一緒に終わる約束をしよう

北溜

第一章 観察者

#01 楢崎真吾

 放課後の教室は、役目を終えた誰かの死体から立ち昇るような、複雑な腐臭で満たされていた。

 日焼け止めの油脂。

 制汗剤の人工的で機械的な冷たさ。

 机の奥に押し込められた教科書のインクが、熱と湿気で溶け出し、床を這うように空気の底に沈んでいる。

 誰かの汗。

 思春期の肉体から立ち上る、尖っているくせに鈍く粘ついた湿度。

 そして、それらの間を縫うようにして、女子たちの香水なのかシャンプーなのか、やけに甘ったるい香りが交錯する。

 甘くて、華やかで、無神経に明るいそれは、俺の内臓を静かに逆流させる毒のような匂いだった。

 教室という名の密室にこびりついた、消毒もされずに成熟し、何もかもが綯い交ぜになった臭気は、俺にとって混沌の象徴でしかない。


 その混沌の上をあいつらの声が、いつまでも煙みたいに鬱陶しく漂っている。

 尾上拓海。

 と、その周囲を囲む、劣化コピーのような取り巻き。

 薄っぺらい派手さをまき散らし、傲慢であるように振る舞いつつも、いつも誰かの顔色を見て、適度に同調し、適度に自分をアピールする。ゼリーみたいに芯がなくふにゃふにゃと揺らいでいるくせに、脳みそだけは耳垢と同じ硬さと脆さで、柔軟性に欠けた上に脆弱だった。

 それでも彼らこそが、この国のスタンダードであり、正解であり、希望であり、未来なのだろう。

 スポーツをやって汗を流し、女にモテて、大口を開けて笑う。

 そう。笑う。

 ある意味無防備に、ある意味、承認欲求を剥き出すように。

 俺はそいつらの笑い声を背中に浴びながら、できるだけ自分の存在感が無になるようにして席を立った。


 そして思う。

 俺は心臓の位置を、ずっと間違えてる気がする。

 たぶん俺のは、胃の裏側あたりにある。

 気持ち悪くなるたびに、鼓動がそこから響いてくる。

 いや。それすら、どうでもいい。

 帰ろう。早くここを出よう。そして、古本屋に行こう。今日はいつも寄るあの古本屋で本を探す日と、朝から決めていた。


 本なんてものは、ネットで読めればそれでいいと思ってた時期もあった。

 でも、電子書籍のアプリを狂ったみたいにクリックしまくって、親宛てに膨大な請求が押し付けられてから、母親に「紙の本だけ許す」って呪いをかけられた。その時はクソだと思ったけど、今ではその呪いが俺を救っている。


 それまで、俺はスマホに去勢されていた。

 指先の感覚と引き換えに、性欲すら広告に組み込まれた。

 一方で紙の本は暴力だ。

 ページをめくるとき、指が紙の端で切れて血がにじむ。

 俺はきっとその血を読んでいる。

 その実感が、俺の命綱みたいになっている。


 出入り口まで行った時、ぶつかった。

 あいつらの一員。飯島紗耶香。まるで〝綺麗〟を演じてる人形みたいな、尾上のアクセサリーのような女。

 何か言ったかもしれない。謝ったかもしれない。覚えてない。言葉が軽すぎて、俺に届いていない。ただその些細な衝撃で、俺のカバンから本が滑り落ちて、それが床でカコンと甲高い音を立てた。


 『五分後の世界』。


 背表紙が見えるように落ちたのは、きっと偶然じゃない。

 世界のどこかで、俺を試してるやつがいる。


 拾おうとした瞬間、先に誰かの手が触れた。

 佐々原結衣。

 やはり尾上の取り巻きの中のひとりで、この学校で一番、その狭い世界と整合しているように見えて、実は最も浮いている、ように、見える女。

 その手が、俺に本を渡す。

 そして目が俺を捕らえる。

 観察する目。

 理解も拒絶もない。ただ、「それ」を見て、「それ」を分類するための目。

 佐々原は何も言わなかった。でも俺には分かった。

 あの目は、俺を「理解できない」とデジタライズに分類していた。

 俺は人間じゃなくなった。分類された肉片みたいなものだった。


 息が詰まった。

 何も期待してなかったのに、勝手に失望していた。

 この世界では、心を隠すために綺麗な服がある。

 俺はそれを持っていない。だから、心の裸がすぐにバレる。

 全てがバレる前に、走るように教室を出た。

 誰も見てないと思ったが、階段を降りる時も、まだ佐々原の目が焼き付いていた。


 古本屋まで、なるべく自分の足音を聞かないように歩いた。

 ページをめくるたびに〝生きてる人間〟が減っていく世界に、早く潜り込みたかった。

 やがて言葉だけが残る。

 それが一番心地いい。

 その方がずっと楽だ。

 俺はそれを知ってる。

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