名前、呼び方、貴方が好き 07-1


〈 1月9日 〉



 吐息の温度は36℃。気温は0℃。

 白いもやが、空気の透明にとけては消えていく。

 外気と、肺の中身が入れ替わっていく。


 冬の朝の空気は、透明度が高い。


 そう感じるのはきっと、吐く息が白いからなのだろう。


「最近、めっきり寒くなりましたわね。うぅ~、寒いですわ~……」

「礼ちゃん寒いの苦手だもんね」

「こういう日は炬燵でお蜜柑を食べるに限りますわ……」

「炬燵蜜柑いいよね、わかる。ごめんねなんか、買い物付き合わせちゃって」

「いえいえ。真魚ちゃんとのお出かけはわたくしも楽しいですもの。むしろ付き添わさせていただいて、わたくしがお礼を言いたいくらいですわ」


 真魚の手には、スーパーの袋が下げられていた。

 礼はそれに目をやって、うむむ……と唸る。


「なんというか、もう立派な通い妻ですわね」

「え゛」

「いやだって……料理して掃除してって……付き合ってるようなものではないですか」

「え~……。でも泊まりはしてない、よ?」

「いや当たり前でしょう。まぁ付き合ってるも同然、傍からみれば恋人同士にしか見えないというのはありますが、さすがにそういうのはですね」

「はい……」

「とはいえ、わたくしは正直、どんな関係でも当事者がそれで満足しているなら問題ない──と思っていますので。…………だからまぁ、お互いが望むならいいとは思いますけど……わかるでしょう?」

「まぁ、うん……」


 真魚の行動──、そして感情は徐々にエスカレートしている。

 きっかけはどうあれ、小池千夜こいけせんや桶内真魚おけうちまおの二人の関係において、行動の主導権を握っているのは真魚であることに間違いはない。何故なら家に通っているのは少女であるし、家事に精を出しているのも少女であるし、求めているのも少女であるからだ。

 そしてその結果、恋人のように見えるというのが現実だった。

 一緒に映画を見る。ご飯を作る。同じ空間で同じ時間を過ごす。

 加えて、双方向に悪感情はなく、基本的には好感情がある。


「まぁでも別に咎めたいとかそういうのではなくて……」

「いやうんわかってる。言いたいことはわかる。大丈夫だよ。心配してくれてありがと」

「ならいいんですけど……」


 はたから見るのと、実際のところのそれとは、大きく異なる。

 礼はおおよそは知っているが、細かな経緯などは知らない。そして千夜も知らない。すべてを知った上で、選んでいるのは、真魚ひとりだけ。

 だから真魚は、実のところ常に悩んでいる。



 ──恋人に見える、か。



 どうなのだろう、と真魚は空を見上げる。

 薄雲に覆われた冬の空。光の霞む、冬の空間。

 自分が何を感じているのか、どうしたいのか、真魚にはまだよくわからなかった。





  ✿





「いらっしゃい」

「……お、お邪魔します」


 色々と考えごとをしていたからか、真魚は変に緊張してしまっていた。

 声はどもってしまい、彼の顔を直視できない。

 部屋の中にはいつも通り、ココアの芳醇な香りが広がっている。いつも通り。そう感じるまでになってしまった。


 この部屋に訪れることへの抵抗感というものは、だいぶ少なくなってしまっている。

 その理由は何故なのかと考えたとき、やはり第一に“彼が嫌な顔をしない”というのが挙がってくる。拒否をする素振りを見せない。それは表面上の話だけでなく、内心でもそう感じてくれているのだと、少女は思っている。

 他人の心を見透かすことなんてできないし、これはただの真魚の想像。

 だけどきっと、そう外れてはいない。


 千夜は、桶内真魚という少女のことを、受け入れている。

 ただ、それが何故なのかはわからない。


「……どうしたの。立ち止まって」

「あ、いえ。……なんでもないです。洗面所借りますね」

「どうぞ」


 真魚はあわてて、洗面所に移動する。外から帰ってきたら手を洗おう! というわけで手洗いである。

 水を出して、石鹸で手を洗う。

 手を洗って、拭いて、居間へ。

 テーブルの彼が座っていて、対面の位置に、マグカップが置いてある。よく少女が座っているあたり。定位置と言っていい場所。

 そこにマグカップが置いてあるという事実が、そういう細かなところが、──『ここにいてもいい』と思える理由になっていた。


「はいお待たせ。外は寒かったでしょう」

「年越すと、本格的に冬って感じしますよね」

「うむ……」


 真魚はすとんと座って、おなじみの無糖ミルクココアが注がれたマグカップに、手を当てる。あたたかい。


「お昼まだだよね?」

「はい」

「よしよし。じゃあ昼はぼくが作ります」

「夜は私が作ってもいいですか?」

「うむ……。楽しみにしておく」


 夜は真魚が作る。それについては事前に許可をもらっていた。

 だからスーパーに寄ってから来たわけで、だけど改めて口頭で許可をもらうのは、やはり大事だと少女は思う。


「何作るんですか?」

「パスタ。キャベツとベーコン」

「わぁ~」

「わー」


 のんびりとした空間の中、ふーふー、と冷ましつつココアを一口。

 熱くて、ほろ苦く、まったりとしている。安心する味。

 これを飲むと、この家に来たという感覚がする。身体に熱が入る。あたたかい。

 真魚は頬をほころばせて、ミルクブラウンの液面を見つめる。


 そして、ちらりと、対面についた彼を盗み見る。


 落ち着いた表情で、ココアを飲んでいる。

 その所作を見て、なんとなく真魚は、『大人だな』というようなことを思った。

 大人。27歳。真魚の10歳年上。10年ないと追いつけない。

 少女は、ごくごく普通に、届かないな……と感じた。


「では本日は過去の名作アニメ観賞会ということで、しばらくの間お付き合いいただきます」

「なんですかその話し方」

「デフォが敬語の桶内さんには言われたくない台詞だな……」

「まぁ……」

「とりあえず今日はグレンラガンから……」

「わぁ~」

「わー」


 まず、少し早めのお昼を食べた。

 彼が作ったのは、事前の発言通りキャベツとベーコンの入ったパスタだった。少々オイリーで粗雑な味付けではあったが、“男の人”という感じがして少しどきりとした。

 

 こんな風なことを思うのは、きっと礼が言っていたことが尾を引いているのだろう。

 真魚は心中で、友達のことを責めた。

 昼食の片付けは、真魚がやった。ある種の共同作業だな、と思ってしまった。だんだん恥ずかしくなってきた。


 いつの間にか真魚の耳は熱を帯び、赤くなっていた。

 気付かれなければいいな、ともじもじしていたが、彼は気付いていた。

 彼は年頃の女の子だしな、と思った。可愛いな、とも思ったが何も言わなかった。


 彼曰く、このアニメはだいたい15年前の作品であるらしかった。

 15年。すごく昔。真魚は17歳であるから、真魚が物心つきはじめた頃合いだった。

 そうなると、彼は中学生くらいだろうか、と。

 そんなことを思いつつ、オープニングを眺める。


 地下の生活。閉塞した世界。その破壊。

 それは、まだ自分の運命に気づかぬ一人の男の物語。


 15年前ということが信じられないくらいに音も映像も魅力的で、正直真魚から見てもすごく面白かった。

 そして何より、彼が少年のように瞳を輝かせてアニメを見ていて、よかった。

 好意的な感情を抱いている相手が喜んでいるのは、それだけで嬉しい。


 そうしてそのまま、ちょこちょこLINEでメッセージを送り合ったりして、2, 3話と見進めていく…………────。

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