ACE /one who madness
イトウマサフミ
CHAPTER1
Ch1-1
灰色の雲が覆う空から、激しい雨が降りしきる。これで何日目だろうか。
東京都郊外の精神科病棟。さながら独房のような薄暗い部屋の中、スウェット姿でベッドの上にうずくまる独りの女。
細い体躯をした女は、左の袖を捲り、無数の自傷跡を眺めた。
背中まで伸びた黒い髪、白い肌、二重のくっきりした目、すっと通った鼻筋、透き通った唇。
十分に美貌を具えているが、瞳は生気が感じられず、濁っていた。
女は袖を下ろし、両膝を抱え、格子窓に視線を遣った。
その女の名は、
院内の診察室。ふたりの男が椅子に座っている。
精神科の医師、
「退院は許可できません」
後ろには、妙に姿勢を正した男。
「失礼ながら、強引にでも連れて行きます。これは彼女の意思です」
オールバックにした白髪、サングラスをかけ、三つ揃いの黒いスーツで身を固めている。
この男は、
三宅が迷惑顔になる。
「ウチの職員が負傷した件、ご存じですよね」
「存じています」
「たったひとりの患者に、しかも女性に、大の男が三人もですよ」
「当時の彼女は、情緒不安定な状態でしたから」
「そんなレベルじゃありません。あれは狂犬も同じだ」
「狂犬・・・ですか・・・・・・」
綿矢はうっすら笑みをこぼした。
その一方で、三宅が懸念を口にする。
「ようやく安定してきたところなんです。また外に出て、過度な刺激を与えたりすれば、今度こそ自殺するでしょう。あの状態では、誰かを殺す可能性さえあります」
綿矢は慇懃に申し入れた。
「そうならないよう、万全の注意を払います。ですから、どうか」
しばらく間を置き、三宅は答えた。
「どうなっても知りませんよ」
「重々承知しています」
「なにかあったら、それはあなたの責任だ。私の責任ではない」
「ご了承いただけるのですね」
「手続きしてください」
「感謝します」
ふたりは結局、目を合わせなかった。
外の雨音を、うつむいたまま聞き流す千里は、ふと顔を上げた。
千里の正面に、もうひとりの女が立っている。若い女だった。ショートヘアに愛らしい顔立ちで、白いワンピースを着ていた。
その女は、どこか物悲しい表情を向けている。
ベッドから降りた千里は、右手を伸ばす。
「
女に触れようとしたが、ふっと煙のように消えてしまう。
千里は腕をだらんと下げ、そのまま床に倒れた
淀んだ目で横たわる千里は、寂しげに囁く。
「鈴乃・・・私もう・・・人間じゃないから・・・・・・」
院内の渡り廊下を歩く綿矢が、スマートフォンを耳に当てる。
「彼女が退院する。明日だ。君が迎えに行きなさい」
翌日の朝、空は晴天に恵まれていた。
警視庁本庁舎の大会議室では、綿矢が椅子に腰掛けており、その傍らには、初々しい印象の若い男が、スーツ姿で直立している。
硬く緊張した面持ちの男は、警視庁捜査一課の
不気味なほどの静けさのなか、綿矢が口火を切った。
「事件の概要は伝えてある。君は監視役だ」
「はい」
「彼女に武器は持たせるな。決してだ」
「なぜです?」
「捜査の前に、自殺されては困る」
「自殺?」
「彼女に常識や規則は通用しない。思考は理解の範疇を越えている。極めて危険だ」
「そんな人を、どうして」
綿矢は腰を上げ、後ろ手を組み、背を向けた。
「君、ポーカーはやるかね?」
「え・・・いえ、ルールも知りません」
その直後、綿矢が呟く。
「エース・イン・ザ・ホール・・・・・・」
諸星には聞き取れなかった。
「はい?」
綿矢が粛々と説く。
「ポーカーの一種に、スタッドポーカーというのがある。負けるかもしれない窮地に立たされた時、伏せたカードがエースならば、それは逆転のチャンスを意味する。彼女がまさにそのカード、解決に導く切り札という存在だ」
そして、腕時計を見た。
「そろそろ時間だ。行きなさい」
「は、はい」
諸星は身をひるがえすが、すぐに振り返り、問いかけた。
「あのう、なぜ私を指名したんです?」
「君もキャリアだろう。キャリア同士、息が合うと思った。それだけだ」
「・・・・・・わかりました」
先ほどからずっと腑に落ちない。そう感じて歩き出す諸星を、綿矢が呼び止める。
「諸星くん」
「はい」
綿矢は冷静かつ重々しい口調で、謎めいた言葉を発した。
「君の命が喰われぬよう、祈っているよ」
その意味が全く理解できず、諸星は首を傾げた。
精神科病院の待合室。その広いフロアには誰もいない。いるのは諸星だけ。どうも落ち着かず、やたらと腕時計や壁掛け時計を見ては、時間を確認している。
そのとき、奥の廊下から靴音が響いてくる。
窓から射す陽の光を浴びながら、女がひとり歩いてきた。千里だった。
ナチュラルブラウンに染めた長い髪がなびいている。
右手に黒革のテーラードジャケットを持ち、白いブラウスに黒いスラックス、黒のショートブーツと、雰囲気が一変していた。
千里を発見した諸星は、小走りで駆け寄った。
「緋波警視ですね。よろしくお願いします。諸星学です」
諸星が挨拶するも、千里は返さず、ジャケットを羽織り出した。
「何で来たの?」
「え?」
「車?電車?バス?まさか歩き?」
「車です。覆面の」
「そう。だったらまず、捜査本部に案内して」
「は、はい。わかりました」
千里は病院を出た。外の世界は二年ぶりだった。
「久々のシャバか・・・やっぱり空気が違う・・・・・・」
覆面パトカーのもとまで来ると、諸星が「ちょっと待ってください」と言い置き、グローブボックスから何かを取り出した。
それは、千里の警察手帳とケースに収めた手錠、そして、捜査一課を象徴する赤バッジだった。
諸星は「どうぞ」と手渡す。千里はそれらを身につけ、助手席に乗り込んだ。
さらにはタブレットも渡される。事件資料のデータが入っており、綿矢の許可を得たうえで持ってきたという。
中央自動車道を走る車中で、千里は諸星に
「ねえ、お酒ないの?」
「はい?」
「日本酒とか焼酎とか、なんならビールでもいいけど」
「冗談ですよね?」
「マジよ。飲みたい気分なの」
「あるわけないでしょう。これパトカーですよ」
「クソ真面目」
千里は助手席の前部を強く蹴った。諸星がビクッと肩を跳ね上げる。不安と恐怖が募ると同時に、引き受けなければよかったと後悔した。
不機嫌そうな息を吐き、千里はタブレットを開く。事件の概要はこうだった。
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