恋は盲目 08-1




〈 1月18日 〉



 恋は盲目──、なんて言葉がある。

 視野が狭くなる。それ以外のことがどうでもよくなる。理性が機能をしなくなる。

 そういう、流行り病にも似た心の動きは、誰にでも起こりうるもの。

 ごくごく普通の精神性をした少女である真魚もまた、例外ではなくて。


 少女の鏡を見る時間が増えたのは、きっとそのせいだった。


 変じゃないかな、とか。可愛く見えるかな、とか。香水つけてみようかな、とか。

 真魚は、鏡を見て、いろんなことを思うようになった。

 もともと少女は、特別着飾ることが好きではなかった。もちろん年相応の興味はあったが、熱をあげるほどではなかった。

 周りに呆れられなければいいかな、という塩梅。空気を乱さなければそれでいいだろう、という付き合い方。

 だから真魚にとって、おしゃれというものは、少し距離のある存在だった。


 癖の少なそうな……かつ、の好きそうなマリンノートの香水をワンプッシュしてみたり。

 唇を色づけるための色付きリップ……発色が控えめの、気付いてもらえなさそうな程度のものを塗ってみたり。


 普段しない背伸びをする高揚感。

 胸がどきどきする感じ。

 香水を吹きかけた部分を、すんすん、と嗅いで違和感がないことを確認して──、


「真魚ちゃ~ん」

「うひゃあ! ……お母さん、びっくりさせないでよ」

「えぇ~。人の化粧品漁っておいて、それはないんじゃない?」

「……」

「都合が悪いとすぐ黙る~。そういうところ、お父さんそっくりね」

「……」

「はいはい怒らない怒らない。それで何? 彼氏?」

「違うけど」

「……ふーん」

「嘘は言わないよ、私」

「はいはい。わかってますよ。真魚ちゃんはそういう子だものね」


 うふふ、と洋子真魚の母は笑みを浮かべる。

 むくれている真魚は、誰がどう見ても、デート装備だった。

 髪はきちんとセットしてあったし、服装も普段より背伸びをしているきれいめコーデ、それから化粧。


 ずっと子どもを見てきた親にはわかる、子どもの変化。


 恋をしているということが、よくわかる。


「今度、料理教えましょうか」

「え」

「最近よく聞いてくるでしょ。『これなにで味付けしてるの?』って」

「え……と。いいの? 昔キッチン入ったらすごく怒ったでしょ」

「いつの話? それ。10歳とかのときでしょ」

「……」


 真魚は過去を振り返り、確かにそのくらいのときだったかな、と思った。

 でもまぁそこそこ真剣に怒られて、怒られたからキッチンを避けていたところがあったのだが、もう別に構わないというならそれを教えてほしかった、と眉をひそめる。


「……教えなくていいの?」

「教えてください! お願いします!」

「よろしい。まぁまた明日以降にね。今日はおゆはんいらないのよね?」

「うん」


 洋子の目がおめかしバッチリの真魚の姿を、上から下まで、舐めるように移動した。

 何を言いたいのかを察して、真魚は、すんっ、と表情を落とす。


「……彼氏のところじゃないの?」

「そういうのじゃないし……」

「まぁ、真魚ちゃんがそう言うなら信じるけど。気をつけなさいね」

「うん」

「あとそれから──……」

「……?」

「……家に居づらいのはわかるけど、お父さんと早く仲直りしなさいね」

「…………」


 押し黙った真魚を見て、洋子はため息を吐く。


「まぁいいわ。……水を差してごめんね。……行ってらっしゃい」

「……うん。行ってきます」


 逃げるように、そさくさと真魚は部屋を出ていって。

 そして手早く荷物をもって、家を出る。

 玄関を出ると、身を引き締める冬の寒さが襲ってくる。

 陽光は降り注いでいるはずなのに、何もかもが冷たくて。


「仲直りとか」


 真魚は、しぼり出すように、誰にも聞こえないように、声を吐く。



「一生無理だよ、お母さん」



 一度壊れたものは、そう簡単には、戻らない。





  ✿





 ガタン……ガタ……ゴトン……。

 バスが揺れながら、走っている。

 真魚は、後方の座席にすわって、窓の外を眺めていた。


 実のところ、真魚と千夜の家は近い位置にある。

 徒歩で30分、1駅も離れていない程度の距離感。

 バスに乗れば、本当にあっという間に、彼の最寄りのバス停に着いてしまう。



 風景が流れていく。



 真魚は、ぼーっとしながら車窓の外を眺めていた。

 普段より高い目線で、移りゆく街並みを、眺めていた。

 乗車人がぼんやりした意識でも、バスは目的地へと問題なく到着する。公共交通機関というのはそれが良いところで、そして世の中のものは、大抵そういうものだ。

 当事者に意思があろうとなかろうと、常に、社会は動いている。



 プシュー。



 バスから降りて、真魚は歩く。

 泊まりなので、荷物は比較的多め。


「……別に、そういうのじゃない」


 誰に言うわけでもなく、真魚はそう呟いた。

 きっと千夜は、真魚の家がすぐ近くにあることを、教えなければ気付かない。知ろうとしない。

 知ってくれてもいいのに、と思いながら、もうひと踏ん張り、歩く。





 時刻は、18時を過ぎたころ。





 家主のいない部屋に、真魚は合鍵を使って、上がり込む。

 部屋が暗い。

 ドアを開けて感じるのは、人のいない部屋特有の、寂寥感せきりょうかん

 冬の18時、誰もいない部屋なら暗いことは当然で、それは特別寂しさを覚える理由のないはずの光景。


 だけどセンチメンタルな気分のときは、他愛のないことでダメージを受けてしまうものだ。

 夕焼けがやけに赤かったとか、財布の中から期限切れのクーポンが出てきたりとか、服にシミがついてしまったとか。

 そういう、なんでもないはずのことが、暗い気持ちを引きずり出す。


「ふー……」


 大きく息を吸って、吐く。

 一瞬気持ちが弛緩した気がして、でもやっぱり気のせいで、胸の中に重石が入ったように息苦しい。

 真魚はソファに崩れるように座り、これまた重たいため息を吐きながら「帰りたくないな」と思った。

 だから帰らないのだが、帰らないという選択もまた、じわじわと心を蝕んでいく。

 やってはいけないこと。やましいこと。

 自分のしていることが、負側面の行動であるという事実が、心を蝕んでいく。


 真魚は、現実から目をそらすように、スマートフォンを取り出す。



『あとどのくらいで帰ってきますか?』



 寂しいなぁ、と真魚はひとりごちる。

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