#02 楢崎真吾

 午後五時半。

 雑多な学校というシステムの中から、できるだけ音を立てずに抜け出して、俺は駅の南口から少し歩いたところにある、古本屋に入った。

 ドアを押す瞬間、ふいに教室での視線を思い出した。

 佐々原結衣。

 まるで偶然みたいに目が合った、あの瞬間。

 よくよく思い返してみれば、ただのクラスメイトに向けるにはほんの少しだけ、間が長かった。

 目の奥に何があったのか、俺にはわからなかったが、少なくともそれは〝無関心〟ではなかった、ように、思う。

 希望的観測。そう感じもする。だったらもう、それでいい。でもそんな妄想がたぶん、俺の人間としての尊厳をぎりぎりのところで繋いでいる。構わない。勝手に心の中で決めつける。

 とは言えだからなんだってわけでもない。けど、心のどこかに、それが引っかかっていたのは事実だ。背骨の裏に小さな棘が刺さったみたいな、じくじくした違和感だった。取れそうで、取れない。


 曇ったガラス戸を開けると、空気が変わる。

 埃、紙、インク、微かにカビ臭いその匂いが、肺にじわりと染み込んでくる。

 教室のそれとは対極の匂いだ。

 落ち着く。

 素直に、そう思う。

 日焼け止めと制汗剤と香水の暴力じみた混沌の後では、なおさら。


 棚の合間をすり抜けながら歩く。手を動かす。

 内田百閒の『冥途』、佐藤春夫の『田園の憂鬱』、そして島尾敏雄の『死の棘』。

 俺にとって、少し意味を伴うラインナップ。

 指先に伝わる紙の質感が、それぞれ違う。

 気に入った本を見つけたときの感触は、恋人の寝起きの声みたいに微細で、少しエロい。なんて、そんなふうに思ったことが、自分でも意外だった。

 正直俺に、事実がわかるはずがない。

 寝起きに恋人の声を、俺はまだ聞いたことがない。


 カウンターの奥では、例によって店のオヤジが黙って本を読んでいた。

 白髪混じりの頭。

 無表情。

 老眼鏡の奥の目は、ほとんど閉じかけていたけど、読み飛ばしてるわけじゃないのが不思議だった。

 あの目つきで、何をそんなに読み込めるんだ?

 無駄な問いが脳裏に浮く。


 「こんにちは」


 その声がして、指先が反射的に、その時たまたま背表紙に触れていた『死の棘』を棚から引き抜いてしまった。

 振り向くと、いた。

 いつもの人だった。

 ショートカットで、黒のワンピース。

 いつも通りシンプルないでたちなのに、やたらと女を感じさせる。俺の体の中にある、何か無防備なボタンが押されたみたいになる。

 この店の常連。名前は知らない。

 以前、「よく会うね」と唐突に話しかけられ、『冥途』と『田園の憂鬱』と『死の棘』を勧めてから、会うと必ずその度に聞かれる。


 「あのさ、最近、何かよかった本ある?」


 ご多分に漏れず、今日もそれ。

 俺は目を合わせないようにしながら、脳内のリストを必死に検索する。

 一瞬でも間を空けたらダサい。そう思うのに、うまく言葉が出てこない。


 「えーと……あ、三島の『命売ります』、面白かったです。なんか、変な意味で……軽くて」


 「へえ、読んだことないな。どこにあるかな」


 そう言って店内を見回す彼女に、オヤジが顔を上げたかと思ったら、指を一本、背後の壁棚に向けた。無駄な言葉はひとつもなかった。

 彼女が歩いていって、すぐにそれを見つける。背表紙をなぞる指が妙に綺麗で、まるでセックスアピールをしている若い情婦のように艶やかで、そんな目で見てしまう自分を、少し情けなくも感じた。

 俺のその妄想じみた思考なんて反故にするように、彼女はあっさりとその本を手に持って、カウンターに持っていく。と、オヤジがまた無表情で値段を言った。


 「二百八十円」


 小銭を出して、レジ袋にも入れずにそのままバッグに放り込むと、女は俺の方を見て、ちょっと笑った。


 「ありがとう。またよろしくね」


 そして、店を出て行った。

 ドアが閉まり、鈴が一瞬だけ空気を震わせた。次の瞬間には、何事もなかったかのように静寂が戻っていた。

 心臓のリズムがまだ、ズレたみたいに跳ねていた。

 何もしてないのに、妙に汗ばんでいるのがわかる。

 胸の奥がむず痒くて、でも、手でどうにかなるものじゃない。

 そのふわついた思考を振り切るようにカウンターのオヤジに目をやると、また目を閉じかけて本に戻っていた。

 まるで、何も見てなかった、みたいな顔で。

 俺は手にしていた『死の棘』を棚に戻した。

 今の俺には、少し重すぎる気がした。まるで、それを開けば俺自身が壊れそうだった。

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