恋は盲目 08-2
『あとどのくらいで帰ってきますか?』
千夜が家にいないのは、仕事をしているから。
それで単純にまだ帰っていないから。
たぶん残業とかはないと思う──と今朝の時点では言っていたが、実際のところは直前になってみないとわからない。
じゃあそんな状況で遊びに来るのはどうなのか、家にあがるのはどうなのか──という至極まっとうな否定的な意見がまた、心の中に浮いてくる。
「あ゛~……」
呻く。呻く。
LINEをおくったってすぐに返信があるわけがなく、やっぱりすぐに気落ちしてしまう。
ソファに体を沈めて、またスマートフォンを見て、やめて。
ただジッとしているのも気持ち悪くなって、立ち上がって、うろちょろと歩き回る。
はじめて来たときと比べて、ずいぶんこの部屋は変わったな、と真魚は思う。
少女は記憶力がいいほうで、一度見たものや感じたことを忘れることはほとんどない。
だからこの部屋に来た当初のことも覚えている。現在との差異も、わかる。
まず座椅子がなかった。──年明けに増えていた。いわく、年末年始のセールで安かったとか。
ブランケットが増えた。──本当のところは知らないが、あからさまに真新しいものを使わせてもらっている。
歯ブラシ。洗顔料、化粧水。それから食器。──真魚専用になっているものが部屋に点々と。
少女の色が、部屋の各所に散りばめられている。
これらは真魚が生活の一部をこの部屋にあずけている証左であり、千夜だけは真魚がここにいることを許してくれているということをあらわしている。
真魚が家に居づらい理由を聞かずとも、この場所に逃げてきていい、と。
「別に聞いてくれてもいいんだけど……」
話さなくていいなら話したくはない。話しても楽しいことじゃない。
でも、聞いてほしいという気持ちも同時にある。
相手のことを知りたい──その気持ちは、相手への興味から生じる心で。逆を言えば、相手のことを知りたくないということは、その相手に興味がないとも言える。
興味があるのだと、そう思いたいから聞いてほしい。そんな気持ち。
人生というものは、ままならないものだ。
そんな気持ちを込めて、また一つため息を吐く。
今日は真魚の、たくさんため息デーである。
そして、手にしていたスマートフォンに通知が一つ。千夜からのメッセージの返信だった。
『たぶん19時くらいまでには家着くと思う。』
『!』
『?』
『!!!!』
『!』
『ご飯を作っておきます!』
千夜と軽いメッセージのやり取りをして、真魚は跳ねるように動き出す。
えいえいおー。
スイッチが入ったように、テキパキと準備をはじめる。千夜が帰ってくるまで、もうさほど猶予は残されていない────
「──おかえりなさいっ!」
花咲く笑顔。
千夜が自宅に帰ってきて、はじめに目にしたのは、真魚のきれいな表情だった。
女性はよく花に例えられるが、その意味がわかったような気がした。花咲く笑顔というのは、こういうものを指すのだろう。
「……ただいま、帰りました」
「ご飯すぐできますよ。あ、先お風呂とか入りますか?」
「ううん。ご飯食べる」
「そうですか。あと、おうどん煮込むだけなのですぐですよー」
「最高です」
玄関を開けた瞬間から香っていたのは、優しい出汁の香り。
鍋焼きうどん。
やや狭苦しいキッチンで、お鍋がぐつぐつと煮えていた。
玄関から居間へゆく通路の関係上、彼は自然とキッチンで調理されているそれを見た。
きのこ、ねぎ、白菜などなど。
冬の寒い外から帰ってきて、鍋が家にあると、すごく嬉しいなと、彼は思った。
「もう、おうどん煮ちゃっていいですか?」
「いいですいいです。ありがとうございます」
「なんで敬語なんですか」
「ご飯作ってくれるひとには感謝の念を捧げろと、おばあちゃんが言っていました」
「なるほど?」
彼はネクタイを緩めつつ、着替えてくる、と言って通り抜けていった。
そんな彼を横目に、真魚は『スーツ姿の男の人だ……』などと思っていた。
結婚って。
新婚さんって、こんな感じなのかな……と。
真魚は高鳴る胸の音を、手のひらで感じていた。
胸に何か詰まったように、呼吸が少し苦しくて。
恋というどっしりした感情を、少女は未だに消化しきれていなかった。
ふぅ、と吐息を一つ。
真魚は、味見をしようと小皿に出汁をすくい取って、舐めるように嚥下する。
うん、大丈夫。おいしい。問題ない、はず──……と、うなずく。
「真魚さん」
「うひゃあ!」
「え、ごめん。驚かせた?」
「驚きました」
「ごめん」
白のカットソーにカジュアルな綿パンという、少しだけ崩した格好に着替えて、千夜がキッチンにやってきた。
