第22話 榊原・転勤
卒業シーズンが終わると新年度を跨いで入学入社が各地で始まる。榊原の場合は転勤だ。元々は地元採用で地元勤務が建前だが、本人より特に社内結婚した妻の紗和子の希望で療治の後を追うようにやって来た。二階建ての比較的新しいモダンな2DKの集合住宅で二階の端部屋だった。
その前に榊原は一度住む場所を探しに来ていた。勤務する会社に近い方が良いが、妻には家賃や物価を考えて、郊外にしたと言って取り繕った。白梅町の近くで周りには北野天満宮、竜安寺、等持院と観光名所が有り散歩がてらに巡れば良い運動になる。紗和子は最初その場所を聞いて、もっと近いところの方が良いのに、と余りいい顔をしなかった。職場が近ければ朝はゆっくり出来て、帰りは早く帰ってこられる。何よりも店で何かあったときには直ぐに対応できる。とまあ当たり前のことを並べられた。そんなに遠くなく、徒歩とバスを乗り継げば三十分、接続が悪くても四十分、丹波に居たときより一時間は掛からない。それを言えばあそこは交通機関が少ないからよと言われた。職場が遠いのを敬遠する理由はもっと他に有りそうだ。それは二人ともお互いに言い出さなかった。
とにかくこの日は土日の連休を利用して、着いた荷物の整理に追われても、結局は一日で片づいた。翌日の日曜日にはほぼ整理が付いて、朝からのんびり出来た。なんせ今までは榊原の自宅に住んでいて、大きな荷物と日用品以外は実家にそのまま残してある。そのうちに何処かの支店を任される、と今はあくまでも仮の住まいだ。
春の陽だまりの中で紗和子と榊原は整理が済み、することが無ければ「朝から家に居てもしゃあない」と此の近辺を見ることにした。
二人は市内より先ずは、観光気分を兼ねて近くに見える山に向かった。まだ春休みなのか近くの公園には、学童期の子供達が遊んでいる。それを榊原は羨ましそうに眺めている。その横顔を捉えた紗和子は「子供って無邪気で良いわね」と言われた。そうだなあっと榊原も無理に合わせようとした。そこで紗和子はグサリと療治のことを言い出した。
「療治さんもやっと社会人の仲間入りなんでしょう」
無神経な女だと榊原は一瞬思ったが、直ぐに
「ああ、波多野の奴はやっと俺たちと同じ社会人の仲間入りかこれで少しは考えが落ち着くだろう」
「考えって?」
「自己中心的な処さ」
「あの人そんな身勝手だったかしら」
「まあ身勝手と言うより今までの学生気分のままじゃ居られないと云いたいだけだ」
「そうねあの人は今までが気楽すぎた処が有ったわね」
と紗和子は療治の気ままさに嫉妬心が湧いたのか、誰も相手する女が出来ないのよと吐き捨てた。
榊原には紗和子が口にした言葉で驚いた。以前に住む場所を探しに来て立ち寄った波多野の部屋へ訪ねてきた女の顔が浮かんだ。誰だろうこの前聞いた女じゃ無いだろう、でもただの友達にしては込み入った雰囲気だった。
「解らんぞ四年も此処に居れば彼女だって出来るだろう」
「アラ、そうかしらあの人に暢気な処があるかしら」
暢気と言うより、あの人自身に欠けた物があるかだと紗和子は云いたい。それは榊原も同感で、気付いてしまえば自分の殻に閉じこもりそうだ。
二人は目的も無くただ道に沿って歩いた。話題が波多野になると、人通りの少ない方へ自然と足が向いた。そこは一大観光地へと続く道だった。その道にはバスの停留所があり、バスが来ればたちまち降りた客で溢れ出す。観光バスと車は寺の敷地内に止まる。だから二人が今歩く道は観光客は誰も通らず、用の無い地元の人は尚更だ。そこで急に大きな通りが忽然と現れて来ると何これ! と二人は目を丸くした。そこは路線バスを降りた人々に押し流されて、駐車場からの流れと合流して大河になって流れ着いた先が竜安寺だった。
「此処があの有名なお寺なの」
此処は教科書に載っていた。あれは歴史の教科書じゃなかったか。確か都に近い丹波でも到底お目にかかれない人が暇に飽かして作り上げた。当時の食うや食わずの農民をあざ笑うような高貴な感性が作り上げた庭だ。二人はその近くに住むことになったのだ。
紗和子は榊原が意外と近いところに住まいを見つけた物だと感心した。しかし後で良く訊くとそうでもないらしい。郊外でも出来るだけバスの本数の多い場所を選んで決めて、他には中々見つからなかったと後で知った。
春の日差しが白砂の上に描かれた線を撫でるように延びて、無造作に置かれた十五の石(明日の無い生活を強いられた当時の人々の目にはそう映ったのだろう)に高貴な人が立ち並ぶ十五の石に意味を与えたようだ。しかし紗和子には丹波に転がる石と背景こそ違えども同じ素材にしか見えなかった。禅問答に似た無言の配置に、いったいどれだけの人が幸福を感じると謂うのよと鼻で笑った。
「これが教科書で見た石庭なの」
「何だ気落ちしたのか」
「そうじゃないわよ、余りにも生活感が無い庭で唖然としているだけ」
榊原は思わず笑ってしまった。
「此処は室町幕府の有力者が建てた禅宗のお寺で生活するもんじゃ無いんだ」
そう言えば教科書には、此の石庭しか載ってなかった。
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