第11話 少女の夢

 こうして八千代は、本当の意味で吉祥寺前線基地に受け入れられた。誰もがもはや警戒心を持たずに接しているようで、色々な人の質問攻めに遭っていたのだが、隊の一人が「あの……もう夜も深まってきたことですし、今日はそろそろ寝ることにしませんか?」と言ったことで、一気に就寝の流れになった。時計を見ると、もう十時半であった。大学時代も含めて過酷な生活をしていた樋里からしてみればこの程度の時間は深夜とは言えないのだが、一般人から見ればこれはもう「夜遅く」なのだ。樋里は、そんな健康的な生活を送ることの出来ている一般人を羨ましく思った。

 デパートのフロアいっぱいに布団を敷く。この布団もまた、非常時のために用意されていたものだったようだ。災害が起きたとてここで生活することがあるだろうかとも思ったが、あるものはありがたく利用させてもらうまでだ。

 八千代は樋里のすぐ隣で寝るらしい。曰く、「えっと……受け入れてもらえたとはいえ……今のところはよく知らない人ばかりなので……」と。正直、自分もその一人だし——他の皆だって、ここに集まったのは今朝なのだから、大差はないような気がするのだが——単純に、自分のことをもっともよく信頼してくれているのだろう。それは単純に、ありがたいことだ。長沼は相変わらず積極的で、「八千代ちゃ~ん、明日は色々お話聞かせてね~?」みたいなことを言っていた。

 さて、布団を敷き終えて、消灯の時間である。押立が「それじゃあ消しますよ~!」と叫んでいる。そして、それに対する「は~い」「分かりました~」という声が聞こえたと同時に、あかりが消えた。樋里も、

「皆さん、おやすみなさい」

 と言って、布団に入った。しかし、時刻はまだ十一時。すぐに眠りにつけるとは思っていなかったので、樋里は目を開けて、天井を見ていた。

 しばらくすると、隣の八千代が声をかけて来た。

「これ……結構寒いですね……」

 確かにその通りだ。館内には全館空調設備があるとはいえ、十一月の寒さを完全にしのげるかというと、そういうわけでもない。布団をかけても底冷えするという感じだ。

 思えば、あまりにも濃密すぎる一日だった。立川駅で目覚め、ニュースの情報を頼りに防災基地に行き、押立と合流して吉祥寺前線基地にやって来て、しかし防衛作戦に失敗して辛うじて無傷で逃げてきて、気まずさから外へ出たら八千代と出会って、連れ帰って、しかし箱根崎に受け入れを反対され、夕食を食べ、八千代の力でなんとか納得してもらい、そして今、就寝に至ったというわけだ。樋里は、議員生活の中でも、ここまで慌ただしい一日を送ったことは一度たりともなかった。

 それゆえ、溜まっている疲労も、これまでにないほど大きかった。少し瞼が重くなってきたかと思うと、何回かのまばたきののち——樋里は眠りに落ちてしまった。




 *  *  *  *  *


 少女は夢を見た。

 辺り一面には霧のようなものがかかっている。

 そんな得体の知れない空間に、長い長い平均台が置いてある。

 その始点には、誰か人がいる。

 その人は、少女に平均台を渡ることを求めた。

 少女は平均台を渡り始める。

 ゆっくりと、ゆっくりと、慎重に、慎重に……。

 しかし、「あの人」は「もっと速く」と少女を急き立てる。

 少女は、それでもスピードを速めることができずに、ゆっくりと歩みを進める。

 半分くらいのところまでやって来ただろうか、そう思った瞬間——。

 少女は、激しい吐き気と頭痛、そして眩暈めまいに見舞われた。原因は分からない。

 しかし、眩暈のせいで、まともにバランスをとることができなくなってしまった少女は——。

 平均台から落ちてしまった。

 平均台の始点では、「あの人」が大声で怒鳴っている。

 少女は、歩いてそこまで戻った。

 するとその人は、むちのようなもので彼女を叩いた。

 激しい痛みが少女の体を駆け巡った。

「痛い……! やめてください!」少女は叫んだ。

 しかし、その人は叩くのをやめず、平均台を渡ることを強要する。

「ごめんなさい」そう言いながら、少女はまた平均台を渡り始めた。

 しかし——。

 今度は、「あの吐き気」が、渡り始めてすぐに少女を襲った。

 そして案の定、少女は落ちてしまった。

 また、「あの人」は怒鳴っている。

「ごめんなさい」と繰り返して、彼女はまた戻っていく。

 その人は、またもや彼女に鞭を打つ。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい——。

 少女は、また渡り始める。しかし、また落ちてしまう。どうしても、渡りきることができない。そして怒鳴られる。鞭で打たれる。痛い。痛い。

 渡る、落ちる、怒鳴られる、鞭で打たれる、渡る、落ちる、怒鳴られる、鞭で打たれる、それを何度も繰り返した。

 そして、もう何度目の挑戦であっただろうか、少女は耐えきれず、その場に座り込んでしまった。

 しかし当然、「あの人」が情けをかけることなどない。耐え難い痛みが体を走る。少女の体はもはやボロボロであった。感覚が麻痺まひしつつあった。痛いのか、痛いのかも、もはやよく分からない。いや、確かに痛いのだが、もうどうすればいいのか分からないのだ。ただただ、辛くてたまらない。だから、とにかく謝るしかなった。両の手をいっぱいに握って涙を流しながら、少女は言い続けた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」


  *  *  *  *  *




「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい——」

 そう言っているうちに、目が覚めた。少女は辺りを見回し、隣に樋里がいることを確認すると、心の底から安堵した。あれは夢だったんだ。良かった。

 だが、良くないこともあった。周囲の人々は——皆彼女のことを見ていたのだ。もちろん、樋里も含めて。

 当然だ。十四歳の少女が、悪夢にうなされて「ごめんなさい」などと言い続けていれば、誰だって心配するものだ。なにせ、「少女」は涙まで流していたのだ。

 しかし、八千代はそんな彼らの様子を見て、申し訳ないことをしたと感じてしまった。そして、なんとなく皆に見られて恥ずかしい気持ちでもあったというのもあって、こう言ってしまった。

「……ごめんなさい、今のは——」

 言い終わる前に、樋里は八千代のことを抱きしめた。咄嗟とっさの行動だった。そして、こう言った。

「大丈夫だから。大丈夫、そう、だから……お願い、謝るのはやめてほしい……」

 その抱擁を咎めたり、揶揄やゆしたりする者は、誰一人としていなかった。

 樋里は、強い責任感を覚えていた。この子には、何か辛い過去がある。それは、僅か十四歳の少女には抱えきれないほど大きいものだ。だから、自分が支えにならなければならない。彼女の精神的な「支柱」になるのだ、と。

 周囲の人々もまた、恐怖と同情と憐憫れんびんとその他諸々が複雑に入り混じったような感情で、その場に静止していた。

 吉祥寺前線基地に、今までになく奇妙な沈黙が訪れた。長い長い、気味の悪い静寂だ。

 しかしそれは、ほどなくして破られた。

 入口警備にあたっていた人が、中へ駆け込んで来たのだ。

 彼らは樋里のところへ駆け寄ると、手紙のようなものを持ち出して、こう言った。

「樋里さん! !」

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