名前、呼び方、貴方が好き 07-2


 …………────。



 


 ぼやけた思考。視界。鈍い体。

 ワンテンポ遅れて、真魚は自分がねむっていたことを自覚した。

 

 悪いことをした、と億劫ながら体を起こして、時間を見る。

 時計は17時過ぎを示していて、想像以上に寝てしまったことを表していた。

 彼がかけてくれたのであろうブランケットから抜け出し、真魚はきょろきょろと周囲を見る。

 

 太陽は大地の奥に隠されてしまっていて、もう外は薄暗い。

 隣の部屋の明かりがついていることに気が付いた。彼の寝室だ。扉は開いていて、彼の様子がうかがえる。

 彼は険しい顔でスマートフォンを見ていた。そして、大きなため息をついている。



「…………ふぅ」



 真魚は彼に近づいて、その物音に気付いた彼は気づき、「あぁ起きたのか」と何でもないような顔に戻る。


「すいません。私寝ちゃってたみたいで」

「いいよいいよ。食後はちょっとねむくなるもんな」


 続き見る? どこまで覚えてる? とにこにこし始めた彼に、ひとまず夕飯の支度をします、と真魚は言う。

 もうそろそろ夕飯時だ。

 真魚はもらったエプロンをつけて、調理を開始した。少し不慣れな手つきで、トン、トンと野菜を切っていく。

 

 そして横目に千夜の姿をうかがう。一見すると普通に見えるが、見えるが。真魚は先の憂いを帯びた表情が気にかかっていた。


「何か嫌なことでもあったんですか」

「んー。そう見えた?」

「ということは何かあったんですね」

「まぁ……大したことではないんだけどねえ……」

「ならいいんですけど」


 トントン、と材料を切っていく。

 今日のメニューはポトフ。じゃがいもほくほく、寒い冬にぴったりのお料理。

 おいしくできるといいな。煮込むだけ。大丈夫。小池さん何かあったのかな。どうしたんだろう。──色々な雑念があった。


「いたっ」


 包丁は刃物。指に滑らせれば当然切れる。

 幸いにも深くはなかったが、赤い血が、滲んできた。


「……大丈夫?」

「ええと。はい。ちょっとだけ切っちゃって」

「……ひどくなくてよかった。とりあえず救急箱とってくる」

「そこまでしなくても……」

「怪我は怪我の後の、適切な処置が大事なんだよ」


 しゅん、と落ち込む真魚を尻目に、千夜は奥へと引っ込んで、すぐに戻ってきた。

 手には小さなプラスチックケース。

 彼にうながされるままに水道で傷を洗い、水気をとる。


「はいこれ。バンドエイド」

「……」


 丁寧に粘着面を露出し、あとは傷口に巻くだけという状態にして、彼はバンドエイドを差し出す。

 テープを露出した状態で出したのは、片手だとうまく貼れないと思ったから。

 バンドエイドを差し出した状態で止まったのは、指に触れるのは違うと思ったから。

 真魚が指を出したまま硬直しているのは、このまま貼ってくれるのかな、という思考が一瞬よぎったからだった。


「……」

「……」


 少しの沈黙のあと、血色の箇所に、彼がバンドエイドを巻き付ける。

 固い男の人の指が、少女の柔らかで細い指に、触れていた。

 無言のやり取りが妙な気恥ずかしさを産んでいて、真魚は頬を赤らめて、彼の様子をうかがう。

 相変わらずなんでもないような表情をしていて、少しショックだった。

 やっぱりこの人は私のことはなんとも思っていないんだな、と真魚は肩を落とす。


「あと代わろうか?」

「いえ。大丈夫です。やります」

「そ。じゃあ完成楽しみにしてる」

「はい」


 彼はまた居間に戻っていった。

 真魚も、調理に戻った。

 少し集中力を欠きつつも、あとは特にミスすることもなく、ポトフが完成した。


 そして場を改め、食卓。


 再三ではあるのだが、やはりこの状況はだいぶ特殊だ。

 友人というにはあまりにも歪で、恋人ではなく、本人同士もなんと呼べばいいかわからない関係性。

 そんな二人が、同じ食卓を囲んでいる。

 恋人であるならば、別に問題ではない。10歳差──学生と社会人という世間体の問題はあるが、本人同士が是としているなら、本人たちにとっての問題にはならないだろう。


 けれど、けれど。

 

 本人たちが、この状況を疑問に思うならそれは──。


「……どうですか?」

「うん。おいしい」

「よかったです」

「味がしみてていい。野菜がうまい。味付けの濃さが好み。濃すぎなくて、いい。煮物のにんじんってなんか好きだな。おいしい」

「わかります。にんじんいいですよね。色もきれいだし」

「うむ……」


 ほっと、安心する味になっていた。

 あたたかいものは心も安らぐ。レシピ通りに作ったそれは、ごく普通においしい出来だった。

 真魚はそう感じていたが、彼もそう思ってくれてよかったと、胸をなでおろす。


 好きだな、と思った。


 ごくごく自然に、真魚はそう思っていた。

 というより、そう思い始めていたからこそ、いまこうしてここにいて、それを許されているから頻繁に来るようになっていて。

 居心地がいいな、と思ってしまっていた。

 打算があると言われればそうだし、別に純粋な気持ちだけがあるわけではないのは間違いない。


 だから恋をしている、と一口では言えないのだけれど。


「私、都合のいい女になる才能あると思うんですよ」

「急にどうした?」

「まだ料理とか家事とかは未熟ですけど──」

「そう? 十分じゃない? 頑張っててすごく偉いと思う。というか、今日のご飯もおいしいしケチつけるところが特にないのでは?」

「……」

「話遮ってごめんなさい」

「……まぁ、愚痴くらいは私でも聞けますよという話です」

「愚痴……。あー、わかりやすかった? ごめんねなんか」

「てことはやっぱりなにかあるんですね」

「……」


 彼は苦笑いして、じゃがいもを食べる。

 じゃがいもは、ほくほくしていた。


「別に楽しい話じゃないしなぁ。ぼくがちょっと失敗したってだけの話」

「いいじゃないですか、失敗しても。私もまぁ……散々失敗してます……」


 真魚はバンドエイドの巻かれた指を、ひらひらと眼前に持ってくる。


「ぼくがカッコ悪いだけの話だしなー」

「えっ」


 真魚の顔は反射的に、聞きたい、という表情になっていた。

 好きな人の欠点を聞いてみたいというのは、ごくごく自然な感情だろう。

 優れているところ、駄目なところ。それら全部を、見て聞いて、感じたい。そういう、心の動き方。


「……え、なに。聞きたい?」

「…………はい。聞きたいです」

「トーンが本気なんだよな。怖い」

「こわくないですよ」

「はい……」


 まあいいでしょう、と彼は口を開く。


「実は詐欺? に遭ってさ~」

「え」

「100万円ほどロスった感じです」

「え?」

「終わり」

「……え?」

「まぁ悲しかったですという」

「思ったよりヘビーでびっくりしました」

「ね。ぼくもびっくりした」


 彼は話をそらすように、スープが美味しいね、と口にする。

 少女はそれに対し、いやいやいやいやいや、と手を振る。


「それ大丈夫なんですか? 警察とか」

「さぁ……?」

「さぁじゃなくて」

「この話口にしたぼくが悪かった。この話やめよう。ちょっと惨めになってくる」

「……私が口出しすることではないのかもしれませんが、お金のまわりのことはしっかりしましょう。もう一度聞きます。警察は?」

「いや、そもそも詐欺と確定したわけではなく」

「というと?」


 彼はだらだら、と冷や汗を流し始めた。

 少女の圧が、強い。にっこりを笑みを浮かべてはいるが、その奥に隠し切れない圧があった。


 ちょっと悲しいことがあった、ではもう済まされない流れになってきたな、と彼は悟った。

 これは洗いざらい話さないとダメなパターンに入っている、と。


「……あとでもいい? ご飯冷めちゃうし」

「それは……はい」


 せっかく作ってくれたのだから美味しく食べたい、と彼は言う。そこに対しては、おいしく食べてほしい真魚は、うなずくしかなかった。

 おいしいね、とまた彼が言って、ありがとうございます、と少女が答える。


 そして、食後。

 食器を水につけて、彼の言い訳タイムがはじまった。



 いわく、加害者とは友人関係であったと。

 状況を客観的にみると詐欺であること。自分にはメリットしかなく、デメリットはゼロ。

 話の流れで、友人の口座に百万円振り込んでしまっていること。



 そこまでを聞いて、真魚は、重く深いため息をついた。


「小池さんって、馬鹿、だったんですね……」

「そうかもしれない」

「その人と連絡は?」

「え?」

「とれるんですか?」

「連絡はとれるよ」

「じゃあ早く連絡とりましょう」

「え?」

「こういうのはスピードが大事なんです。もう手遅れかもですが。本人に連絡とれるならそれが一番いいでしょう。早く、呼び出してください」

「え、今日?」


 夕食を終えて、話をして、時刻は20時に迫らんとしているころ。

 千夜は時計をチラリと見て、「さすがに時間が遅い」と言おうとして、口をつぐんだ。


「はやく」

「……はい」


 いつぞや少女に“押しに弱い!”などと思った彼であったが、逆である。

 押しに弱いのは彼で、人の言うことに従ってしまうのは、彼のほうだった。



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