謝りつつも、彼の表情はフラットで、特に申し訳なさそうではない。
それはきっと、驚いたからといって、少女が傷ついているわけでないことをわかっているから。
一定以上の、理解を示していることの証左。
「あとぼくがやるよ。座ってて」
「ええと……」
「……」
「千夜さん」
「?」
「座って待っててください」
「はい」
目元は柔らかく、表情も柔らかく、声も穏やかで。
けれどその台詞には、力があった。
キッチンにいる女性は強い。
そんな波動を感じ取って、彼はずこずこと引き下がる。
「……お皿だけ出しておきます」
「ありがとうございます」
彼の家で食事をする場所は、基本的に居間である。
ローテーブルに、食事を置いて、座って食べる。
ソファもあるにはあるが、基本的にはくつろぎ目的のもので、食事の際には座らない。
ソファと座椅子、二種類がテーブルの周りにあるとやや窮屈ではあるのだが、なんだかんだこちらのほうが利便性がよく、彼はこのレイアウトをそれなりに気に入っていた。
「……」
彼はとり皿をおいて、鍋敷きを敷いて、……真魚のほうを見ていた。
彼は、「あちち」と味見をしている真魚を見ていた。
味に不安があるのだろう。何度もすすっては首を傾げている。
千夜と真魚の目があう。
少女は困ったように笑みを浮かべ、悩むように鍋に目を落とし、はにかむ。
そして彼は、エプロン姿の真魚のそんな挙動に、いたたまれない気持ちになって、目をそらす。
「ごめんなさい。お待たせしました」
「とんでもない。ありがとうございます」
「おいしいといいんですけど……」
「この匂いでおいしくなかったら、びっくりしちゃうな」
おいしそうだね、と彼は手扇ぎで香りを嗅ぐ。
ゆったり穏やかな表情で笑む千夜を見て、真魚はほっと一息吐く。
「とりわけますね」
「よろしくお願いします」
真魚はにこにことしながら、雑用ともいえることに取り掛かっていた。
彼は、お客さんにこんなことをさせるのもな……と、いつものように思いつつ、でもやっぱり、本人が嬉しそうだからいいか……と、これまたいつも通りの結論へと至る。
手持ち無沙汰でやることがない──という状況よりも、何かしら役割を持っていたほうが人は安心する。それは実際、そういうものだ。
一つのお鍋から、取り皿へ。
熱を持っていることを示すように、ほかほかと湯気が立ちあがっている。
「め、召し上がれ?」
「……いただきます」
千夜から見て、真魚はいつにも増して浮足立っているように見えた。
平日に夕食を共にすることは稀有なほうであるが、それ自体は、これまで数度行っている。
メニューも、ひと際難度が高いわけでもない……ように、彼には見えた。
もしかして、何か隠し味をいれているとか、創意工夫がなされているのだろうか、とうどんを箸で掴んで、しげしげと眺める。ごく普通に見えた。
「……」
ずず、とうどんをすする。
「あ、おいしい」
「それはよかったです」
社会人も学生も、大抵夜には疲れている。
加えて冬は、寒い。外から帰ってきたなら、体の芯が冷えている。そして千夜が帰ってきてから、まだ幾ばくも経っていない。
部屋の暖かさ、うどんの温かさ。
それらも相まって、沁みるように美味しく感じていた。
「うま……」
「……」
「冬はやっぱり鍋だよ……」
「ですねぇ」
「……食べないの?」
「ああ、いえ……」
彼はもぐもぐと食べ進めていたが、少女の箸は進んでいないようだった。
真魚は鍋と、取り皿を見つめ、一つのことを考えていた。
──これは、間接キスなのでは?!
一つの鍋から取り分けて、それを食べるという行為は、すごくセンシティブに感じられた。
もちろん理性的に考えればそんなわけはない。取り箸は別にあったし、食事用の箸は鍋に突っ込まれてはいない。これで間接キスになるのであれば、バイキング形式のものは、すべて間接キス判定になってしまう。
「い、いただきます……」
ちゅるん、と真魚もうどんをすする。
咀嚼して、呑み込む。
そのごく普通の工程が、やけに恥ずかしいことのように思えて、真魚はゆだるような熱を感じていた。
そもそも物理的な距離も、普段より近い。
普段は対面だが、今日は鍋を囲む都合上、斜め前。距離感はおよそ、いつもの半分くらいまでになっていて、少し足を伸ばせば容易に接触できてしまう。
「~~っ」
でも結局、そういう変なことを考えすぎていること自体が、恥ずかしい。
ゆっくりまばたきをして、気にしないようにと思いつつ食事を進めることにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます