。相手はベテランだ、カウンターを狙ってきている。ジャブの後の左フックに気をつけろ」

トレーナーがかけてくれる声が、はっきりと聞こえる


こんなに静かな気持ちでリングに上がったのははじめてだ

いつも、勝たなきゃいけない、全力を出さなきゃいけないと、相手の拳か見ていなかったような気がする

まばゆい深海の中で、早く試合が終われとがむしゃらに拳を振っていた

けれど、あの家族の前を通り過ぎた後、どんな音でも聞こえるようだ、リングの中ではな

お坊ちゃん、きっとパパが勝つと信じているんだろうな

家族は、きっと勝った後の光り輝く食卓を想像しているんだろうな


リングの中央に集められ、グローブを合わせる

いつもいやな瞬間だったが、この時はしっかりと見ることが出来た

ひげをたくわえた、30代前半くらいで、昔やんちゃをしていたけれど落ち着いた男だろうか

けれどそんなことはどうでもよく、風景の一つのように見えた


ゴングが鳴った

相手は探るようにジャブを出してくるが、後にわざとらしい右フックを出してくる

ブラフのつもりなんだろうな

いつもは先手を取って間合いに入っていってしまうが、今日は落ち着いてよく見える

互いに見ながらステップだけを踏む時間が過ぎた


「ファイッ」とレフリーが指示する

相手の肩が少し、上がったような気がした

誰かの声援でも聞こえたのだろうか…

その瞬間、前脚を大きく踏み込んで、いきなり左のボディストレートを入れる

そのまま左フックでボディ、さらに右ボディアッパー

ボディの攻撃に、相手はガードを下げつつ、近い距離のフックを狙ってくるが、ガードを固めて打ち合う

ボディ一辺倒に打ちまくる

相手が横の動きをやめる 何かの声が聞こえた気がした


一瞬下がり

もう一度大きく踏み込む

リングはこんなにはっきりよく見えたんだな 何の声援も聞こえない

当然のように空いている左ボディを打ち込み、さらに中に入りながら身体を右に大きく流し、突き上げるショートの右アッパー

相手が入ってくるのがわかった

グローブに当たった感覚がいつもより柔らかかった

相手は前にヒザから崩れて、そのまま立ち上がることはなかった


なんでもないことのように、そのままコーナーに戻る

レフリーが両手を振っているのが、なぜか背中越しにも見えるようだった

相手の様子を見に行くのが礼儀とわかってはいるが、振り返りたくはなかった

見たくなかった、子どもや奥さんがどんな顔をしてリング下に駆け寄っているのか


それでも俺は礼をして、左手を上げてもらい勝ち名乗りを受けた

1R、47秒というコールが聞こえた

どうなったのか相手は知らない

見たくない

子どもが泣いても知らない

相手が死んでしまっても、何とも思わない


下腹が熱くなってきて、涙が出そうになってきたので、必死に会場の遠くを向いていた

あの女が大喜びした様子で叫んでいるのがわかる

トレーナーが俺の肩を叩いてくる

これは何でもないことなんだ


ようやく相手を見て、礼をしに行こうとすると、白衣の人たちがぴくりとも動かない男の頭を静かに支え、担架がロープをくぐって来るのが見えた

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